御半下 仔牛命婦の失踪
御中臈の瀬津が、梨雪と千絵に言う。
「千絵の主人として申し渡しておくことは以上だ。
隣の局にいる雪乃に、千絵がこれから使う部屋に案内してもらうが良い。
梨雪とともに行け、梨雪から聞かねばならぬ話もあろう」
千絵が、御中臈 瀬津の部屋子の御半下として使う部屋だと、雪乃に案内されたのは、瀬津の筆頭御次である雪乃が使用する広い局(部屋)の屋根裏(中二階)にある部屋であった。
ちなみに、「御中臈付御次」ともなれば、主人の居室の次の間に待機し、主人の代理役として貴人の応対や秘書的役割をこなし、使用人を統括し、御膳をも担当している能吏中の能吏だ。
「この局は、瀬津様の筆頭御次である私、雪乃が使っている部屋です。
そこの階段を上がったところが、千絵殿が一人で使ってよい部屋。
ひとりでは広すぎるかもしれぬが、存分にお使いなさるが良い」
階段は天井に繋がっていて、屋根裏といっても、中二階でもあり、雪乃の部屋に接する壁際には明り取りの障子がある。今で言えばロフトのような下女部屋だ、それを御半下の千絵が使う。
形の上では、御中臈付き筆頭御次 雪乃 専用の下女が住む屋根裏部屋という体裁である。
先程御錠口に千絵を迎えに来た女中は、この雪乃という御中臈付きの御次であった。添番長屋に大奥の女駕籠で乗り付けた女中と同一人で、若く、色白の美女だ。主人の瀬津と違い、優しくおっとりとしているように見える。しかし瀬津のお気に入りの御次だ。仕事に穴などあろうはずがない。
「御中臈 瀬津様の下には、
瀬津様専用の御次が、私のほかに三人、それに下女が三人います。
いずれの女中も瀬津様が御中臈になった折に、
御年寄様に命じられて瀬津様付きになりました。
瀬津様ご自身が、御次として召し抱えた唯一の女中が私、
雪乃ということになります」
さりげなく、瀬津様の信用が一番厚いのですよ、と微笑みながら千絵に説明してくる。
横で梨雪がうんうんと頷いている。
冷たそうな氷の雰囲気の主人と対照的に、暖かそうな陽の雰囲気を持つ上司である。
組み合わせの妙という言葉が千絵の心に浮かぶ。
千絵に宛がわれた屋根裏部屋に入るには、必ず、筆頭御次の雪乃の部屋を経由しなければならない。しかも、御年寄や御中臈の住む長局の壱之側を貫く長い廊下に接する壁には押入れがあり、その押入れの壁板の隙間から行き来する人々が観察できる。中二階という事で天井がかなり低いが、忍びの技を用いて天井裏を移動する際には好都合だ。御中臈 瀬津の指示なのか雪乃の指示なのかは分からぬが、千絵の特殊任務に対する配慮は行き届いていて、完璧と言ってよかった。
千絵に御半下用屋根裏部屋を案内した雪乃は、次に自分の部屋に千絵を含む御中臈 瀬津付きの女中を全て集めて、千絵と面通しさせた。
「千絵殿は、今日、新しく大奥入りした御半下です。
今日より早速、御中臈 瀬津様付きの部屋子として
格別に必要な教育をいたします。
当分の間、わたくし、雪乃の厳重な監督下で、
ここにいる御台所様御用の御伽坊主 梨雪殿に付いて、
特別な行儀見習いをすることになります。
皆様、よろしくご配慮を・・頼みますぞ・・・」
と話した後、千絵以外の部下全員に、今日の仕事を割り振り、部屋を去らせたのであった。
梨雪が千絵の袖をそっと引く、
「雪乃様が、上手く人払いをしてくれました。
これで、他の下女がする雑用から逃れられます。
千絵様、あなたの部屋に行きましょう」
梨雪と千絵は、雪乃に上司に対するに相応しい丁寧な一礼をしたうえで、千絵の屋根裏部屋に入った。
「……千絵様。
仔牛命婦様について、少しお話しせねばなりません」
梨雪は、こう言って、目立って大柄な肥満体で動作が鈍く「仔牛命婦」と親しみを持って渾名で呼ばれる御半下について話し始めた。
「仔牛命婦様は、御半下でございます。
大奥で最下級の女中がお末、御端とも呼ばれる御半下。
身分だけ見れば、最も低い身分です」
千絵は頷く。
しかし梨雪は黙って首を横に振る。
「……ですが、仔牛命婦様はただの御半下ではないのです」
梨雪は、千絵の目から視線を外し、白く光る障子に目を向けて、静かに続けた。
「仔牛命婦という呼び名。
あれは、位階でも官職でもないのです。
楽宮喬子女王殿下のお父様であらせられる
有栖川宮織仁親王殿下が、
宮中で寵愛している下女に与えた綽名なのです」
千絵は驚いて梨雪を見る。
「命婦」の呼称は、普通、その人の位階(五位以上の女性)であったり、五位以上の官人の妻のこととして扱われる――しかし、そうではないと梨雪は言うのだ。
「綽名であると?」
「はい。
背も高く、横幅も大きい、大柄な体つきなのに、
宮様の傍らを一所懸命に動き回る姿が、
まるで母を慕って後を付いて回る仔牛のように愛らしいと……
それで、有栖川宮親王殿下が、宮中の女官に『仔牛命婦と呼ぶように』と
仰せになったのです」
梨雪の横顔はわずかに微笑んだ。まるで思い出を語っているようだ。
「宮中では、皆が仔牛命婦様を愛しておられました。
楽宮様が徳川将軍家斉公の世子であらせられた家慶様に嫁ぎ、
御簾中様と呼ばれるようになったとき、
仔牛命婦様も、宮様の身の回りの下仕事をするため、江戸へ参りました。
家慶様が将軍となり、御簾中様が御台所様と呼ばれるようになっても、
仔牛命婦様は変わらず御台所様のお側で働いておられました」
梨雪の目が千絵の視線を再び捉え、
千絵は静かに息を呑んで呟く。
「・・・最下層の御半下でありながら、御台所様の部屋子。
それが世襲親王家から与えられた綽名を持つ下女となれば、
老中以上の権勢を持つと言われる大奥の御年寄といえど、
軽々しく扱えぬ存在・・・ということですね」
「はい。
将軍家ですら気を使うほどの特別な御半下なのです。
気安く接することができるのは、御台所様と、その部屋子だけと・・・」
梨雪はそこで言葉を切り、顔を曇らせる。
「そんな仔牛命婦様が、失踪して五日になります」
千絵は瞬きをした。
「五日・・・?」
「はい。
消灯の刻まで姿が見えず、御台所様が不審に思われました。
隠れん坊をするような方ではありません。
お相撲のような大柄な体が、影も形もなくなったのです」
梨雪の声が震える。
「御台所様と、相談役の御伽坊主──私のことでございます。
そして御台所様の乳姉妹である御上臈様の三名で相談し、
直ちに緘口令を出しました。
仔牛命婦様の失踪は、誰にも知られてはならぬのです」
「・・・なぜそこまで?」
千絵は分かりかけていたが、やはり、そう問わずにはいられない。
梨雪は千絵の表情を見て、そう、その通りという風に、
「大奥での事件は、次の将軍世子をめぐる権力の陰謀と結びつけられて考えねばならぬからです。
御台所様の部屋子が消えたとなれば、
まず、大奥での御台所派と本丸派の対立が一気に表面化します」
「原因は家斉公から家慶公への将軍職の委譲ですね」
「はい。
家慶公と一緒に西の丸から、大奥にやって来た新御台所を取り巻く御年寄と、
家斉公時代と変わらずに大奥を支配したい本丸派の御年寄が、
大奥の運営の仕方をめぐって、ぎくしゃくとしている最中なのです」
何事も御年寄衆の合議によって方向が定まる仕組みの大奥は、今、混乱の中にあった。
政治の決済を自ら担うことに倦んだ征夷大将軍家斉が権力を投げ出し、世子の西の丸大納言家慶に将軍位を委譲したからだ。
この生前の新旧将軍の異動に伴い、大奥では、新しい将軍とその御台所が大勢の女中衆を伴って西の丸から本丸の大奥へ移動することになった。
その新しい御年寄たち(御台所派)と、前将軍の家斉時代からいる御年寄たち(本丸派)とが、大奥支配の主導権をめぐり、暗闘が始まりかねないという。
「初動が肝心なのです。
御台所様を守るためには・・・という意味です。
今は、御台所様以外の誰も信用してはならないのです。
乳姉妹の御上臈様も、最初から信用しては、危険なのです」
先入観で情勢を見誤らないことの重要性を梨雪が強調する。
幼馴染と雖も、接する人間関係は変化する。しっかり現状の背景を調査せねばならない。
御上臈とは、御殿で局をもらって御台所に扈従する上級女中のこと。摂家、清華家、大臣家等の上級貴族の娘が御台所に京から付いてくることが多かった。
梨雪は声をさらに落とした。
「だからこそ・・・
私は、世子時代から家慶様と御台所様を補佐してきた老中の水野忠邦様を頼ったのです。
極秘に。
御台所様にも、御上臈様にも知られぬように」
千絵は静かに頷いた。
「・・・それで、私が呼ばれたのですね」
「はい。
千絵様。
あなたは忍びの家の娘であり、
御広敷伊賀者の御新造様であり、
ご老中様の影として動ける唯一の方」
梨雪は深く頭を下げた。
「千絵様なら、必ず仔牛命婦様を見つけられる。
御台所様のために。
大奥のために。
そして徳川の御代のために」
千絵は静かに息を吸い、頷く。
「必ず見つけましょう。
影として、光の届かぬところを見て参りましょう」
いよいよ、千絵の探索が、本格的に始まるのだ。
お千絵の隠密勤め 大奥御半下勤めの巻 (つづく)
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さて、ミステリー&サスペンスドラマは、被害者の背景描写から、いよいよ現地捜査へ入って行きます。
こうご期待。




