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第九十六章:凸

今回は、


・妙に前に出ている中軍

・敵をわざと密集させる誘導


あたりが特徴になっています。


あと、たぶん気づいた人もいると思いますが、今回の流れにはかなり元ネタがあります。


さて、どの有名な会戦でしょうか。

自陣に戻ったヴァン・ラークは、開戦までの時間を一秒たりとも無駄にしなかった。


各大隊の士官を順番に天幕へ呼び入れ、最終的な作戦指示を出した。


彼らにはそれぞれ、ばらばらで要領のつかめない任務が割り当てられた。全体の戦術図は教えない。

ただ「合図があったらこれをしろ」「この位置まで来たらこう動け」とだけ伝える。まるでからくり箱の歯車みたいな指示だった。


そして、ヴァンは全ての指示の総括として、冷徹にこう締めくくった。


「実戦経験のない新兵たちに、複雑な戦術行動をさせるな。ただ、俺が今言った『単純な作業』だけを徹底させろ」


士官たちは、拍子抜けしたような顔をした。

それでも、彼らは反論せず、ヴァンの言葉を一字一句漏らさぬようメモ帳に書き留めていった。


最後に呼んだのは、中軍の指揮官たちだった。

二千人を率いる、この『凸字型』方陣の核にして最前列を担う男たちだ。


ヴァンは彼らの顔を、一人一人じっくりと見据えた。

若かった。緊張で顔が引きつり、呼吸も浅い。それでも、帝国軍人としての矜持を保ち、背筋を伸ばして立っていた。


ヴァンは、あえて冷徹な事実を口にした。


「お前たちは今日——敵軍一万の全ての標的になる」


天幕の中に、凍りつくような静寂が落ちた。


二千という数字が、ただの『囮』として、一万の敵の暴力を真っ向から受け止める肉の盾になる。そう悟ったのだろう。

士官たちの顔が、一瞬にして青ざめ、強張った。

誰かが、絶望を噛み殺すように喉の奥で息を呑む音が聞こえた。


だが、ヴァンは言葉を続けた。


「俺は戦いの間、ずっと、お前たちのすぐ後ろに立っている」


数秒の間を置いた。ヴァンの眼差しが、熱を帯びる。


「お前たちなら必ず俺を守り切れると信じているから、俺はそこに立つんだ」


誰も何も言わなかった。

だが、天幕の空気が、劇的に変わった。

彼らの顔に張り付いていた死への恐怖と強張りが、熱のある『誇り』へと塗り替えられていくのが分かった。


(……これでいい)


ヴァンは内心で頷き、彼らを戦列へと送り出した。




空が白みきった頃、大軍が動いた。


平原は果てしなく広く、空はどこまでも高かった。

五千の軍旗が風を受けて、バサバサと重い音を立てている。


遠くの地平線が、鋼鉄の波に塗り替えられていくのが見えた。

一万の軍勢だ。


ヴァンは隣に立つ大柄な通信兵——『拡声』の使い手に目をやった。


「列陣。それと、後方の特殊施法隊を動かせ」

「はッ!」


魔法で増幅された号令が、ザッセン平原を駆け抜けた。


序盤の展開は、帝国軍の教本通りだった。

かつてエリアスが確立した、全大陸共通の大方陣戦法。


まず、遠距離魔法の撃ち合いから始まる。防御結界を張って互いの魔力を削り合い、消耗しきったところで魔導兵と騎兵が側面から突撃する。

泥沼の混戦に持ち込んで、最後は数と練度で決着をつける。

どの国も、どの軍も、それが「正しい戦争」だと信じている。


両軍がじりじりと前進する。

青草を踏む音。鎧の金属音。

膨大な魔力が、空気に滲み、肌をピリピリと焼く。


距離、百メートル。

軍規模の巨大な防御結界が、双方から展開された。半透明の光の膜が、平原に二つの巨大な壁を作った。




その時。

敵陣の指揮台に立つギュンターは、不快そうに眉をひそめた。


「……なんだ、あの陣形は」


敵の五千の陣形。その中軍の二千だけが、両翼よりも不自然に前に突き出ていた。

『凸字型』。中央だけが孤立した、およそ常識外れの奇妙な陣形だった。


コーマンが隣で冷静な分析を口にする。


「中軍を極端に前に出し、両翼を引いています。意図は——」


「どうでもいい」


ギュンターは短く遮った。


「やれ」




帝国軍一万から、遠距離法術が一斉に放たれた。


ドォォォンッ、と平原の空気が物理的に揺れた。


火炎。

氷柱。

雷光。


幾十、幾百もの殺戮の術式が、ヴァンの軍が張った防御結界に容赦なく叩きつけられた。


バァンッ。バァンッ、バァンッ!

結界が激しく揺れ、光の破片が散る。


しかし、ヴァン側からの反撃魔法は——無かった。

ただの一発も、撃ち返してこない。


ギュンターはそれを見て、コーマンに言った。


「防御だけで手一杯らしいな。実戦経験のない新兵では、魔力の制御すらままならんか」


コーマンは冷静に戦況を分析し、進言した。


「敵は防戦一方です。我々は定石通り、このまま遠距離からの魔法攻撃を継続し、敵の結界と魔力を完全に消耗させるべきです」


ギュンターは鼻で笑った。


「いや、その必要はない」

「ギュンター将軍?」

「反撃すらできない弱兵に、これ以上時間と魔力を使う意味はない。方陣を組み直せ。全軍、突撃隊形だ」

「——今、ですか」

「今だ」




一万の軍が、波のように動いた。

横に広く展開していた隊列が、ギュッと左右に圧縮され、肩と肩が触れ合うほどの、極度の密集隊形。


そして、魔力の微光が、兵士たちの輪郭に沿って灯り始めた。

『身体強化魔法』だ。

肉体の限界を底上げし、白兵戦の破壊力を極大化させる、帝国軍の基本にして最強の根幹。


一人が光る。

隣も光る。さらに隣も。

それが連鎖し、一万の軍勢が、一つの巨大で暴力的な『光の塊』へと変貌していく。


コーマンの顔色が変わった。


「お待ちください、ギュンター将軍! ヴァン・ラークは頭の回る策士です。開戦前、あいつがわざわざ我々の前で『密集陣形に弱い』などと自軍の弱点を暴露したのです。あれは間違いなく、我々を密集突撃に誘導するための罠です!」


ギュンターは前を見据えたまま、答えなかった。

少しして、低く地を這うような声で口を開いた。


「罠? ……だからどうした」


「ギュンター将軍!」


「コーマン。この演習の『政治的な意味』を忘れるな」


ギュンターの瞳に、歴戦の武将特有の獰猛な光が宿る。


「敵が姑息な罠を張っていようが関係ない。罠ごと、あのふざけた中軍を正面から一瞬で粉砕し、士気を根本から挫く。被害ゼロとは言わん。だが、どんな奇策も『絶対的な質と量の前では何の意味もなさない』のだと、圧倒的な力で叩き伏せる!」


ギュンターは拳を握りしめた。


「それこそが、『帝国の猛進こそが正道である』という美学に則った、圧倒的な勝利の証明になる!」


コーマンは黙った。

罠の匂いは消えない。だが、軍上層部が望んでいるのが「小賢しい戦術の勝利」ではなく、「帝国美学の証明」だ。

だから、妥協した。


「……承知しました」




一万の光が、動き始めた。


地平線が、新しい線を引いたように見えた。

魔力で白く輝く一万の密集方陣が、大地を踏みしめて前進する。


音が変わった。

草を踏む音が、地殻を砕くような『地鳴り』へと変わった。


ヴァンは指揮台の上から、その光景を静かに見下ろしていた。

光の潮だった。

一万の強化魔法が揃った時の圧力は、物理的なものだけじゃない。精神を直接殴りつけてくるような威圧感がある。


(——なるほど。これは確かにすげえな)


帝国がなぜこの「力こそ正義」の戦法を狂信しているのか、ほんの少しだけ分かった気がした。

この理不尽な光景を真正面から見せられれば、足が竦んで逃げ出す者が出ても不思議じゃない。


だが、ヴァンの口の端は、歪に吊り上がっていた。

(ギュンターのやつ、俺の『密集陣形が弱点だ』という忠告をしっかり聞き入れて、一番最悪な密集陣形を組んでくれたな)


罠だと分かっていても、いや、罠だと分かっているからこそ、帝国の美学に従って真っ直ぐに轢き潰しに来る。

本当に、分かりやすい連中だ。


ヴァンは後ろを振り返った。

後方に配置した特殊施法隊たちが、開戦前から必死に積み上げていた『低い土塁』が並んでいた。

中軍の足元に、低く、整然と。


ヴァンは隣の通信兵に目をやった。

口の端をわずかに歪めた。


「後退だ」


短く、だが決定的な響きを持って。


「全軍——後退!」




【第九十六章・終】

「密集陣形が弱点です」

とわざわざ言った相手に対して、本当に最大密集で突っ込んでいくギュンター。


でも、彼らからするとそれは単なる脳筋ではなく、

「帝国の正道を証明する」

という美学でもあります。

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