老中の密命
先に公開した私の歴史時代小説「築山省吾の心残り」の続編で、その後のお千絵について小説化しました。
連載物にするつもりです。
お楽しみください。
千絵の夫、築山省吾は、江戸城大奥で働くいわゆる御広敷伊賀者で、御広敷番頭の指示を受けて動く御広敷添番と呼ばれる百俵取りに満たない軽輩であった。
伊賀の忍びとして忍術も武術も一流だった省吾が胸の病で死んで、早くもひと月が経つ。
千絵は夫のために高麗人参を求めて、嫁入り時に持ってきた晴れ着を質に入れ、亡母の着物を質に入れ、その次には夫に買ってもらった余所行きの一張羅を質に入れた。
そうやって、一年半も夫の胸の病の回復を祈って、伊賀同心という身分に不相応な高麗人参を求めて来たものであった。
千絵は、省吾と結ばれる切っ掛けとなった六年前の出来事を、今でも鮮明に思い出せる。
「日頃のわしの寵に慢じおったか、家来筋、しかも同心の分際で、伊賀鉄砲百人組之頭の娘に懸想するのも、不届きであるのに、かどわかして、一夜、空き家に閉じ込めるとは不埒者めが」
「父上様、それは違います」
千絵は激しくかぶりを振る。
「違うのです、聞いて下さいませ」
「何が違う、築山の子倅めが、無理強いをして、そちを泊めおいたのであろう」
「いいえ、いいえ、千絵のいう事を聞いて下さいませ。省吾様のお陰で千絵は色々なことを知れたのです、悪いのは千絵の方です」
「何を戯けたことを」
「わずかばかりお家の芸が達者と、忍びや武芸の真似事ばかりして、これまで組の者や伊賀衆にも迷惑をかけているのに、それに気付かなかった千絵が悪いのです。そうです、千絵が悪かったのです。わたしは本当に愚かでした。千絵は昨晩、それが分かりました」
「・・・」
「父上様、千絵を築山に嫁にやって下さいませ」
「なんと・・、今、なんと言った。築山に嫁にと」
「そうでございます。父上様、わたくしを築山省吾さまのもとに」
千絵の家は、伊賀鉄砲百人組之頭で、威風流砲術の流祖を継ぐ二千石の旗本、柘植家である。伊賀同心である築山省吾とは住む場所も世界も違うほどの身分差がある。柘植家は武士であり、旗本である。築山家は出身の伊賀の地では、柘植家に家来として仕えていたが、身分は下忍。侍として扱われない家なのである。それでも両家は、確かに「主筋、家来筋」という言葉を使えば主筋であり、家来筋にあたる家であった。
そんな築山の家に嫁した時、千絵はまだ十七であった。
千絵は、幼いときに母を亡くし、父に溺愛されたため、わがまま放題に育ち、嫁に行くなら、お家の芸と呼ばれる忍びの術、鉄砲、弓、投擲術、剣術、柔術が女である自分よりできる者でなければならぬと放言し、こっそりと父の家来と試合をしては容赦なく打ち負かし、世間知らずの姫君らしく無邪気に、遠慮なく、伊賀同心らに恥辱を与えていたのだった。
その鼻ぱっしらを折ったのが、伊賀修行帰りの同心、築山省吾であったのだ。
省吾は、千絵を馬、鉄砲、弓、刀で打ち負かし、柔術と忍術を使って空き家に閉じ込めて、千絵ひとりで一晩を過ごさせたのだった。省吾にとっては命がけの諫めであった。
覚悟の上とは言え、父娘問答がなされている間、省吾は柘植家の地下に秘密裏に作られた座敷牢のなかで、ひとり謹慎して、沙汰を、おそらくは厳罰が下されるのを、じっと待たねばならなかった。
一か八かの勝負は吉と出たようだが、隠密を諦め、御広敷添番という伊賀同心の身で天女のような姫君を得る博打にしても、思いっきりが良すぎることであった。胸の病が重篤化する予感があったのやもしれぬ。
噂だけであったが「傷もの」となった娘を、何か訳ありな伊賀同心風情に嫁させねばならなくなった譜代の旗本として、また、柘植清広という名の一人の父として、口惜しくも諦めざるを得ない気持ちが、察せられるというものである。だが千絵自身は、胸がときめくままに省吾に嫁して来たのだ。
それから六年後の今、千絵は省吾が居なくなった長屋を去ろうとしていた。
「千絵、立ち止まってはならぬ。希望を持って生き抜くのだ」
その言葉を胸に。
心配をかけた千絵の父の清広も三年前に死んでいる。
父の跡は、嫁を貰った長兄の主膳が父の名前を襲い、家督を継いだ。子もいる。
次兄の晴充は、今頃、幕府の隠密としてどこか遠い空の下で働いているはずだ。
千絵は、
『近く、長兄の家に小姑として厄介になることになるのだろう、だが、それはあまり長くない。長兄は、まだ二十三のわたくしをどこか嫁に出したいと考えていそうだから』
と、漠然と考えていた。まだ現実味がないのだ。
そんなある日のことだ。
御広敷添番衆が、棟を連ねて住む長屋の入り口に、葵の紋を付けた立派な女籠が止まって、大奥から来たと思われる、色白の、若くて、たいへん﨟長けた御女中が築山家に入って行った。
以前もそんなことがあった。これで二度目である。しかも二度とも千絵の家だ。
長屋の女衆が、江戸の水道が流れ込んでいる井戸端で働く時間帯に起きたことだ。
皆が、集まり、子供を連れて噂をし始める。この光景、町人長屋も同心長屋も同じだ。
「また、千絵さんのところ?」
「いったい、どなたで、何事なんでしょう。今は千絵さんしかいないのに。亡くなった省吾さん絡みで、また何かあったのかな?」
「どなたが築山家をお訪ねに?前の方と違いますよね?」
「千絵様へ省吾殿のお悔やみのお見舞いではないでしょうか、省吾殿はお城で何か特別な御用を果たしたことがあると聞きます」
「そんなことが?いったいどんなことがあったの?」
「あれは大奥の女駕籠ですよ。しかも上の方の方がお使いになるような」
「中林のご隠居さまであれば、たぶん、あのお方がどなたかわかるのではありませんか」
わあわあと話しているうちに、長屋からひとりの年とった男が、女二人に腕を引っ張られて連れて来られる。
「皆で騒いでおるが、何事なのだ」
「どなたか、大奥からおいでの様なのですが、誰も何も知らぬのです。中林のご隠居さま、あの駕籠はどなたのか、ご存じでしょうか」
「いやいや、わしに現役の女中衆の乗り物はわからんよ。勤めに出ている男衆がおれば、誰とはわからぬまでも、どの様なご身分かは分かるであろうがな」
「もー、じれったい。今長屋に居る耄碌隠居爺たちでは分からんというんですか。頼りにならないですね」
「耄碌爺とはたいそうなご挨拶だな。江戸の太平の世が長く続いておるから許されるものいいぞ。世が世なら、江戸っ子と称す町人やらと同じような、そんなものいいなどする妻子は、『伊賀同心にはあらず』と忽ち家を追い出されたものぞ・・・。ふん。
まぁ、いい。それよりもな、大奥での出来事は城の外どころか、大奥の外ですら話すことが禁じられておる。
だからどこのどなたかわかっても、用向きは、外の者には言えんことも多い。差し支え無き事なら、省吾殿の女房殿が教えてくれるだろうよ。
だから騒ぐでない。添組の恥ぞ。大声を出しなさるなよ。おなご衆、くれぐれも築山家だけでなく、番の頭にまで聞こえて、困らせるような失礼はするでないぞ」
中林家のご隠居が御広敷長屋の噂好きで姦しいおなご衆をなだめる。
『無理もない、大奥の御広敷で働く夫たちも、仕事の話はせんものだからな。せっかくお城で働く身内、しかも大奥の仕事をする身内を持ったものとしては、ちょっとしたことこそ、知りたいと思うのが人情であろうよ』
大奥から来た御女中は、四半刻ほどで築山家を出て来た。
非常に若く、二十歳になっていないのではないだろうか、来た時と同じように無表情でいても、不愛想に見えない。その美しさを損なわない上品な会釈を、玄関横で膝をついて見送る千絵にした。
籠の前でも長屋のおなご衆にも軽く会釈してから、乗ってきた駕籠に乗って帰って行った。
おなご衆のボス、御広敷添番頭、望月貞伸の妻、早苗が千絵に走り寄って事情を聴く。
「まあ、わたしたちにも会釈なさるなんて。
わたしは、もう腰が抜けるほどびっくりして、
慌てて土下座してしまいましたよ。
千絵様、あの御女中様はいったいどなたなの」
千絵はその質問に直接答えず、非常に改まった答えを返した。
「わたしは、『直ちに、この長屋を引き払い、築山家から参るように』と申し付けられましてございまする」
「・・・」
早苗は、それで事の重要性を理解した。
「皆の衆、千絵様は公の御用で、直ちにこの長屋を出て、築山家に戻られることになったという事です。引越しの手伝いをお願いしますよ」
千絵が、迎えに来た省吾の叔父御と、そのお供と、引っ越し荷物と一緒に、築山邸に入ったのは、翌日の朝の早い内であった。しかし、千絵は、あてがわれた部屋に荷物を置く間もなく、築山省吾の叔父御について外出することとなった。
歩いて向かったのは愛宕下大名小路の柳生家上屋敷内の柳生道場である。
柳生道場の庭に打上腰網代の大名駕籠が置いてあり、それに「黙って乗れ」と叔父御に言われた。
さして離れてもいない距離を四人の駕籠かきに担がれ、亡夫の叔父御に駕籠横に付き添われて、ある屋敷に入って止まった。
駕籠かきがいなくなってから、叔父御がゆっくり駕籠を開けた。
初夏の明るい朝の光が朝露に濡れた白砂を照らして、そこから仄かな湯気が上がっている。
「本丸ご老中水野忠邦様の屋敷じゃ。それから、ここと江戸城中のお庭では、私の名は藤林周防保武となる。公儀隠密組の頭という事になっておるのでな。千絵殿とは、この老中の屋敷でだけで使う名じゃ、くれぐれもそのほかの場でその名を出してはならんぞ。ここ以外の地では省吾の叔父御の築山兵右衛門だ。今後は実の叔父と思って、叔父上と呼ぶが良い」
「はい、藤林様」
その言葉に、にこりと愛嬌のある顔で「そうじゃ」と笑った藤林保武が、前を向いて重々しく言う。
「さて、参ろう」
二人の踏む白砂が、ジ、ジ、ジと音をたてる。
白檀の香りが漂う玄関で水野家の側用人が待ち受け、先に立って案内する
「藤林殿、殿がお待ちかねで御座る。私も同席いたしますでのう。ささ、ご遠慮なく、挨拶は部屋にて」
「それではご免」
「ご免被ります」
案内された部屋では、ひとりの侍が小姓に身支度させながら食事をしていた。どうやらご老中水野忠邦その人、本人であるらしかった。
「藤林周防。やって来たか。登城前のこの時間しかないのだ。威儀礼儀の講釈は勘弁してくれ。おお、隣に居るのが、その方の姪御か、美しいのう」
「はっ、姪の千絵。先日、文武共にお役に立てると推薦した者にござりまする」
「千絵、大奥の体面に係る大役じゃ。みごとやり通してくれよ。そこにいる用人の式部に子細をよく聞くことだ。私の目と耳と頭となっている切れ者じゃ。私も首を預けている。信用してよいからな」
「はい、式部さまのご指示に従って動きまする」
「爺、私が特別に目通りを許した者だ。その者が私の身代わりとなって大奥に入る。私自身と考えて、くれぐれも間違いのないように、大切に扱うのだぞ」
「ははー、仰せの通りに」
「私からは以上だ。千絵、私、老中水野忠邦に代わって大奥を救ってくれよ」
「畏まりました。必ずや」
それから、忠邦が慌ただしく登城支度をしている部屋を去り、小さく奥まったところにある部屋で、藤林周防保武と千絵は式部と向かい合った。
「千絵殿、某の名は、式部仙十郎という。主人からは『爺』と呼ばれておる・・・」
式部仙十郎が、それから長々と語ったのは、大きく分けて二つ。大奥で起きた事件と、大奥で千絵が難問にぶつかった時、分からぬことを尋ね、何をすべきなのか、方針を立て、相談する相手が必要だが、その人物は既にいるということだった。
大奥で御半下が行方不明になった。その者を探し出すというのが「指令」であること。
その御半下は御台所様が日常の御用達で使っているもので、雑務と使い走りが主な仕事だったこと。
目立って大柄な肥満体で動作が鈍く「仔牛命婦」と親しみを持って渾名で呼ばれる御半下であること、愛嬌があり宮中でも人気があり、御台所のお気に入りであったため、御台所の願いで大奥まで連れて来たこと等々。
千絵は、形の上で、老中水野忠邦ゆかりの御中臈の下の御半下として、大奥内の表裏に通じ忠邦の大奥の耳目となっている梨雪という御伽坊主と一緒に任務にあたることになった。
「・・・仔牛命婦捜索は、必ず御伽坊主梨雪と相談しながら進めねばならぬぞ。
報告も梨雪にすれば、この仙十郎に届く。老獪この上なき伽坊主であるからな。
間違っても、大奥で新たな問題を起こすでないぞ。
御年寄と呼ばれる方々、御中臈と呼ばれる方々は、
天下の老中と雖も、扱いにくい目の上のたん瘤ともいえるのでな。
事は、征夷大将軍の正妻である御台所様の体面に係ることゆえ、
くれぐれも慎重にな」
式部仙十郎は、大大名ですら「そのほう」と呼び捨てできる老中の権力が、大奥には及ばないことをそれとなく注意するのであった。
(続く)
続編では千絵が大奥に潜り込みます。世話になる中臈に挨拶し、大奥の主のような御茶坊主梨雪からの連絡を待ちます。
ご期待ください。
なお、この物語では千絵の次兄の隠密道中も面白そうですし、省吾の叔父御も大化けしそうなので将来連載化しようと検討しています。




