第3話 忘れられた英雄
メアリー・レオンハート。
メアリー・レオンハート。
メアリー・レオンハート。
騎士団の詰所を出てから、私は何度その名前を頭の中で繰り返しただろう。
「メアリー・レオンハート……」
声に出してみる。
やっぱり、いい名前だ。
十年間ずっと名前すら知らなかった。
私とお母さんを助けてくれた、憧れの騎士。
それだけだった人にようやく名前がついた。
それだけじゃない。
《緋色のメアリー》。
《スカーレット・メアリー》。
二つ名まで持っているほどの騎士だったのだ。
「これなら……見つけられる!」
名前が分からなかった昨日までとは違う。
メアリー・レオンハート。
しかも《緋色のメアリー》と呼ばれていたほど有名な騎士。
これだけ分かれば、きっと知っている人もたくさんいるはずだ。
そう思った私は、さっそく王都で聞き込みを始めることにした。
◆
「すみません!」
「ん?」
最初に声をかけたのは、露店で果物を並べていた若い男性だった。
「メアリー・レオンハートという人を知りませんか?」
「メアリー?」
男性が首を傾げる。
「誰それ?」
「え?」
「有名な人?」
「はい!」
私は大きく頷いた。
「《緋色のメアリー》です!」
「……すまない、知らないなぁ」
「……えっ?」
「悪いね」
男性はそう言って仕事に戻っていった。
「……たまたま、だよね」
きっと、そういうこともある。
王都には、これだけたくさんの人がいるのだから。
全員が知っているわけではない。気を取り直して、次の人へ向かう。
「すみません! メアリー・レオンハートという騎士を――」
「知らない」
「《緋色のメアリー》って呼ばれていて――」
「聞いたことないな」
次。
「長い赤い髪の女騎士で――」
「さあ?」
次。
「白いマントを着けていて――」
「ごめんなさい。分からないわ」
次。
「十年前の《大スタンピード》で――」
「十年前? 俺、その頃まだ子供だしなぁ」
「…………」
次。
「《スカーレット・メアリー》です!」
「スカーレット……?」
「はい!」
「……酒の名前?」
「違います!」
次。
「メアリー・レオンハート!」
「知らない」
「《緋色のメアリー》!」
「知らない」
「赤い髪!」
「知らない」
「白いマント!」
「知らないって」
「すごく強いんです!」
「だから知らないって!」
「…………」
おかしい。
私は大通りの端で立ち止まった。
「……なんで?」
二つ名まであるのに有名だったんじゃないの?
騎士団の人は、名前を聞いただけで分かった。
《緋色のメアリー》とも呼ばれていたと言っていた。
それなのに。
「誰も知らない……」
正確には、本当に誰も知らないわけではないのかもしれない。
でも、少なくとも私が声をかけた若い人たちは、ほとんどメアリーさんの名前を知らなかった。
中には《緋色のメアリー》という二つ名すら聞いたことがない人もいる。
十年……その時間の長さを、私は初めて少しだけ感じた。
私にとっては、昨日のことみたいに覚えている。
でも。
今、私と同じくらいの年齢の人なら十年前は、まだ子供だ。
もっと若ければ、覚えてすらいない。
「そっか……」
だったら、十年前のことを知っていそうな人に聞けばいい。
私は周囲を見回した。
そして、少し離れた場所で店を構えている、中年の男性へ視線を向けた。
「よし!」
今度こそ。
◆
「すみません」
「ん?」
店先で品物を並べていた男性が顔を上げる。
「あの、人を探しているんです」
「人探しか?」
「はい。メアリー・レオンハートという人なんですけど」
その瞬間、男性の手が止まった。
「…………」
「《緋色のメアリー》って呼ばれていたそうなんですけど」
男性が、ゆっくりと私を見る。
「……嬢ちゃん」
「はい?」
「その名前……どこで知った?」
「騎士団の人に教えてもらいました!」
「騎士団……」
「十年前、《大スタンピード》の時に私とお母さんを助けてくれた人なんです!」
「…………」
「今、その人を探していて――」
「知らん」
「え?」
男性は視線を逸らした。
「そんな女、知らん」
「でも今――」
「知らんと言ってるだろ!」
先ほどまでとは違う。若い人たちは、本当に知らない顔をしていた。
でも、この人は……
「……あの人のこと何か知っているんですか?」
男性の眉が、わずかに動いた。
「……緋色、ね」
「はい!」
「……あんたは、その名しか知らないのか?」
「え?」
「悪いが他を当たってくれ」
それ以上、話してくれる様子はなかった。
私は戸惑いながら店を離れた。
「…………」
なんだろう。
さっきまでとは違う。知らないんじゃない。
知っている。
なのに。話したくない?
そんな感じだった。
「……たまたま、かな」
もう一人、聞いてみよう。
◆
「メアリー・レオンハート?」
年配の女性が、私の言葉を繰り返した。
「はい!」
「…………」
やっぱり。
今度も名前を聞いた瞬間に、表情が変わった。
「《緋色のメアリー》と呼ばれていた騎士です」
「……あんた」
「はい?」
「その人を探して、どうするんだい?」
「会いたいんです」
私は迷わず答えた。
「十年前に、私とお母さんを助けてくれたんです」
「…………」
「私、その人に憧れて騎士になりました」
胸を張る。
「だから、ずっとお礼を言いたくて」
女性は何も言わなかった。
「今どこにいるか、知りませんか?」
しばらくして女性は静かに首を横に振った。
「知らないね」
「そうですか……」
「…………」
「ありがとうございました」
頭を下げて立ち去ろうとする。
その時。
「嬢ちゃん」
呼び止められた。
振り返る。
年配の女性は、少し迷うような顔をしていた。
「……悪いことは言わない」
「え?」
「その人を探すのは、やめておきな」
私は意味が分からず、瞬きをした。
「え? どうしてですか!?」
「…………」
「何かあったんですか?」
女性は答えない。
「メアリーさんに、何か――」
「いいかい、お嬢ちゃん……知らない方がいいこともあるよ」
「でも!」
「帰りなさい」
その声は。
怒っているわけではなかった。
むしろ……私のことを心配しているように聞こえた。
だからこそ、余計に分からなかった。
「…………」
どうして?なんで?
あの人は私とお母さんを助けてくれた。
怖いと言いながら。
それでも一人で魔物のところへ向かった。
《緋色のメアリー》。
騎士団の人だって、そう呼んでいた。
英雄だった。
なのに、どうしてその人を探すなと言われるのだろう。
◆
それからも。
私は何人かにメアリーさんのことを聞いた。
結果は、ほとんど同じだった。
名前を聞いても若い人たちは知らない。
《緋色のメアリー》と言っても。
首を傾げるだけ。
でも、十年前のことを知っていそうな人たちは違った。
名前を聞いた瞬間、黙る。視線を逸らす。
知らないと言う。話を切り上げる。
中には。
「昔の話だ」
「もう忘れた方がいい」
そう言う人までいた。
おかしい。絶対に、おかしい。
夕方、王都の大通りを歩きながら、私は考えていた。
メアリー・レオンハート。
《緋色のメアリー》。
十年間。
ずっと会いたかった人。
名前さえ分かればすぐに見つけられると思っていた。
でも、名前を知ったことで。
むしろ分からないことが増えてしまった。
「メアリーさん……」
私は、その名前を小さく呟いた。
若い人は知らない。でも、年配の人は知っているのに、話してくれない。
それならもっと情報が集まる場所へ行った方がいい。
そこで、ふと思い出す。
「……そうだ」
冒険者ギルド。
各地から人が集まる場所。
さっきは騎士団の場所を聞いただけで飛び出してしまったけれど。
今度は、ちゃんと話を聞こう。
そう決めて。
私は、来た道を引き返した。
メアリー・レオンハート。
ようやく知ることができた、私の英雄の名前。
なのに。
その名前を知れば知るほど、あの人が遠くなっていく気がした。
十年前。
あの人に――
いったい何があったのだろう。




