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第九十七章:嚢袋

ここまで読んできた皆さんなら、そろそろ「あの有名な戦い」が元ネタだと気付いた頃でしょうか。

地球知識、便利ですね。


……とはいえ、実際にやるとなると話は別です。

特に新兵だらけの軍隊で「ここで止まれ」「ここで曲がれ」をやるのはかなり無茶なので、今回は土塁を目印にしていました。

「――全軍、後退」


ドドドドドッ――!!


二千の中軍だけではない。両翼を含めた五千の陣形全体が、一斉に踵を返した。

まるで雪崩が起きるように。戦意が砕け散り、敵の圧力に耐えかねたように——少なくとも、そう見えた。


背を向け、一目散に逃げ出したのだ。


だが、五千の足裏に迷いは一切なかった。

彼らの視線の先には、明確な目標があった。事前に仕込んでおいた、平原に点々と盛り上がる「小さな土塁」。

それが彼らの(しるべ)だ。


(あの位置まで退き、到達したら即座に再編成を行う)


ただそれだけ。その単純なルールだけを、ヴァンは徹底的に五千人に叩き込んでいた。


両翼が動き始めた。

魔導兵と騎兵が、じわりと外へ広がっていく。

背を向けながらも、静かに、まるで獲物を包み込む顎のように。


「見ろ!」


ギュンターの豪快な笑い声が、土煙の舞う平原に響き渡った。


「堪らず逃げおったわ! 付け焼き刃の陣形め、圧力ひとつで紙切れ同然よ!」


コーマンは笑わなかった。

眉間に深い皺を刻み、目を細める。


五千の兵が退いている。

だが、整然としすぎている。速すぎず、遅すぎず。背中を見せているのに、なぜか「崩壊」の匂いがしない。


(……退きすぎていないか? いや、誘われているのか?)


嫌な予感が、静かに、コーマンの思考の底に沈んでいった。


「ギュンター殿」

「なんだ、コーマン! 追撃の号令をかけるぞ!」

「お待ちを。敵の左翼……あちら側の騎兵の数が不自然に少ない。何か罠の匂いがします。我が右翼を直接、中軍へぶつける。搦め手は無視だ。心臓を一息に潰す」


ギュンターは一拍だけ間を置いた。


「ふむ……よかろう。圧倒的な暴力で中央をぶち抜いてやる。やってみろ!」


だが、コーマンが右翼に指示を飛ばそうとしたその時だった。

右翼の騎兵大隊長は、すでに別のものに目を奪われていた。


退く敵の騎兵の群れの中に、ひとつの不自然な影。

はためく将校旗。

そして、その胸元にギラギラと光る、見覚えのある勲章の輝き。


「あれは――!」


大隊長の目が、血走るように見開かれた。


「ヴァン・ラークだ!! 敵将が、僅かな護衛だけで逃げているぞ!!」


バッ――!

命令を待たず、帝国軍右翼の騎兵の群れが、猛然と砂埃を巻き上げて走り出した。


ザッ、ザッ、ザッ――!!

馬蹄が大地を打つ。

影は逃げる。振り返りもせず、ただ遠く、遠くへ。


「逃がすな! あの首を獲れば演習は終わりだ! 追えェェ!!」


右翼騎兵のほぼ全隊が、命令を無視してその一点へと吸い込まれていった。


(……馬鹿め)


逃げる「ヴァン」――その正体は、ヴァンの軍服と勲章を着せられたただの兵士である。

ヴァンの陣営は、圧倒的に騎兵の数が足りていなかった。まともにぶつかれば、側面を破られるのは火を見るより明らかだった。

だから、あらかじめ特大の餌を用意していた。


「ギュンター殿!」


コーマンが声を荒らげた。


「右翼が勝手に突出しました! 罠です、戻らせ――」


しかし、もう遅かった。

中軍の先鋒が、完全に殺気立って動き出していた。


魔力全開。

帝国が誇る重装歩兵の列が、ドンッ、ドンッ、ドンッと地面を揺らしながら前進する。

目指すは、前方に凸型で飛び出したヴァンの本隊。


(まずい……!)


コーマンの呟きは、鼓膜を破るような地響きに飲み込まれた。


ガンッ――!!


盾と盾がぶつかる轟音が、平原を震わせた。

衝突。完全な、力と力の正面衝突。

先鋒が激突したのは、土塁の位置でピタリと停止し、瞬時に再編成を終えたヴァン軍の中央だった。


「お前たちの指揮官は逃げたぞ!!」


ギュンターが馬上から吠えた。戦列全体を横断するような、魔力を帯びた大音声。


「あの旗を見ろ! ヴァン・ラークは貴様らを捨てて逃げたのだ! 降伏しろ!!」


その瞬間、ヴァン軍の防線が揺れたように見えた。

足が乱れ、盾の列に僅かな隙間が生まれる。


ドドドドド――!


「いけるぞ! 押し込めェ!!」


先鋒が力任せに押し込む。

凸型の先端だったヴァン軍の中央が、帝国の圧力に耐えかねて平らに戻っていく。

さらに押される。

陣形が、真ん中から凹み始めた。


「押せ! 押し潰せ!」


ギュンターが叫ぶ。

帝国軍の中軍全体が、無意識のうちに漏斗状に絞り込まれ、凹んだヴァンの本隊へ向かって圧力を集中させていく。


――ピーーーーッ!


その時、最前列で激しい衝撃音が弾け、ひとりの兵士が吹き飛ばされた。


「ぐわっ……!」


地面に倒れ込んだ瞬間、兵士の胸元に取り付けられた魔導器が、眩しい赤色の光を放った。

演習における「ロスト」の判定である。


同時に、赤い光は半透明の障壁となって倒れた兵士の全身を覆った。


「あーあ、やられたか」


「おい、早く丸まれ! 踏まれるぞ!」


一切の戦闘行為を禁じられる——それが演習の鉄則だ。 シールドがあるとはいえ、数千のブーツに蹴られ続けるのは御免である。


戦場は今や、赤い光を放つ「死体」が点々と転がる、異様な光景と化していた。


「――ビビるな」


そんな喧騒の中、ヴァンは傍らの伝令兵に短く言った。

短く。明快に。


「俺はここだ。見捨てちゃいねぇよ。今、向こうさんは、全部俺の掌の上だ」


ヴァンは陣形の最後尾から、冷徹な目で盤面を見下ろしていた。


「各自、持ち場を守れ。死に物狂いで耐えろ」


じりじりと、ヴァンの中軍は削られている。赤い「死体」の数が増えていく。

実力差は本物だった。人数の差も本物だ。

中軍はどんどん凹んでいく。防線は薄くなる。漏斗の先端が、ヴァンのいる位置まであと数十メートルのところまで迫っていた。


帝国軍の陣形は、完全に漏斗型に絞り込まれていた。

「力こそ正義」を信じるまま、ただ前へ、前へと押し続けている。


「……ん?」


帝国軍の古参兵が、ふと足元を見た。

踏み込んだ地面が、ぐずりと嫌な音を立てて沈んだ。


「なんだ、これは……」


水が滲んでいる。泥が湧いている。事前に土属性の魔導師が仕込んでいた泥濘のトラップだ。


「泥濘か!?」


ギュンターは眉をひそめたが、一瞬だけだった。すぐに鼻で笑い飛ばす。


「たかが泥だ! 我らには魔力強化がある。足が多少遅くなる程度、力でねじ伏せろ! 前進を続けろ!!」


ズン、ズン、ズン――。


足が重い。沈む。

一歩進むのに、通常の二倍の体力を喰う。

それでも、帝国軍は止まらなかった。いや、止まれ「なかった」のだ。

後ろからも味方の兵が押し寄せている。漏斗の圧力は、泥など関係なく、前方へと強制的に働き続けていた。


中軍は、極限まで深く凹んでいた。

限界だ。陣形が千切れる寸前。


ヴァンは、そっと額の汗を拭った。


(……早く。早く来い)


視線だけを、左翼の方角へ向ける。

砂埃が舞い上がっていた。轟音が響いていた。

そして――。


バサァッ!!


将校旗が翻った。

味方の旗だ。

偽のヴァンを追って陣形から完全に遊離した敵右翼を無視し、無傷で回り込んだ七百の精鋭が、敵の左翼を完全に粉砕した合図だった。


すべては、彼の描いた図面の通り。

敵は完全に、ヴァンの掌の上で踊らされていた。


「伝令」


ヴァンは振り返った。声には一切の感情がない。


「はっ!」

「両翼の歩兵に告げろ」

「――プレス」


ドドドドドドドッ――!!


その瞬間、平原の空気が変わった。

それまで「凹む」ことで防御と後退に徹していた両翼の歩兵が、突如として反転し、横から猛然と押し出してきたのだ。


漏斗の外側が、突然、巨大な牙を剥いた。


ギュンターがハッとして振り返った。

コーマンが絶望に目を見開いた。


「馬鹿な……! まだあんな余力が残っていたというのか……!!」

ギュンターは顔を歪ませ、剣を振り上げた。

「退くな! 全力で突破する! ここまで来て引けるか! 前へ! 前へ出ろォォ――!」


ドドドドドドドドドッ――!!!


だが、ギュンターの怒号を掻き消すように、後方から別の地響きが迫ってきた。

騎兵と魔導兵の混成部隊だった。

彼らは、完全に無防備となった帝国軍の背後に、無慈悲な死の楔を打ち込んだ。


バキッ! ガンッ! ドォン――!!

赤い「死体」のランプが、後方から連鎖的に点灯していく。


「な――!」

「我が騎兵はどうした!!」

「右翼の騎兵は……戻ってきません! はるか遠くで、偽物の旗を追いかけています!」

「左翼も……完全に突破されました!!」


コーマンの顔から、一切の表情が抜け落ちた。

それは、純粋で、静かで、冷え切った認識だった。


(……この男は、最初から、こうするつもりだったのか)


前から剣戟の音がする。

横から鬨の声が迫る。

後ろから蹄の音が突き刺さる。


ギュンターが馬上で立ち上がり、狂乱したように叫んだ。


「ど、どこから――どこから敵が来ている!!」


「……包囲されています」


コーマンは静かに言った。

ゆっくりと目を閉じ、そして開いた。もはや、足掻く気力すら湧かなかった。


「ギュンター殿。我々は、完全に包囲殲滅の罠に落ちました」


漏斗型に突き込んだはずの無敵の陣形は。

今、一切の逃げ場を持たない「嚢袋(ふくろ)」になっていた。


そして入り口の紐は、ヴァン・ラークという男の手によって、すでに固く、固く結ばれていた。




【第九十七章・終】

あとギュンター将軍、たぶん本人は最後まで「押せば勝てる」と思ってます。

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