第五篇 崩御と評
第五篇 崩御と評
1276年の冬、王は病を得た。リンドガル公ギュンテルが没した年の冬である。初めは咳で、聖燭の月には床を離れられなくなった。王は床の中でも朝の帳を読むことをやめず、読めなくなると王子コンラートに読ませて聞いた。年が明けて芽吹きの月に一度床を離れ、刈入れの月の評定には自分の椅子に座った。これが王の出た最後の評定である。王は五十八歳、サルメア公はロデリクの子ハインリヒ、リンドガル公はギュンテルの子で、三脚の椅子のうち二脚には中洲を知らない代が座っていた。この評定で王は席次と椅子を変えないこと、関所を二度と置かないこと、堰の水を三つに分けることの三つを、改めて条に書かせた。いずれも二十年前に定めたことで、新しいことは一つもなかった。
1277年の白霜の月、病が重くなった。王は諡のことを問う者に、諡は要らぬ、川の名の国が残ればよい、と言った。伝はこの言葉を、王の言葉の最後のものとして記す。評定が王の死後に諡を定める習いは三国のどこにもあり、王はそれを知っていて、要らぬと言ったのである。王妃アデライドはこの年まで王のそばにあり、王女イルゼは南から戻って冬を王都で過ごした。聖燭の月、王は王子コンラートを枕元に呼び、穀倉の帳と関の帳を渡した。帳は父レオドール二世が舟手の帳を城丘に上げさせた年から四十年分がそろっていた。王はその夜、王都から河口までの渡しの名を順に言い、コンラートに繰り返させた、と伝は記す。舟手の子のように諳んじた名を、王は最後まで忘れなかった。
1278年の白霜の月、王は王都の城丘で崩御した。朝、帳を読み終えたあとのことであった、と伝は記す。五十九歳。即位から三十一年、統一から二十二年だった。王は城丘の父レオドール二世の墓の隣に葬られた。墓石には名と生まれた年と崩御の年だけが刻まれ、諡は刻まれていない。葬りが諡の評定より先だったからで、評定ののちも刻み足されなかった。葬りには王子コンラートと王女イルゼ、サルメア公ハインリヒとリンドガル公が並び、二人の公は旧領の兵を連れずに来た。王都の民は結い橋の上から葬りの列を見た。崩御の報せは舟手の舟で川を下り、サルメアの都にもリンデンにも三日のうちに届いた。かつて三国の兵が挟んで向かい合った川を、報せの舟だけが下った。
王子コンラートが即位し、コンラート一世となった。三十歳だった。即位ののち、王都からマハルーナへ代替わりの挨拶の使いが送られた。王が統一の前も後も使いを送らなかった土地に、新しい王が初めて使いを送ったのである。以後、王が代わるたびに王都からマハルーナへ挨拶の使いが出ることが習いとなった。
崩御の年のうちに、三家評定が開かれた。コンラート一世、サルメア公ハインリヒ、リンドガル公の三人で、三人とも中洲の卓を知らない。コンラート一世は父の座っていた椅子に座り、椅子の高さは変えられなかった。この三人の最初の共同の仕事が先王の諡を定めることであった。王は諡を要らぬと言っていたが、評定はそれでも定めた。評定には幾つかの名が挙がった。三年の戦の勝ちを取った名もあり、三つの国を一つにしたことを取った名もあった。選ばれた諡は講和王である。三国を和したる王、という意味で、戦の字をあえて用いなかった。三年の戦に勝った王の諡から戦の字を外すことを、三人は三人とも望んだ、と伝は記す。この諡の条は三家評定記の1278年の条にある。同じ評定でコンラート一世は父の定めたことを一つも変えなかった。関所は閉じたまま、銀貨は剣と冠のまま、評定の椅子は三脚のままである。
伝を記した史官ギルベルト・ハーネは、王に仕えて三十年、王の最後の評定にも、葬りにも、諡の評定にも席にいた人である。伝は崩御の三年のち、1281年に成り、王家の書庫に納められてアルデン列王伝の第十七巻となった。伝は末尾に史官の評を置く。史官はその評の中で、王が談判の中身を終生語らなかったことに触れ、自分が問うて答えられなかったことを隠していない。評は次の一句で閉じられ、本書もこの一句で閉じる。
王は戦の巧者にして、それに勝る言葉の巧者であった。
王国歴1597年 実りの月
王都アルデン 環状大路の写本工房ヴェスタの手になる写し
底本は同工房に伝わる王国歴1402年の抄
原本は王家の書庫の『アルデン列王伝』第十七巻




