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第九十五章:開戦前夜

今回は、開戦前の最終確認回でした。

夜明け前、軍営の中はひどく静かだった。

だが、寝心地は最悪の一言に尽きる。ヴァン・ラークはまるで眠れなかった。


野戦用の簡易ベッドは背中が痛くなるほど硬い。鼻を突くのは泥と革、そして男たちの汗の匂いだ。平民の暮らしには慣れているつもりだったが、この殺伐とした軍営の空気は、どうにも肌に合わなかった。


起き上がると、平原の冷えた空気が顔を叩いた。


(緊張、か)


認めたくはないが、そういうことだ。


空はまだ暗い。

夜明けまで、まだ数時間ある。ヴァンは立ち上がった。


「使える時間は使うしかない」


最低限の装備を整えて、天幕を出た。

入り口では歩哨が二人、鈍い光を放つ長戟を持って立っていた。


平原の青草が夜風に揺れていた。

ヴァンはそのまま自陣の境界を越え、敵陣の方角へ足を向けようとした。遠くに無数の篝火が見えた。


(兵力配置。陣形。展開の方向——)


近づけば近づくほど、分かることが増える。もう少しだけ前へ——


「——止まれ」


自陣から一歩踏み出そうとした瞬間、横から声がした。

審判組の巡察だった。


「演習区域外への移動は禁止されています。自陣に戻りなさい」

「偵察だ」

「は?」

「遭遇戦なら、斥候を出すのは当然だ。俺が行く」


審判組の軍官は呆れたように眉をひそめた。


「……指揮官自らが夜間偵察に行く軍隊がどこにありますか。それに、規則で演習開始前の物理的な接触や越境は禁じられています」


しばらくの押し問答の末、審判組の軍官は深くため息を吐いた。


「……分かりました。これ以上の無断行動を控えることを条件に、仮想偵察の結果として初期情報を開示します」


「それで構わない」


得られた情報は、大まかだが絶望的なものだった。


歩兵が主力。騎兵と魔導兵を合わせて約二千。残り八千が純粋な歩兵戦力——


(これに正面から当たれば、一瞬で潰される)




夜明けとともに、軍営が動き始めた。


ヴァンは幹部たちを叩き起こして、再編成の最終確認をした。

土属性の魔法を扱える者を選別して、後方に特殊施法隊を組んだ。

実力上位の者を抜き出して、七百の精鋭分隊を仕上げた。

昨日のあの大柄な兵士——『拡声』の魔法を使える通信兵を、自分の傍に置いた。


編制は、こうなった。


中軍に二千を置き、両翼に魔導兵と歩兵を混成させて千五百。騎兵は左翼に、精鋭七百は右翼に。後方には土属性の施法隊五百を残した。

指揮台から眺めると——帝国の教本とは、全く違う形だった。


『力こそ正義』を信条とする旧来の帝国式陣形とも、全く異なる。

だが新兵たちは、不満を言わなかった。むしろ、あの演説の熱に浮かされたような、妙な信頼の目で動いていた。


(それが、いちばん厄介だった)


万が一、中軍が凹まされたら。右翼が間に合わなかったら。そもそも、俺の判断が——

(考えすぎるな)

分かっている。だが止まらない。


前世で遊んだゲームの画面の向こうには、血の匂いも、この胃がひっくり返るようなプレッシャーもなかった。


開戦まで三十分、という頃。

審判組から呼び出しがかかった。


「両軍指揮官、中央へ集合」




平原の中央近く、審判組が設けた仮設の天幕だった。

相手側の指揮官が、すでに立っていた。

ヴァンは相手の顔を見て、一瞬、足が止まった。


「紹介する」


審判員が言った。


「敵軍指揮官——ギュンター将軍、コーマン将軍。それぞれ、マルクス第一軍団、ルキウス第二軍団より急遽選出された将軍です」


ギュンターとコーマン。


(コンラートじゃない)


四十前後。学院の臭いが一切しない。戦場で育った顔だ。

ヴァンは黙って二人を見た。


「コンラート教授は、どうしたんですか」


審判組の者が淡々と答えた。


「エリアス殿との『戦争論』盗用疑惑の件で、現在軍務局の査問を受けており、謹慎処分となっております」


(なるほど。場外乱闘のせいで臨陣で将がすり替わったか。しかも、出てきたのは厄介な実戦派だ)


握手をした。

ギュンターの手は大きかった。節ばった、分厚い手だった。


「若いな」


ギュンターが言った。悪意ではなく、純粋な感想だった。


「戦術の話、楽しみにしているよ」


コーマンが薄く笑った。揶揄ではなかったかもしれないが、明らかに「学者先生のお遊戯」と見下されていた。


「では、開戦前の最終確認に移る」


審判組の者が一歩前に出て、小型の魔導器を手のひらに乗せた。胸元に着けるタイプの徽章型だった。


「これは本演習用の判定魔導具だ。装着者が戦闘不能と判定された場合、自動で黄色い燐光を発する。これが『死亡』の合図だ」


ヴァンは魔導器を手に取り、軽く裏返して観察した。


「混戦の最中にこれが光っても、誰も気づかないんじゃないですか。最悪、倒れた兵が踏み潰される」

「そのための措置として、判定発動と同時に障壁が展開される。強度は低いが、周囲に倒れた者の存在を知らせるには十分だ」

「周囲に?」

「複数の兵士が折り重なるように倒れた場合、障壁同士が干渉し合って強度が増す仕組みになっている。簡単には踏み潰せんよ」


ヴァンは魔導器を胸元に装着しながら、小さく息を吐いた。


「やけに行き届いてるな」

「演習とはいえ、五千対一万の会戦だ。事故があれば軍の沽券に関わる」

「では、双方に異論がなければ、速やかに帰還して——」

「待ってください」


ヴァンが口を開いた。

場の全員が、ヴァンを見た。


「この演習のルールには、致命的で不合理な点があります」


場が静まり返った。


「敵は二倍の兵力です。遭遇戦で、指揮所も補給線もない。勝利条件は全滅か降伏のみ」


審判組の者が怪訝そうに眉を動かした。


「……つまり」


ヴァンは短く、苦い息を吐いた。


「敵が小細工を一切捨て、一万の兵を単一の『密集陣形』にして、真っ直ぐ中央に突っ込んでくれば——それだけで構造的に詰みになる。陣を崩す間も、補給線を断つ空間もない。ただ圧倒的な質量の暴力に、真正面から轢き潰される……このルールの最大の欠陥です」


ギュンターが腕を組んだ。

コーマンの目が、わずかに細くなった。


審判組の者が冷たく答えた。


「——それは承知の上です。地形を使え、戦術を使え、何を使っても構わない。それを考えるのが、指揮官の仕事でしょう」

「ルール修正はしない、ということですか」

「当然です」


ヴァンは、ひどく悔しそうに短く息を吐いた。


(やっぱりそうか)


その時、ギュンターが口を開いた。


「面白い男だな」


声に、少し獰猛な笑いが混じっていた。


「開戦直前、敵将の前でわざわざ自軍の致命的な弱点を言い立てる指揮官は初めて見たぞ」

「ルールの不備という事実を確認しただけです」

「そうかもしれん」


ギュンターは腕を組んだまま、続けた。


「だがな、小僧。帝国の戦い方は『圧倒的な質と量による猛進』だ。それは昔も今も変わらん」


少し間を置いた。


「そういう『密集陣形での突破』を、我々がするかもしれない。あるいはしないかもしれない。お前に教える義理はないが——泣き言をほざいたところで、我々の歩みが止まるとは思うなよ」


揶揄だった。

ギュンターの目の奥で、何かが決まった。

ヴァンは静かに視線を外した。


「では、双方帰還。開戦に備えよ」


審判組が告げた。




【第九十五章・終】

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