2
ダリアの悲しい背中を見送ったエマリエルは、やるせない気持ちでいっぱいだった。
ジョシュアとの結婚が決まった時、幼い頃に同じ事で笑い合った事を思い出した。
それと同時に、ジョシュアがある女性を遠くから見つめている姿が脳裏に浮かんだ。
自分も経験したからこそジョシュアの気持ちはわかるし、否定する気もなかった。
ただ、一生自分は愛される事はないのだろう、とエマリエルは思った。そもそも政略結婚というのはそういうものだ。
ノルヴェイン国では特別な事がない限り、生涯一人しか妻を持たないのが一般的だが、他国ではそうではない所もある。
それに比べたら自分はまだ幸せな方だと思い、彼のためにも、自分のためにも、一定の距離を取ろうと決めて祖国を旅立った。
だがそれはエマリエルの独りよがりだった。
ジョシュアは純粋な気持ちでエマリエルと分かり合いたいと思っていてくれていて、その気持ちに気付かせてくれたのはダリアとブレーデンだった。
二人はさりげなく自分達が距離を深めれる様に動いてくれて、おかげでエマリエルはジョシュアの事を知り、ジョシュアもエマリエルの事を知れた。
こうして自分達が笑い合えているのは、二人のおかげだ。
だから二人が想い合っているのではと気づいた時、エマリエルは心の底から嬉しかった。
二人がしてくれた様に自分も何か出来ることはないかと考え、リーズリー国への帯同をダリアに提案した。
見る見る内に二人の距離は近付き、エマリエルはもちろんジョシュアも嬉しそうにそれを見ていた。
だがアダラントの登場によって、事態は急変する。
凱旋パーティの後、ハノーヴァー親子は揃って自分達の所に謝りに来た。
もちろんこちらは喜んで了承して、ブレーデンをダリアの元に行かせたので、神妙な面持ちの親子との温度差にエマリエルは困惑した。
何よりブレーデンの暗い表情に、不安を抱える。
翌日、ダリアはいつもと同じ様子でエマリエルの元に訪れた。何があったのか聞いていいものなのか分からず、エマリエルもいつもと変わらない態度で接する。
だがさらにその翌日ーーダリアの顔を見た時、エマリエルはすぐに只事ではないと分かった。
なんとなく嫌な予感がして、ダリアとの外出を茶会に変えて、時間も無理を言って午前にしてもらっていた。
やはりそうして正解だったと、震えて泣いているダリアを抱きしめながらエマリエルは思った。
ダリアはエマリエルの提案を飲んで、帰る事を選んだ。普段気遣う姿しか見ないダリアが素直に応じてくれて、エマリエルは安堵した。
同時にそれくらい、辛いのだろうとも思った。
そして今に至る。ダリアを見送ったエマリエルは、すぐにジョシュアの元へ向かった。
ジョシュアはここに滞在中も仕事をしていた。忙しい中凱旋旅行に付き合ってくれていて、大変感謝している。
だからなるべく仕事の邪魔をしたくなかったが、今のエマリエルに、じっとしている事なんて出来なかった。
部屋に入る事を許してもらったエマリエルは、開口一番に告げた。
「ダリアが帰りました」
ジョシュアの後ろに控えている男がぴくりと反応する。エマリエルは構わず続けた。
「私がそうしなさいと言いました。今にも壊れそうだったので」
「…何があったんだ?」
「後ろの彼が、よくご存知のはずです」
ブレーデンは黙って俯いていた。その様子をジョシュアはちらりと見た後、エマリエルの方を向く。
「なんとなく勘付いてはいたが…そうか」
ジョシュアは持っていたペンを机に置き、肘をついてため息を吐いた。
「もう一つ報告が」
「何だ?」
エマリエルはジョシュアではなく、ブレーデンを見て言った。
「ダリア宛に、ローディン伯爵家から縁談の申し込みが来ているそうです」
そこでようやくブレーデンは顔を上げた。エマリエルはその顔を真っ直ぐ見て言った。
「近い内に、食事会があるそうですよ。
彼女の立場上、はっきりと断れないでしょうね。
止められるのは、その家よりも家格が高く、彼女に愛されている人間、ただ一人よ」
言い切ったエマリエルは、ジョシュアへ向き直る。
「今夜、話しましょう」
そう告げると、エマリエルは部屋を出ていった。
扉が閉まる。残された部屋には、重い沈黙だけが落ちた。ブレーデンは俯いたまま、拳を強く握りしめていた。
ダリアが他の男のもとへ嫁ぐ。
その可能性を、初めて現実のものとして突きつけられた。
その夜、エマリエルはジョシュアから、ブレーデンの生い立ちについて聞いた。
幼い頃から、優秀な兄たちと比べられて育ったこと。
何をしても「どうしてお前は出来ないんだ」と言われ続けてきたこと。
だから自分の役割を与えてくれたジョシュアに、一生の恩義を感じている事。
そして、こんなにも優秀な側近として評価されている今でも、父親の呪縛から逃れられていない事。
「…そんな過去があったのね」
話を聞き終えたエマリエルは、静かに呟いた。
普段のブレーデンからは、そんな幼少期を過ごしていたなど想像もつかない。
エマリエルから見たブレーデンは、常に先のことを見据え、いくつもの可能性を瞬時に見極めて、その中から最適な答えを導き出す。そしてそれを迷うことなく実行に移す、頼れる人物だった。
何事にも動じず、自信に満ちた顔でジョシュアの隣に立っていたブレーデン。
けれど、それは生まれつきの自信などではなかったのだ。
「彼の努力の賜物だったのね…」
そう思うと、エマリエルには、いつもの彼の姿が少し違って見えた。
「そうだ」
ジョシュアはそう言ってしばらく黙ったあと、静かに続ける。
「俺はあいつには、幸せになってほしいと思っている」
エマリエルも小さく頷く。
「あいつが俺に特別な恩義を感じている様に、俺だってそうだ。
だけど俺という存在が…あいつの足枷になっている。それが悔しい」
そう言ってジョシュアは俯いた。その様子を見てエマリエルは胸が痛み、思わず口に出ていた。
「本当に、ブレーデン卿がハノーヴァー家ではなくなったら、あなたの側にいられなくなるの?」
エマリエルの問いかけに、ジョシュアは少し考えた後、答えた。
「爵位は必須だろうな」
爵位とは、単に身分の高さを示すものではない。
その者が何者であるのかを証明し、どの家の血を引き、どれほどの信頼を背負っているのかを示す、ひとつの証でもある。
だからこそ、貴族社会において爵位と家名は、その人物の信用そのものになる。
「それなら…」
エマリエルは、ある提案を口にした。
「例えば、お母様の方の家名を名乗るとか。あるいは、バッケン家の婿養子に入るとか…」
「確かに、爵位を失わずに済むという意味では問題ないな」
「でしょう?」
エマリエルは少し嬉しそうに頷く。
しかし、ジョシュアは首を横に振った。
「だが、無理だろうな」
エマリエルは眉を顰める。
「まず、家を移るなら当主同士の同意は必須だ。それだけじゃない。今のブレーデンの立場だって、ハノーヴァー家の人間だからこそ得られたものだ」
ジョシュアは静かに続ける。
「上層部からの信頼も、あの家の血筋と名があってこそだ。家を出るとなれば、これまで彼を支えてきた者たちの理解や承認も必要になる。そして何より…」
そして一拍置いてから、呆れたように言った。
「ブレーデン自身が、ハノーヴァー家から離れることを望んでいない」
エマリエルも何となくそんな気はしていた。
もしその気があれば、とっくに何かしらの行動を起こしているからだ。あのブレーデンがただ甘んじている訳がない。
「…じゃあ、あの二人はどうなってしまうの?」
エマリエルの悲しい呟きが漏れる。ジョシュアはそんなエマリエルの手を握った。
「もしブレーデンが、その覚悟を決めるのなら、俺は喜んで協力する」
「覚悟…?」
「ハノーヴァー家を離れる覚悟だ」
ジョシュアは静かに言った。
「ハノーヴァー家だから俺の隣にいられると思っているのは、おそらくブレーデンとアダラント卿だけだ」
エマリエルは目を瞬く。
「でもあなた…さっき、理解や承認が必要って」
「ああ。だから俺が上層部に掛け合う。家名など関係なく、俺の側近はブレーデン以外にあり得ないとな」
ジョシュアは迷いなく言い切った。
そしてブレーデンの姿を思い浮かべるように、僅かに目を伏せる。
「今まであいつが積み重ねてきたものは、誰にも否定できない。あいつの優秀さが、必ず助けになってくれる」
エマリエルの手を握るジョシュアの指に、ほんのわずかに力がこもった。
「俺は、ブレーデンからアダラント卿の呪縛を解いてやりたい。
あいつは出来損ないなんかじゃない。素晴らしい男だ。ただ…そう思わされてきただけなんだ。
ハノーヴァー家にいる限り、ダリア嬢とは一緒になれないと知った今、あいつの考えも変わりつつあるはずだ」
そして、決意を込めた眼差しをエマリエルに向けて言った。
「明日ブレーデンと話す」




