第6話「母の値段」
母親だけは味方だと思っていた。
教師が逃げても。
学校が隠しても。
警察が何もしてくれなくても。
母さんだけは――
俺たちのために泣いてくれた。
そう信じていた。
十五年間。
だから美咲の言葉を聞いた瞬間、
最初に出てきた感情は怒りじゃなかった。
否定だった。
「嘘だ」
美咲は何も言わない。
「母さんが金を受け取った?」
「……うん」
「あり得ない」
「私、見たの」
「何を?」
「あの日」
美咲はゆっくり話し始めた。
事件から三週間ほど経った夜。
藤堂正臣が家に来た。
俺はその日、学校へ行っていた。
美咲は二階の自分の部屋にいた。
玄関の音。
男の声。
母さんの声。
気になって階段まで出た。
リビングの扉が少しだけ開いていた。
テーブルの上。
茶色い封筒。
正臣がそれを母さんの前に置いた。
「それを……母さんが?」
「最初は受け取らなかった」
美咲が言った。
「怒ってた」
「だったら――」
「でも最後は受け取った」
頭が熱くなった。
「いくら?」
「分からない」
「何の金?」
「分からない」
「なんで十五年間黙ってた?」
美咲は俺を見る。
「お兄ちゃんが壊れそうだったから」
「もう壊れてるよ」
思わず口から出た。
美咲が黙った。
俺自身も驚いた。
でも――
否定できなかった。
午前二時。
俺は実家へ向かった。
母さんは今も同じ家に住んでいる。
呼び鈴を押す。
しばらくして明かりがついた。
「はい……」
扉が開く。
「蓮?」
母さんは六十二歳になっていた。
小さくなった。
白髪も増えた。
「こんな時間にどうしたの?」
俺は母さんを見た。
十五年前。
泣きながら俺と美咲を抱きしめた人。
その人に聞いた。
「藤堂正臣から金もらった?」
母さんの顔が変わった。
それだけで分かった。
リビング。
俺が昔使っていた椅子がまだあった。
母さんはお茶を入れようとした。
「いらない」
「でも――」
「いくら?」
「蓮」
「いくらだった?」
母さんは椅子に座った。
「……三百万円」
笑ってしまった。
美咲の十五年。
俺の十五年。
三百万円。
「何の金?」
「示談金よ」
「示談?」
「正確には……見舞金」
「警察には?」
「言ってない」
「学校には?」
「言ってない」
「なんで?」
母さんが俯く。
「生活が苦しかった」
その言葉で、何かが切れた。
「生活?」
「あなたたちを育てるために――」
「美咲を売ったのか?」
母さんが顔を上げた。
「違う!」
「何が違う!」
俺は立ち上がった。
「金受け取って黙ったんだろ!」
「黙ってない!」
「じゃあ何だよ!」
母さんも立ち上がった。
「戦ったわよ!」
泣いていた。
「警察にも行った!」
「……」
「学校にも何度も行った!」
「……」
「弁護士にも相談した!」
初めて聞いた。
「でも証拠がないって言われた」
母さんの声が震える。
「写真もない。映像もない。本人たちは否定してる」
俺は佐伯が持っていた写真を思い出した。
証拠は――
あった。
学校が隠していた。
「それで諦めた?」
「違う」
母さんは首を振った。
「藤堂さんが来たの」
「正臣が?」
「ええ」
正臣は一人で来たという。
最初は謝罪だった。
息子が迷惑をかけた。
申し訳ない。
だが途中から話が変わった。
『このまま騒いでも、お互い傷つくだけです』
母さんは断った。
すると正臣は封筒を置いた。
三百万円。
『治療費にしてください』
母さんは突き返した。
だが正臣は、最後にこう言った。
『息子さんのことも考えてください』
俺のこと。
『これ以上学校で居場所をなくしたら、かわいそうでしょう』
脅しだった。
母さんにはそう聞こえたという。
「それで受け取った?」
「……そうよ」
「俺のため?」
「あなたと美咲のためよ」
まただ。
俺のため。
美咲のため。
みんな同じことを言う。
「便利な言葉だな」
「蓮」
「俺のためなら何してもいいんだな」
「違う」
「だったらなんで言わなかった!」
母さんが黙った。
「十五年間!」
俺の声だけが響く。
「なんで俺に言わなかった!」
「言えるわけないでしょ!」
母さんが叫んだ。
「あなた、自分を殺そうとしたじゃない!」
止まった。
「……何?」
「覚えてないの?」
何の話だ。
「事件の二か月後」
母さんが泣いている。
「あなた、いなくなったのよ」
記憶がない。
「川の橋で見つかった」
頭の奥が痛んだ。
断片。
夜。
冷たい風。
川。
赤いランプ。
誰かの声。
『蓮!』
「……俺が?」
「警察の人が保護してくれた」
母さんが顔を覆う。
「あなた、何も覚えてなかった」
知らなかった。
いや。
忘れていた。
「医者から言われたの」
『これ以上、事件について本人を追い詰めない方がいい』
「だから私は……」
母さんは泣いた。
「終わらせるしかないと思った」
俺は座った。
怒りの行き場がなくなった。
母さんは悪い。
学校も悪い。
藤堂も悪い。
俺も?
誰を憎めばいい。
「金は?」
俺は聞いた。
「三百万円」
母さんはしばらく黙った。
「使ってない」
「え?」
母さんは立ち上がった。
押し入れから古い通帳を持ってきた。
俺の前に置く。
口座名義。
三上美咲。
残高。
三百万円。
ほぼそのまま残っていた。
「美咲が大人になったら渡そうと思ってた」
「……」
「でも受け取らなかった」
母さんは言った。
「こんなお金いらないって」
俺は通帳を見つめた。
金額が数字にしか見えなかった。
人間の十五年間に値段なんてつけられない。
それでもそこには、
三百万という数字が印刷されていた。
「母さん」
「何?」
「正臣は他に何か言ってなかった?」
母さんの表情が変わった。
「……どうして?」
「教えて」
「もうやめなさい」
「母さん」
「蓮」
母さんが俺の手を握った。
「お願いだから、昔のことを調べないで」
まただ。
佐伯。
美咲。
母さん。
全員が同じことを言う。
「なんで?」
「知らなくていいこともある」
「俺の人生の話だよ」
「だからよ」
母さんの手が震えていた。
「あなたは知らない方がいい」
「何を?」
母さんは答えなかった。
俺はスマートフォンを取り出した。
相沢から美咲へ届いた手紙の写真を見せる。
『誰かが教えたんです。』
『私は、その人が誰なのか知っています。』
母さんの顔色が変わった。
「これ、知ってる?」
「……知らない」
嘘だった。
「母さん」
「知らない」
「俺の顔見て言って」
母さんは俺を見なかった。
「名前が切り取られてる」
「……」
「誰が切った?」
沈黙。
「母さん?」
肩が震えている。
「……私よ」
世界が止まった。
「何?」
「私が切った」
「なんで?」
「美咲に知られたくなかった」
「誰の名前だった?」
母さんは首を振る。
「言えない」
「言えよ」
「言えない!」
「誰だ!」
「蓮!」
母さんが叫んだ。
そして――
泣き崩れた。
「あなたなのよ」
意味が分からなかった。
「……何が?」
母さんが俺を見る。
「手紙に書いてあった名前」
息が止まった。
「何言ってるんだ?」
「相沢さんが書いていたの」
母さんは震える声で続けた。
『美咲ちゃんとの待ち合わせを藤堂たちに教えたのは、蓮くんです』
理解できない。
「……俺?」
「そう書いてあった」
「嘘だ」
「だから切ったの!」
「俺が美咲を?」
「違う!」
母さんは必死に首を振った。
「あなたは知らなかった!」
「じゃあどういう意味だよ!」
「分からない!」
「俺は何をした!」
「分からないのよ!」
頭が痛い。
十五年前の記憶。
抜け落ちている。
事件の日。
放課後。
俺は何をしていた?
確か――
藤堂に呼ばれた。
違う。
それは別の日?
二月十四日。
美咲が消えた日。
俺は学校で何をしていた?
思い出せない。
その瞬間。
頭の奥で、
声がした。
『なあ三上』
藤堂の声。
『今日、妹ちゃん誰かと会うらしいじゃん』
俺は――
何と答えた?
記憶が途切れる。
次に浮かんだのは、
藤堂の笑顔。
そして俺自身の声。
『……空き家だよ』
俺は立ち上がった。
吐き気がした。
「違う……」
母さんが俺を見る。
「蓮?」
「違う」
頭を押さえる。
「俺じゃない」
でも記憶が戻ってくる。
藤堂に聞かれた。
妹はどこにいる。
俺は知らないと言った。
殴られた。
もう一度聞かれた。
俺は――
答えた。
場所を。
俺が教えた。
「俺だ……」
膝から力が抜けた。
床に座り込む。
十五年間。
俺は妹を守れなかったと思っていた。
違った。
もっと酷い。
美咲があの家にいることを――
藤堂たちに教えたのは俺だった。
もちろん、
俺は何が起きるか知らなかった。
脅されていた。
怖かった。
それでも。
あいつらがあの場所へ行けた最後の一本を繋いだのは――
俺だった。
だから美咲は言ったのか。
『私のためって言わないで』
俺は復讐することで、
妹を救おうとしていたんじゃない。
十五年前の自分を、
無罪にしたかっただけなのかもしれない。
そのとき。
スマートフォンが震えた。
知らない番号。
まただった。
メッセージ。
『思い出した?』
俺の指が止まる。
続けて届く。
『でも安心して。』
『君が教えなくても、僕たちは場所を知ってたよ。』
僕たち。
俺は画面を凝視した。
次のメッセージ。
『相沢は半分しか知らなかった。』
そして最後。
『本当に美咲ちゃんを狙っていたのは、翔太じゃない。』
添付画像。
十五年前の空き家。
玄関前。
そこに立っていたのは――
藤堂翔太たちではなかった。
スーツ姿の男。
藤堂正臣。
撮影時刻。
17時08分。
俺が空き家へ到着したのは、
午後六時過ぎ。
つまり正臣は――
俺より一時間近く前から、
あの場所にいた。
俺は画面を見つめた。
十五年間、
これは子供同士のいじめだと思っていた。
でも違う。
最初から――
大人がいた。
――第6話 END




