お千絵 大奥に入る
大奥入りのその日、千絵は、式部仙十郎に付き添われて大奥に向かった。
御広敷添番長屋に住んでいる者にとって、距離は目と鼻の先ほど近いが、決して超えることのできない境界を越えるのだ。
二度目とは言え、表門の前に立つとやはり緊張する。
門の左右には門を守る伊賀同心の詰所がある。お互い見知っている顔があるのだろうが、大奥の女中として入る身としては、けじめを付けねばならない。まっすぐ式部仙十郎の背中と前を見て進む。
門の敷居を越え、御広敷に入ると、空気すら変わる。遠く奥の方で焚かれているのであろう、微かに伽羅の香りが漂い、衣擦れの忙しない音が、サーサーと時雨のように絶え間なく聞こえてくる。
『省吾さま、貴方はこのようなところに、毎朝のように通い詰めていたのですね』
そう思うと胸の奥から突き上げてくる感情がある。それは胸を締め付ける思いだ。千絵のために、命を懸けたプロポーズを決行して、千絵の心を奪って、死んでいった夫なのだから。
添番衆には知っている顔がいくつも見えるが、気付いているのかいないのか、誰も彼もが、知らぬ顔だ。いつものお役目を果たしている。
式部老人が、御広敷番之頭に何事か告げた後、二人は御広敷廊下に入り、大奥の入り口、下の御鈴廊下と呼ばれる御広敷御錠口へと向かう。
ちなみに将軍家が大奥に出入りする際に用いるのは上の御鈴廊下とよばれていて、別にある。御錠口は二か所あるのだ。
御広敷廊下は畳の縁までが光を跳ね返して輝くばかりに磨かれ、柱は文字通り黒光りしている。
千絵は、御錠口に向かうその傍ら近くに、火消し桶が置いてあるのに気付いた。
『省吾さまは、御錠口の近くで火の番をなさったと話していた。ここであろうか』
無意識のうちに、少しでも省吾の痕跡を探そうとしてしまう千絵は、思わず、目を留め、足も止めそうになる。
「立ち止まってはならぬ。不審と、見られるぞ」
そう低い声で言った式部仙十郎は、千絵に背中を見せたままだ。
「はい」
小声で返事をして、何事もなかったかのように足を進める。
忍びの心得がある千絵から見ても、老中水野忠邦の御側用人はただものではない。
御錠口は、間口二間、黒塗縁の杉戸と銅張りの大戸が立ち、番の者が真っ直ぐ前を向き正座して、身じろぎもせずに守っている。
御広敷側には男の役人、大奥側には女の役人が番をしている。どちらも御錠口番という。
式部老人が声をかけたのは、御広敷役人と呼ばれる男の御錠口番である。
「老中水野越前守側用人式部仙十郎。御中臈瀬津様御用の御半下、千絵を伴って参った。
御中臈瀬津様まで、ご引率をお願いいたす」
御錠口の杉戸が開き、大奥側、女の御錠口番も姿を現す。
「誓詞を」
式部仙十郎が、「誓詞」と書いた書状(折った紙に書かれた詞)を、御広敷側の男の御錠口番に手渡し、御錠口番は内の文書を改める。
ここで「誓詞」について述べて措こう。
書かれている内容は七項目ある。その最初の項目には「御奉公の儀、実儀を第一に仕り、少しも御うしろくらき儀いたすまじく候。よろづ御法度之趣、かたく相守り申すべき事」とあり、大奥での奉公勤めを全うし、やましいことはいたしません、決まり事はすべてしっかり守るという大原則に従います、と書かれている。同じく三番目には「奥方之儀、何事によらず外様へもらし申すまじき事」とあって、大奥内の出来事は、どのようなことであっても外部へ漏らさないと誓いますと書かれている。いずれも女中自身の手で書かねばならない。
八代将軍吉宗の時代からの習わしであるという。
御広敷側の男の御錠口番は書かれた内容を確かめたうえで、大奥側に居る女の御錠口番に渡す。
女の御錠口番は自分でそれを同じように改めたうえで、千絵に向いて命ずる。
「名と用向きを」
「水野越前守側用人式部仙十郎の女、千絵、三年御雇の御半下にて御中臈瀬津様の下で部屋子をお勤めいたします」
「良い、千絵、こちらへ参れ・・・」
千絵が御錠口を越える。これで大奥に入ったことになる。誓詞に縛られるのだ。
「式部殿、確かに千絵殿をお預かり申した。本日はご苦労にござりました」
「よろしくお願い申し上げる。千絵、しっかり勤めるのだぞ」
「はい、お義父様」
別れの挨拶の途中で、御錠口は閉ざされ、錠をおろす音が大きく響いた。
「千絵、すでに迎えを呼んである。心安くしてそこで待っておれ」
御錠口番女中の言葉に従って、廊下の端に端座しようとする前に、長い廊下の向こうからやって来る迎えが見えた。
多くの女中衆が忙しく働く朝である。サーサーッ、サーサーッと波の満ち引きのような衣擦れの音の中で、遠く離れた御殿向の御台所(将軍家の正室のこと)が、人を呼ぶ鈴の音が、湿った空気の中で、チリン、チリンと思いのほか高く乾いた音を響かせている。
足早に迎えに来たのは御中臈の部屋子で、それなりの地位の者であろう。見た顔である。
「千絵殿、ついて参られよ」
廊下を障子越しの初夏の朝の光が照らしている。
躰は暖かく感じられるが、誓詞が重い湿気を運んできたに違いない、ふと不安が過る。
大奥の女中は、全て長局に住む。
「長局」とは、細かく区割りされた、いくつもの局(部屋)が連なった長屋式の建物のことである。
長局は、「壱之側」「弐之側」「参之側」「四之側」「下之側」と区別されている。
「壱之側」は最も日当たりの良い南向きの部屋で、御年寄他の「老女」と呼ばれる最高級の女中たちが住み、「弐之側」に御客応待、御錠口番、「参之側」「四之側」に表使いなどが住む。
御火之番、仲居、御半下、お末等の身分の低い者は、大部屋ばかりがある「下之側」に住んでいた。
老女ともなれば、長局に十室以上も部屋を持ち、専用の台所を持つどころか、湯殿も上下ふたつ持っていた。老女が部屋子として使う使用人は、お局ひとり、お側六人、下女四人であり、彼らが住む中二階の裏部屋も持っていた。
現代人が驚くべきは、大奥というのは、最も身分の低いお末ですら、町への買い物等のために専用の男の使用人を二人三人と使うような、女人の天下が江戸という封建社会に存在していたことであるかも知れない。
さて、御中臈である。以前は、御中臈も御台所並みに「将軍の子の母候補」という待遇で、別棟となる御殿を与えられた。だが、何代か前に、御中臈は「御台所の家来」の扱いとなり、御中臈の生んだ子供も「御台所を母として育つ」というふうに改められた。
側室の権力が強くなりすぎるのを嫌って、そのようにしたのである。
したがって、御中臈に出世した女中は、老女に準じる形で、長局に幾部屋も部屋を賜り、専用の台所と湯船、それに8人ほどの使用人が付けられることとなった。
ということで、千絵が案内された御中臈瀬津の部屋は、大奥の長局の「壱之側」、その奥まった場所にある。
「壱之側」の奥へ進むにつれ、重く、湿り気を帯びた空気が覆ってくるような気がする。千絵は緊張が高まるにつれ、思わず忍びの本能が表に出て、無意識に目や足が反射的に危険に備えようとするのを意識する。
初夏の陽の光が、長局一之側の南の高級女中の部屋越しに、廊下と局を隔てる障子にまで届き、辺りは白く淡く濁る。白檀の香が、薄い膜のように廊下に漂っている。
そこに差し迫った危険などない。緊張のせいなのだ。
千絵は、忍びの目配り、足配りをせぬよう、意識して視線を床に落とし、着物の褄を取って進む。
「ここが、御中臈瀬津様のお部屋にございます」
案内の女中が膝をつき、襖を静かに開ける。
その部屋の中が見えた瞬間、千絵が感じたのは「冷たさ」であった。
香の匂いが濃い。それなのに、鼻につかない。
まるで、部屋そのものが「気品」という物体になってしまったかのようだ。
部屋の奥に、ひとりの女が座す。
御中臈・瀬津──千絵と同じ年ごろか、ひょっとしたら千絵より若いかもしれない。しかし年齢に似合わないずっと落ち着いた「気」を持っている。
夜空の闇より暗い黒い髪に、白く柔らかく光る肌。
その切れ長の目が、まっすぐ千絵を射抜く。
「千絵、と申すのだな」
声は低く、柔らかい。だが、分厚い芯がある言葉だ。それが千絵を圧倒した。
千絵は自然と膝をつき、背筋を伸ばす。
「はい、千絵にございます。御中臈瀬津様の御半下として、三年の御雇を仰せつかりました」
瀬津は千絵をしばらく見つめた。
その視線は、千絵の衣、髪、姿勢、呼吸どころか脈の速さまで測っている、
千絵は、忍びの家の娘であるにもかかわらず、心の奥がざわりと揺れる。
「・・・忍びの家の娘らしい目だ」
瀬津はそう言って、ほんのわずかに口元を緩めた。
褒めたのか、試したのか、千絵には判別できない。
「水野様の御用で参ったと聞いておる。
大奥は、外の理とは違う。
ここでは、言葉よりも、沈黙と忠誠が奉公の証。
影として動く者は、影として奉公せねばならぬ」
千絵は深く頭を下げた。
「肝に銘じまする」
『勝てぬ。この方は、生まれた時より人の上に立つものとして生きて来た。そんなお方だ』
その時、襖の向こうから、軽い足音が近づいてきた。
衣擦れの音が小さく、まるで風のように軽い。
「瀬津様、梨雪が参りました」
現れたのは、年若い女中──御伽坊主・梨雪であった。
十七、八か。
千絵はショックを受けた。そのショックの大きさは、何とか外に出ぬように隠したつもりである。
男物の羽織袴を着て、頭を丸めているので御伽坊主と知れたが、千絵にとって、意外というか、想定外であった。御伽坊主とは、普通、五十代の女の役職である。それがこんなに若い御伽坊主が存在しているなんて・・・。式部仙十郎からも「老獪な坊主」と聞いていたから、なおさらである。
小柄、白い肌、黒目がちの瞳。
少女だ。
だが、その瞳は、年齢に似合わぬほど鋭く、しかし怯えて震えている・・・ようにも見える。
「梨雪、こちらが千絵だ。今日より私の部屋子となる」
梨雪は千絵を見て、ふわりと頭を下げた。
「千絵様・・・お噂は伺っております。
御広敷の伊賀者のご新造でありながら、忍びの技に長けておられるとか。
どうぞ、よろしくお願いいたします」
声は柔らかいが、相変わらず躰は震えている。
千絵は、その震えが「恐れ」ではなく、「緊張」であると知った。
御中臈瀬津の前に出て、全てを射通すような目と言葉に、老獪と称せられる梨雪ですら、緊張せざるを得ないのだ。
瀬津が言う。
「梨雪は、将軍様に命じられ、御台所様御用の耳として、目として働いておる。
御年寄の配下の床入り監視役ではないぞ、
梨雪にしかできぬ特別な役目で御伽坊主を仰せつかっておるのだ。
お城の何処にでも入れる特権を持ち、将軍様と御台所様の配下にある。
大奥のことは、表も裏も、この者が最もよく知っている。
仔牛命婦の行方を追うなら、梨雪と動け」
瀬津には千絵の疑問などお見通しだ。梨雪が何者であるかの説明はそれだけで充分であった。
梨雪は千絵に一歩近づき、小声で囁いた。
「・・・仔牛命婦様が消えた夜、宇治の間で変異があったのです。
誰もいないはずの部屋で・・・」
千絵の背筋が、冷たくなる。
「あの宇治の間で・・・」
瀬津が静かに続ける。
「千絵。
仔牛命婦は御台所様の大のお気に入り。
御台所様のお心を乱す事件の根を確かめねば、さらに大事に繋がりかねぬ。
なんとしても仔牛命婦を見つけねばならぬぞ。
水野様の影として、迷うことなく動け。
影は、光の届かぬところを見ねばならぬ」
千絵は深く頭を下げた。
「御意にございます」
その時、遠くで御台所の御用の鈴が「チリ、チリ、チリ・・・」と鳴った。
その音は、千絵の胸の奥に、静かに、しかし確かに響いた。
──それは、千絵の新しい役目の始まりを告げる鈴の音であった。
(つづく)
千絵は梨雪と一緒に仔牛命婦の探索に当たることになりました。
次回からは、仔牛命婦失踪の謎に迫ります。こうご期待。




