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花泥棒に恋をする  作者: 柏木椎菜


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十五話

 僕は独り椅子に座って、異国とも言えるエルフの都の景色を窓から眺め続けてた。

「……大丈夫かな……」

 許嫁と話してくると言って家を出て行ったトーラだけど、それから二時間近くが過ぎてた。窓の外を見てても、彼女の姿は一向に現れない。話が話だから、一筋縄じゃ行かないのは想像できるけど、かなり揉めてるんだろうか。無理矢理引き止められてたりしないよな――ふと見上げた空は、まるで僕の不安を映したかのように灰色の雲に覆われ始めてた。太陽の光がさえぎられて、景色が徐々に薄暗くなる。それに比例するように、僕の中の不安も強くなっていく。

「この嫌な予感が膨らむ前に、迎えに行ったほうがいいかな……」

 あの許嫁が力尽くの手段を取るかはわからないけど、万が一そうなってトーラを傷付けさせるわけにはいかない。どこにいるか聞いてないけど、近くにいるエルフに聞いて行けばたどり着けるだろう――松葉杖を握って椅子から腰を上げた時だった。

「……ん? この声……」

 かすかに聞こえた声に、僕は再び窓の外を眺めた。遠く、道の奥から聞き覚えのある声が響いてくる。でも聞こえるのは一人じゃない。女性と男性……まるで口喧嘩でもしてるような言い合いに聞こえる。

「――もう付いて来ないで」

「話が終わってないのに、君こそ勝手に帰るな」

「これ以上あなたと話しても結論が出ないわ。慣習だからの一点張りじゃ……」

「それの何がいけない。古くからの慣習に従うのは当然のことだろう」

「だから、その考えを一度消すことぐらいできるでしょう? どうして慣習から離れてくれないの」

「君は家族に恥をかかせたいのか? 違うだろう。交わされた約束は必ず果たさないと――」

「家同士の約束より、私もあなたも自分の気持ちを優先するべきだって言ってるの」

「そんなわがままで周りに迷惑をかけるなんて、私は望まない。婚姻は祝い事なんだ。皆を笑顔にするべきだ」

「そのために当人は我慢しろと? そんなのおかしいわ!」

 通行人の目も気にせずに、トーラは坂道を足早に下って来る。その後ろには張り付くように許嫁のレイダルがいた。……やっぱり説得は上手くいかなかったみたいだ。彼の考えを変えるのは相当難しいんだろう――僕は玄関の扉を開けて、そこでトーラが来るのを待った。その間も二人は言い合いを続けてたけど、僕の姿を見つけると、トーラは駆け足で近付いて来た。

「……ファルク、ごめんなさい。待たせてしまって」

「それはいいけど、苦労してるようだね」

「ファルクだと……?」

 トーラを横に押し退けて顔を出したレイダルは、僕を見るとたちまち表情を怒りに歪ませた。

「黙って帰れと言ったはずだ。なぜまだここに……そうか。お前がトーラをそそのかしたのか」

「言いがかりはやめて。彼は――」

 レイダルは彼女を無視して僕に詰め寄って来た。

「私達の邪魔をして楽しいのか、人間。これはエルフ族の問題であって、お前が首を突っ込むことじゃない」

「そうかもしれない。でも彼女と話すことは許されるだろう? その中で彼女は決めたんだ。自分の気持ちに従うって。そう自身で決めたんだよ」

「やはりお前がそそのかしてるじゃないか……! エルフ族と問題を起こしたいのか?」

「まさか。問題を起こしてるのはそっちだろう。慣習という言葉を免罪符にして、嫌がる彼女に結婚を強要してるんだから」

「家同士で決めたことだ。何ら間違いはない」

「これが間違いじゃない? 愛してもないのに、慣習や決まりという言葉で、一人の女性の人生を縛り付けることが間違いじゃない? 僕からすれば残酷なことにしか思えないよ。あなたは本当にこんなことを望むの?」

「人間に、私達の慣習など理解してもらう必要はないし、わかりもしないだろう」

「ああ。僕達はエルフほど長生きじゃないからね。人口が減ってるわけでもない。だから理解はできないよ。でも、わかってることはある。僕達と同じように、エルフにだって気持ちはあるんだ。自由に人を愛する気持ちがね。あなたもそうでしょう? その心に隠した気持ち……本当の愛を向けてる女性を、悲しませていいの?」

 これにレイダルは息を呑んで瞠目した。

「なっ……何を言ってるのかわからないが。一体何の話をしてる」

「隠してずっととぼけるのか? そうしてあなたも幸せを置いて行くのか? 自分の意思でそれを手にできるのに」

 レイダルは怯んだように押し黙った。このまま説得できれば――

「本当に好きな相手と一緒になるのが最善だと、誰だって、あなただって思うだろう? ためらう理由なんてないはずだ」

「そうよレイダル、あなたは私と一緒にいるべきじゃない。あなたを必要としてる人の側へ行かなきゃ――」

 その時突然レイダルはトーラの腕を取り、握った。黙ってた顔が険しい眼差しで彼女を見る。

「そんなに私に、恥をかかせたいのか?」

「こ、これは、恥じゃないわ。周りがそう言うだけで、あなたは自分の気持ちに――」

「慣習を破れば、両親も巻き込むことになる。自分だけのことじゃないんだ。そんなわがままな振る舞いはできない」

「じゃああなたの思いはどうなるの? 幼馴染みのあの娘の思いは?」

「そうか……君は、気付いてたのか」

「想い合ってるんでしょう? それなら大事にしてあげないと」

「彼女は君との婚姻を、そういうものだと理解してくれてる。会うことはなくなっても、幸せを祈ってると言ってくれた」

「それで、いいの? 後悔は少しもないって言えるの?」

 視線を落としたレイダルだったけど、またすぐにトーラへ向き直った。

「悪いが私は、この都の住人で、エルフ族の一員なんだ。慣習は破れない……一緒に来るんだ。君をそそのかした人間の側にいさせるわけにはいかない」

 そう言うとレイダルは握った腕を強引に引いて家を出て行こうとする――まずい。連れて行かれたら僕一人じゃどうしようもなくなる!

「は、放して! ここは私の家よ」

「この人間が都を出て行くまでは、私の家にいてもらう。……お前は大人しく、さっさと出て行け。でないとトーラが家へ戻れない」

 僕に冷たく言ってレイダルはもがくトーラを連れて行こうとする――そんなことさせるか!

「放すんだ! 嫌がってるだろう。何で彼女の気持ちを尊重してやらないんだ」

「黙れ。お前の言葉は聞かない。私から離れろ!」

 後を追おうとした僕に向かって、レイダルは片手を突き出して胸を強く押してきた。その力で後ろに傾いた僕は、姿勢を立て直す間もなく床に倒された。

「ファルク! ……なんてことをするの!」

 松葉杖を使って何とか立ち上がろうとする僕に、トーラはすぐ駆け寄ろうとしたけど、レイダルはつかんだ腕を引いてそれを阻止した。

「さあ、行くんだ。そいつは兵士に言って都から叩き出してもらう」

 冷めた視線をこっちに投げて、レイダルはトーラを引きずって家から出て行く――くそっ、兵士なんか呼ばれたら何もできなくなる。早く追わないと!

「私は行かない……行かないわ!」

 トーラの抵抗する声が聞こえた直後だった。玄関の外からバリバリと派手な音がとどろいてきて、立ち上がるのに手こずってた僕は思わず動きを止めた。……何だ、今の音。

「……ファルク!」

 一人で戻って来たトーラは駆け寄って来ると、尻もちをついた状態の僕を抱えて立ち上がらせてくれる。

「ありがとう。助かったよ」

 松葉杖を受け取りながら言うと、トーラは笑みを浮かべる。

「早く行きましょう。ここにいたら危ないわ」

 そう言って僕の背中に手を添えて玄関へ進む。

「さっきの音は何? かなり大きな音だったけど……それとレイダルはどこに……」

「大丈夫。彼はしばらく追って来られないわ」

 彼をどうしたの? と聞く前に家の外へ一歩出ると、その理由は一目瞭然だった。

「くっ……トーラ! 同胞へのこの仕打ちは、許されないことだぞ!」

 道の真ん中でレイダルは立ち止まり、動けなくなってた。その腰から下には半透明の氷が張り付き、足下まで凍らせてる。身をよじってトーラに怒鳴りながら、レイダルは張り付いた氷をどうにかしようと叩いたり剥がそうとしたりしてあがいてた。そんな光景を通行人達は何が起きたのかと遠巻きに眺めてる。

「……あれは、君の魔法で?」

「ちょっとした足止めよ。見た目ほど冷たくないから心配いらない。今のうちに都を出ましょう」

 氷漬けにされた姿は気の毒だけど、彼に捕まるわけにはいかない――僕達は背を向けて坂道を下って行く。

「逃げたって無駄だ! すぐに追い付いてやる!」

 犬の遠吠えのようにレイダルの声が届く。エルフは皆魔法が使えるんだ。あの魔法の氷からも案外早く抜け出せるのかもしれない。ここは急いだほうがいいだろう――転ばない程度に、いつも以上の速さで駆け抜けて、僕達は都の入り口に建つ大きな白い門をくぐった。ここから先は都の外……どうにか逃げ切れただろうか。

「大変だけど、もう少し頑張って。この程度の距離じゃ簡単に追い付かれるわ」

 肩で息をする僕にトーラが言った。確かにそうか。エルフは身軽で素早い。人間の感覚で考えちゃいけない。僕が走って来た距離じゃ大して引き離せてもないんだろう。松葉杖を握り直して、僕は荒い呼吸のまま、焼けた森の中へ駆けて行った。

 ここからは足下が格段に悪くなって、走り続けるのも難しくなる。それを察してか、トーラは僕の横に寄り添ってくれて、転ばないよう気を配ってくれる。そんな優しさを感じると、都を出る決心をした彼女に対して何だか申し訳なさを覚えて、思わず聞いた。

「君は、しばらく故郷へ帰れなくなるかもしれない……本当に、これでよかった?」

「どうしたの? いきなり」

「僕と一緒にいることが幸せだと、君はそう言って選んでくれた。それはすごく嬉しいよ。でも……慣習を破ることになって、彼の怒りを買って、都を追われて出て来て……こんな去り方は望んでなかっただろう?」

 怪訝な表情を浮かべてたトーラだけど、それはすぐに笑みに変わった。

「何を今さら。円満に話が済むなんて最初から思ってなかったわ。不本意でも都を離れることは、ちゃんと覚悟してた」

「本当に?」

「本当よ。私はやっと自分で、自分の幸せを見つけたの。周りにどう見られようと、心は満たされてるわ。都に帰れなくなったって、私は――」

「トーラ!」

 名前を呼ぶ叫び声に僕達は弾かれたように振り返った。

「都へ戻るんだ! 今戻れば手荒な真似はしない!」

 薄暗い視界の先、焦げた木々の間を走りながら叫ぶレイダルの姿が見えた。……もうこんなに距離を詰めて来たのか!

「やっぱり長くは足止めできなかったみたい……ファルク、急ぎましょう!」

 焦りを見せたトーラは僕の背中を支えて急がせる。それに応えようと懸命に足と杖を動かすけど、人間が、しかも片足のない僕がエルフの足に勝てるわけもなかった。追って来る気配は瞬く間に大きくなって、真後ろにピタリと付かれたのがわかった。

「トーラ、私の言葉を聞くんだ! でないと本当に――」

「私やファルクに触れないで! もし触れたら、また氷をお見舞いするわよ」

 足の遅い僕を守るように、トーラはレイダルを睨んで牽制する。

「よく考えるんだ。慣習を破った先には、皆から非難され続ける未来しかない。そこに幸せなんかない」

「それはあなたと一緒になった未来でも同じことよ。外見だけ装った暮らしに幸せがあると思うの? 私は自分で見つけた幸せの道へ進む。あなたみたいに心に嘘をついた道へは行きたくないの。だから追って来ないで!」

「どうしても戻らないと言うのか、トーラ……トーラ!」

 僕も彼女も振り向かず、足も止めなかった。すぐ後ろにあった気配は動いてないのか、次第に離れていった。無駄だと諦めてくれたか――そう思った直後だった。

 シュッと風を切る音が僕達を追い越し、進んでた先の地面に何かが突き刺さった。それは光る矢のように見えた。何だこれはとよく見ようとした瞬間、それは小さな爆発を起こして、地面に積もった灰を舞い踊らせた。……何が起きたんだ?

「……レイダル! こんな魔法を使うなんて!」

 憤った顔で振り返ったトーラは、距離を開けた先の彼に怒鳴った。

「魔法を先に使ったのは君のほうだ」

「私はあなたを傷付けることはしてない。でもこれは、まともに当たれば大怪我するものよ!」

「言っただろう。戻れば手荒な真似はしないと。だが戻らないなら強く出るしかない。安心してくれ。手加減はしてるつもりだ」

 口は笑ってるけどあいつ、目は全然笑ってない……もうなりふり構わなくなったか。

「私が怪我をしても仕方ないって言うの?」

「君が意思を変えないならな。その服を焦がされたくなければ、今すぐ都へ引き返すんだ。そうすればこのことについては、私は今後一切責めたりせずに許そう」

 許すって、何様のつもりなんだ。トーラはお前の所有物じゃない。自分の人生を生きようとしてる、一人の女性なんだぞ。自分本位なやつめ……。

「これは、あなたに許されることじゃないわ。私の意思でしか決められないこと……もう道を変えられないし、変えるつもりもない。あなたが強制することなんてできないわ!」

 トーラは僕に行きましょうと言うと、再び走り出す。

「強制じゃない。私はエルフ族の慣習に従おうとしてるだけだ」

「あなたも、周りが押し付ける慣習に強制されてるのよ。それに気付いて」

「違う! 私は古くから続く慣習に敬意を持って……待つんだトーラ! 私にこんなことをさせるな! くっ……」

 身体のすぐ横を、シュッと嫌な音が駆け抜けると、視線の先で地面が爆発した。灰が舞って視界をさえぎったけど、僕達は構わずに走り抜けて行く。足が緩まないとわかると、レイダルはやけになったみたいに魔法の矢を連発してきた。僕達の行く先へ先回りするように魔法を放ってくるけど、そのたびにトーラが僕を誘導して爆風から逃してくれた。レイダルのほうも、やけになったとは言え、まだ少しの冷静さは残ってるんだろう。僕やトーラに魔法を直接ぶつけることはしないで、あくまで足止めだけを考えてるみたいだった。そしてそれは成功してた。魔法を避けるためにジグザグに走らされれば、当然レイダルとの距離は縮まる。トーラ一人だけなら逃げ切れたかもしれないが、足の遅い僕を支えながらだと、追い付かれるのはあっという間だった。

「……トーラ!」

 気付いた時には背後にレイダルがいて、彼女の腕をつかんで走りを引き止めてた。

「放して!」

「駄目だ。追いかけっこはもういい。暴れるなら魔法で拘束――」

 グルルルと不気味な音が聞こえた。地の底を這うような低く、重みのある音……その聞き覚えのある音に僕はハッと視線を向けた。

「……魔獣……!」

 大声をあげそうになって咄嗟に口をつぐんだ。この指摘にトーラとレイダルもすぐに気付いた。そう遠くない距離、薄暗くても姿が確認できる。僕達が立ち止まってる横から、警戒した動作の三つ目がそろりと近付いて来る。

「お、大きい……」

 身を固まらせたレイダルが呟いた。本当に大きかった。背の高い彼と同じぐらいの位置に頭がある。昨日僕を襲った魔獣とは比べものにならない。容姿も毛むくじゃらじゃなく、黒い鱗が全身を覆って、頭からは前へ突き出た二本の角が生えてた。あんなのに突き上げられたら命は一瞬でなくなる……。

 向こうを刺激しないよう、動くに動けない僕達をあざけるように、魔獣は静かに近付いて来る。そして次の瞬間だった。

「ゴグァアアアア!」

 巨体に似合わない速さでこっちに飛びかかって来た。でも速さならエルフも負けない。鋭い爪が届く前にレイダルとトーラは左右に飛び退いて攻撃を避けた。その際、トーラは僕を抱えるようにして守ってくれた。

「……ファルク、大丈夫?」

「あ、ありがとう。でもこのままじゃ……」

 バシュンと大きな音がして僕達は振り向く。見るとレイダルが魔獣に両手をかざして魔法の弾を打ち込んでた。その全弾が当たってたけど、魔獣の身体に傷が付いてる様子はなかった。

「あの鱗……私の魔法じゃ突き破れそうにない……」

 攻撃を受けて魔獣はレイダルのほうへ意識を向けた。飛んでくる魔法に当たっても煙たそうに頭を振るだけで少しも怯まない。

「訓練した兵士じゃないと、駄目か……」

 そう言ってレイダルは後ずさるけど、魔獣は魔法を物ともせずに距離を縮めようとする。すると必死な形相のレイダルがこっちに振り向いた。

「……トーラ、君達は早く逃げろ」

「そ、そんなこと……あなた一人を残して逃げるなんて……」

「ふっ、こんな私にまだ優しい言葉をかけてくれるのか……。こいつが現れたのはおそらく、私の魔法のせいだ。君を止めようと何度も放って、その魔力に引き寄せられた結果だ。つまりこの状況は私の責任……」

「今はそんなこと言ってる場合じゃない! 都へ戻って助けを呼んでくるわ」

「戻って、いいのか?」

「人の命と私の気持ち、どっちが大事かぐらいわかり切ったことでしょう? ……ファルク、あなたは逃げて、先へ行って。レイダルを助けたらすぐに追いかけるから」

「だけど君を残して行くのは――」

「大丈夫。必ず行くわ。私はあなたの側にいるって決めたんだから」

 真剣な顔で、でも口の端に笑みを作ってトーラは言った。ここで離れるのはひどく心配だった。レイダルは頭の硬いやつだけど、助けないわけにはいかないのはわかってる。だけどその後、トーラを捕まえるんじゃないかって不安がよぎる。かと言って僕が彼女に付いて行っても、助けを呼ぶ時間を遅らせるだけだ。こんな時、心底片足がないことが嫌になる。両足が揃ってればここまで足手まといになることもなかったのに。でも愚痴っても何も変わらない。今はこの緊急事態に素直に対応するしかないんだろう――トーラにわかったと返事を返そうと視線を上げた時、その背後で動いた影に僕は思わず大声を出した。

「危ないっ――」

 これに驚いたトーラも振り返る。それと同時に僕は右手でつかんでた松葉杖を思い切り投げ付けた。それは今まさにレイダルへ飛びかかろうとしてた魔獣の横面に命中し、巨体の勢いを削いだ。

「早く逃げて!」

 恐怖に腰を引かせてたレイダルは僕の声で我に返ると、引きつった表情で魔獣から離れた――危なかった。あとわずか遅れてたら、彼は目の前で引き裂かれてただろう。

 ホッとしたのも束の間だった。松葉杖で邪魔された魔獣は、それを投げた僕のほうをじっと睨んできた。赤く光らせた三つ目は、まるで怒りをたぎらせてるように燃えてる……明らかに標的を僕に変えてる。対抗する術がない僕にすれば、こいつは死神そのもの……どうしたってあらがえない相手。こっちの弱さをさとられないよう、できることと言ったら、燃える目から視線をそらさないようにするだけだった。

 まずいと思ってくれたのか、魔獣の背後に回ったレイダルはそこから魔法を何度も放って僕から気をそらそうとしてくれた。でも魔獣は意にも介さない。細く短い尻尾をブンブン振るだけで、その足はゆっくりこっちへ向かって来る。

「……私じゃ無理だ。助けを呼びに行く! それまで持ちこたえてくれ!」

 レイダルは踵を返してものすごい速さで遠ざかって行く。エルフの脚力と身軽さに改めて感心させられたが、そんな余裕もないほど僕の心臓は早鐘を打ち始めてた。持ちこたえろと言われても、魔獣がその気になれば一秒もかからず僕の命を奪えるんだ。そんな相手にどう対峙し続ければいいって言うのか……。

「落ち着いて……私が守るわ」

 僕の前に背中を向けて立ったトーラは、魔獣を見据えながら静かな口調でそう言った。

「魔法で追い払えそうにないけど、気をそらすことはできるはずだから……その間にあなたは逃げて」

「まさか、おとりにでもなるつもりなの? そんなの絶対に駄目だ!」

「でも他に方法はないわ。助けもすぐに来るかわからない。何もしなければ魔獣に殺されるだけよ。だから、あなたの逃げ道だけは作らないと」

「違う。二人で逃げるんだ。考えて、協力して、どうにか――」

 グルルと魔獣が唸り声を上げて迫って来たのを見て、僕は言葉を切って身構えた。トーラも片手をかざして牽制の姿勢を取る。

「……魔獣は考える暇なんて与えてくれない。私が気をそらしてる間に逃げて!」

 直後、魔法を放ったトーラは僕から離れて駆け出した。煌めく光を浴びせられた魔獣だけど、やっぱり魔法の影響は微塵も受けてなさそうで、ただの水でもかけられたみたいな反応しかしてない。それでもトーラが魔法を放ち続けると、こっちへ来ようとしてた巨体はのそりと向きを変えて、彼女のほうへ転換した。

「今よ! 逃げて!」

 離れたトーラが叫んだ。本当に逃げていいのか……自分は足手まといだから、ここで逃げれば足の速いエルフの彼女一人になり、自身で逃げる隙を作れるかもしれない。でも魔獣の速さも侮れない。巨体とは言え、走り出せばその一歩は僕の七、八歩分ぐらいにはなるし、跳躍力だってすさまじい。距離を開けたとしても、エルフの足が魔獣に勝るのかどうか正直わからない。彼女を置いて逃げた後、もし最悪の事態が起こりでもしたら、僕は一生自分を責めるに違いない。……やっぱり一人でなんか逃げられない。足手まといなら、足手まといなりに役目を果たして、彼女を助けないと……!

 トーラは魔法を放ちながら、魔獣の気を引き留めつつ後ずさってる。それに魔獣は少し苛立った素振りで距離を詰めようとしてる。何か嫌な感じだ……と思った瞬間、魔獣の前足がぐわっと伸びてトーラに襲いかかった。鋭く尖った爪が彼女を捕らえるように見えて、僕は呼吸が止まりかけたけど、すんでのところでトーラは横に飛び退き、爪から逃れた。その爪は側の焦げた木に当たり、バキッと大きな音を立てて根元からなぎ倒してしまった。あまりの馬鹿力は唖然とするよりも、ただただ恐怖を与えてくる。こんな化け物に出くわしてしまった不運を嘆きつつ、恐ろしさにためらいそうな自分を無理矢理に奮い立たせて僕は魔獣に近付いて行く。

「こっちだ! こっちを向け!」

 大声で呼んで気を引いた。

「……ファルク、何のつもりなの!」

 トーラが慌てた口調で聞いてきた。

「おとり役は僕がやる。……狙うなら僕を狙え!」

「馬鹿なこと言わないで! あなたは早く逃げるのよ!」

「君を置いて逃げるなんて、それこそ馬鹿なことだよ。逃げるなら二人で。それが無理なら、僕が犠牲になればいい」

「いいわけないでしょう! あなたが犠牲になる必要なんて――」

「君を失いたくないんだ。ずっと、笑っててほしいから」

「私だって、あなたを失いたくない! 犠牲になんてしたくないの!」

「ありがとう……でも、二人が犠牲になるのはよくない。だから君だけでも助けないと――」

 その時、標的が定まらなかった魔獣の三つ目が僕に向いて、静かに歩き始めたかと思うと、次には巨体を揺らして駆け足で向かって来た。見る見る近付く黒い塊の迫力に、僕は金縛りに遭ったみたいにその場から動けなくなった。

「ファルク!」

 魔獣が走り出したのと同時にトーラの呼ぶ声が聞こえた。でも顔を振り向けることさえできない。赤い三つ目と突き出た二本の角が迫る。僕を突き刺し、むさぼり食えば、その間にトーラは逃げられるだろう。これで彼女は助かる――そう覚悟をして目を瞑ろうとした。

 横からドンッと強い衝撃を受けて、僕の身体は吹っ飛びながら押し倒された。直後、視界の隅を黒い影がかすめていく。肩と背中を打ち付けた痛みに表情が歪んだけど、そんなことにも構わず、僕は服をつかまれて強引に立ち上がらせられた。

「何を考えてるのよ! こんなの許さない!」

 顔を近付けて唾がかかる距離で怒鳴ったトーラは、僕から手を離すとすぐに魔獣に向いて牽制の魔法を放つ。

「君だけでも助からないと――」

「それで私が喜ぶと思うの? あなたを失って、残された私が……!」

 連続して放たれる魔法は魔獣の顔や足に当たって綺麗な光を弾けさせる。でも動きを止めることはできず、魔獣はこっちを見据えて徐々に歩み寄って来る。

「トーラ、君一人なら逃げられるかもしれない。僕はいいから行くんだ!」

「あなたは私が見つけた幸せなの! だから、守るって……そう決めたの!」

 魔獣の三つ目に殺気が宿った――そう感じた直後、魔獣は勢いを付けて僕達に迫って来た。そして跳躍し、爪の光る前足で攻撃を繰り出す。危ないっ――僕はトーラの前へ出ようとした。けど、それよりも早く彼女のほうが先に動いた。

 僕を背中にしてかばいながら、トーラは魔法を放ち続けると、爪が届く寸前のところで僕を抱えて一緒に横へ飛び退いた。彼女の腕を魔獣がかすめて行くのが見えて息を呑む。

「……トーラ、大丈夫? トーラ?」

 地面に伏したまま、なかなか動かない彼女の顔をのぞき込んだ。

「うう……ええ、大、丈夫……よ」

 苦しみの表情と声は明らかに言葉とは真逆の様子だった。どうしたのかすぐに確認したかったけど、目の前では魔獣が再びこっちに迫ろうとして来てて、僕は地べたに座った状態で松葉杖を振って牽制しながら、もう片方の手でトーラを引きずって魔獣から離れようとした。

「トーラ、しっかりして。どこか怪我したの?」

「動けるわ……ありがとう……」

 そう言って手を付いて立ち上がろうとする姿を見て、僕は心臓が跳ね上がった。地面に付いた右手が真っ赤に染まってた。魔法を放つために突き出してた手だ。そこから流れ出した鮮血が黒い地面に小さな血だまりを作ろうとしてる。でもさらに驚いたのは、その血だまりに浸かった指が三本しか見当たらないこと――その事実に愕然とした。僕をかばいながら飛び退いたあの時、あの一瞬に、魔獣は彼女の薬指と小指を伸ばした爪だけで奪い取ってた……!

「そんな……指が……ち、血を止めないと!」

 僕は止血をしようと傷口や腕を強く押さえてみるけど、自分でもわかるほど動転してて、上手くできてるのかまったく自信がなかった。感情が入り乱れて、怒ってるのか悲しんでるのか情けなく思ってるのか、説明のできない状態に手元は震え始めてた。

 するとそんな僕の手に、トーラは無事な左手をそっと重ねた。

「落ち着いて……指をなくしただけ……命じゃ、ないわ」

 ひどい痛みがあるはずなのに、トーラは穏やかな眼差しで僕を見つめる。そんな吸い込まれそうな瞳を見てると、不安定に波立った感情がスッと凪いで、僕は我に返ることができた。……動転して震えてる場合じゃないだろう。今こそ僕が彼女を守らないと。

 お互いに手を貸しながら、僕達は静かに立ち上がった。

「こいつの犠牲には、やっぱりなりたくないよ……君の側にいたい」

「命がある限り、希望も残ってるわ。それをつかめるかわからないけど……最後まで、あがいてみるしかない」

 僕は松葉杖を構え、トーラは僕に肩を貸しながら左手を前へかざす。魔獣はグルルと喉を震わすと、狙いをつけるように姿勢を低くした――逃げ道もなければ対抗する妙案もない。僕達の命運はこいつに握られてる。それでも、彼女が隣にいることに変な安心感があった。絶体絶命の状況だっていうのに心は落ち着き払ってる。一人じゃないと、大事な人が側にいると、自然と勇気が湧くものなのか。だけど、いくら勇気をふるったってこいつに勝てる見込みは残念ながらない。せいぜい死ぬまでの時間を延ばすことしかできないだろう。それもほんの数秒程度だ。こんな死に方は悔しい。でも避けられないなら、僕は最後までできることをするしかない……彼女を僕より先に死なせはしない。やつの攻撃はこの身を盾にして受けてやる――視線の先の魔獣がこっちへ向けて駆け出した。

「たあああ!」

 雄叫びを上げながら僕は赤い三つ目に向けて松葉杖を突き出す。それと同時にトーラは左手で魔法を放った。先に届いたのは速さのある魔法で、煌めく光の塊は魔獣の鼻先に当たって四方へ砕け散った。でもすぐにトーラの二発目が向かう。それが当たるタイミングで僕の杖も三つ目をとらえようとしてた。

「ブフォゴオオウウ!」

 突然視界が眩しく光って、魔獣が悲鳴を上げながらその巨体を大きくよろめかせた。何が起きたのかわからない僕達は光から目をかばって後ずさる。……何なんだ一体。まさか、トーラの魔法が効いたのか?

「魔獣から離れろ!」

 遠くから声が聞こえたと思うと、再び光が弾けて黒い巨体が傾いた。直後、爆風のような風圧に襲われて、僕達はお互いを支えながらそれに耐えた。

 風が収まると、辺りはしんと静まり返り、僕は恐る恐る目を開ける。地面の灰や折れた枝が綺麗に吹き飛ばされた中心地には、黒い鱗が一部えぐれた状態で横倒しになった魔獣がいた。赤い目は虚空を見つめたまま動かない。

「……死んでるの?」

 トーラが僕に寄り添いながら呟く。鱗のえぐれた部分からは、魔獣特有の赤紫色の血が流れ出てた。ここへの一撃が致命傷になったみたいだ。

「間に合ったか」

 声に振り向くと、木々を縫ってレイダルがこっちへやって来るのが見えた。その後ろには、揃いの装備を身に着けた十人ほどのエルフの兵士達がいた。……ああ、そういうことか。彼らは間に合って、僕達は助かった――まだ彼女の側にいられると思うと、信心深くもないのに神様に感謝を述べずにはいられなかった。

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