第5話「美咲の嘘」
妹が嘘をついたことは、ほとんどなかった。
子供の頃からそうだった。
冷蔵庫のプリンを勝手に食べても、
「私が食べた」
と白状するような子だった。
だから俺は十五年間、
美咲の言葉を疑ったことがなかった。
でも――
あの夜。
初めて思った。
俺は妹のことを、何も知らないのかもしれない。
『本当は誰を呼び出すために、あの家へ行ったのか。』
知らない番号から届いたメッセージ。
俺は何度も読み返した。
美咲が誰かを呼び出した?
あり得ない。
美咲は連れ去られた。
そう聞いていた。
少なくとも俺は、十五年間そう思っていた。
俺は美咲に電話した。
出ない。
もう一度。
出ない。
三度目。
電源が切られた。
俺は上着を掴んだ。
美咲のマンションまでは車で一時間ほどだった。
午前零時を回っていた。
インターホンを押す。
反応はない。
「美咲」
もう一度。
「俺だ」
しばらくして。
扉が少しだけ開いた。
美咲が立っていた。
「……こんな時間に来ないでよ」
目が赤い。
泣いていた。
「話がある」
「明日にして」
「十五年待った」
美咲が俺を見る。
「もう待てない」
部屋は綺麗だった。
昔から美咲は几帳面だった。
ただ一つだけ、不自然なものがあった。
テーブルの上。
古い封筒。
俺が近づくと、美咲が慌てて取った。
「何それ?」
「関係ない」
「十五年前のもの?」
「違う」
また嘘。
「美咲」
「帰って」
「相沢は何者なんだ?」
美咲の顔が固まった。
「知らない」
「お前、さっき言ったよな」
「……」
「相沢が助けようとしてくれたって」
「忘れて」
「無理だ」
「お願い」
「無理だ!」
声を荒らげた。
美咲の肩が跳ねた。
その瞬間。
十五年前の美咲が重なった。
怯えた目。
俺はすぐに声を落とした。
「……ごめん」
美咲は俯いた。
「俺は責めたいんじゃない」
「……」
「知りたいだけなんだ」
「知ってどうするの?」
「終わらせる」
美咲が俺を見る。
「何を?」
答えられなかった。
美咲は悲しそうに笑った。
「やっぱり」
「何が?」
「お兄ちゃん、復讐するつもりなんだ」
沈黙。
「藤堂さんたちに」
「……」
「佐伯先生にも?」
「美咲」
「相沢さんにも?」
俺は答えなかった。
それが答えだった。
美咲の目から涙が落ちた。
「私のため?」
「当たり前だろ」
「やめてよ」
「なんでだよ」
「私、頼んでない!」
部屋に声が響いた。
「私、一度も頼んでないよ!」
「でもお前は――」
「私のためって言わないで!」
初めてだった。
美咲が俺に怒鳴ったのは。
「お兄ちゃんが復讐したいんでしょ!」
言葉が出なかった。
「私を理由にしないで!」
胸を殴られたようだった。
「……違う」
「何が違うの?」
「俺は、お前が――」
「じゃあ私が許すって言ったら?」
止まった。
「全員許す」
美咲が言った。
「藤堂さんも、久我さんも、石田さんも、村瀬さんも」
「やめろ」
「佐伯先生も」
「やめろ」
「全員許す」
「やめろ!」
俺はテーブルを叩いた。
美咲は黙った。
俺の手が震えていた。
その震えを見て、
美咲が言った。
「ほら」
「……」
「やっぱり私のためじゃない」
何も言い返せなかった。
長い沈黙。
やがて美咲が椅子に座った。
「……私、あの日」
ゆっくり話し始めた。
「自分であの家に行った」
頭の中が止まった。
「何?」
「連れ去られたんじゃない」
「……誰に呼ばれた?」
美咲は首を振った。
「私が呼んだの」
「誰を?」
美咲は答えなかった。
「相沢?」
小さく頷いた。
理解できなかった。
「なんで小学生のお前が、中学生の相沢を?」
「お兄ちゃんのため」
俺のため?
「どういう意味だよ」
「知ってたから」
「何を?」
「お兄ちゃんがいじめられてたこと」
身体が固まった。
「……いつから?」
「ずっと」
俺は何も言えなくなった。
「制服が汚れてた」
美咲が言った。
「毎日帰る時間が遅くなった」
「……」
「お金もなくなってた」
「……」
「夜、部屋で泣いてた」
やめてくれ。
「私、知ってたよ」
守っていたつもりだった。
何も知らない妹を。
俺が守っていると思っていた。
違った。
全部見られていた。
「それで……相沢に?」
「女の先輩がいるって聞いた」
「誰から?」
「友達のお姉ちゃん」
美咲は続けた。
「お兄ちゃんのクラスで、藤堂さんに逆らえる人が一人いるって」
相沢真奈。
「だから手紙を書いた」
「何て?」
「お兄ちゃんを助けてくださいって」
胸が苦しくなった。
「相沢は来たのか?」
「来た」
「じゃあ、どうして……」
美咲の手が震え始めた。
「相沢さん、本当に助けてくれようとした」
「……」
「でも」
そこで美咲の呼吸が乱れた。
「もういい」
「……」
「無理して話すな」
「違う」
美咲が首を振った。
「言わなきゃダメなの」
「美咲」
「ずっと黙ってたから」
美咲は涙を拭いた。
「相沢さんが来たあと――」
玄関が鳴ったという。
相沢は、美咲に隠れるよう言った。
だが入ってきたのは藤堂たちだった。
「なんで場所が分かった?」
「……相沢さんの携帯を見られてたみたい」
「藤堂に?」
頷く。
藤堂は相沢を問い詰めた。
なぜ三上の妹と会っているのか。
何を企んでいるのか。
そして――
美咲を見つけた。
「そこからは……」
美咲の声が消えた。
「言わなくていい」
俺は止めた。
「分かったから」
「分かってない」
「もういい」
「違うの!」
美咲が俺を見る。
「相沢さんは逃げなかった」
「……え?」
「私を庇った」
美咲の記憶では、相沢は藤堂たちにやめるよう訴え続けた。
途中で外へ助けを求めに走った。
そして――
戻ってこなかった。
「だから佐伯先生は言ったのか」
最初に助けようとしたのは相沢だった。
だが疑問が残る。
「じゃあ、なんで佐伯は『相沢が言い出した』なんて言った?」
美咲が俺を見る。
「それは私も知らない」
誰かが嘘をついている。
佐伯か。
美咲か。
相沢か。
それとも――
全員が少しずつ違う真実を見ているのか。
「その封筒」
俺はテーブルを見る。
「相沢から?」
美咲はしばらく迷った。
そして封筒を差し出した。
消印は十五年前。
事件から約一か月後。
宛名。
三上美咲様。
差出人。
相沢真奈。
「なんで今まで……」
「怖くて読めなかった」
「十五年間?」
「うん」
封は開いていない。
俺は美咲を見る。
「開けてもいい?」
美咲は頷いた。
俺は慎重に封を切った。
便箋が三枚。
最初の一行。
『美咲ちゃんへ。』
その次。
『本当にごめんなさい。』
読み進める。
相沢は謝っていた。
自分が美咲を巻き込んだこと。
守れなかったこと。
学校に真実を話したこと。
そして最後のページ。
ある文章で、
俺の手が止まった。
『美咲ちゃんには、まだ言えません。』
その下。
『でも、いつか蓮くんには本当のことを話します。』
さらに――
『藤堂くんたちが、あの日あの家へ来た理由は、私の携帯を見たからではありません。』
俺は息を止めた。
美咲も手紙を覗き込む。
最後の数行。
『誰かが教えたんです。』
『私と美咲ちゃんが会うことを知っていた人がいました。』
そして。
『私は、その人が誰なのか知っています。』
そこから先。
便箋が破られていた。
名前の部分だけ。
綺麗に。
切り取られている。
「……美咲」
「私じゃない」
「でも封は閉じてた」
「本当に知らない」
誰かが一度開封し、
名前だけを切り取り、
もう一度封をした?
十五年前に?
誰が?
そのとき。
便箋の間から小さな紙片が落ちた。
写真だった。
体育祭の集合写真。
裏返す。
相沢の字。
『この中にいます。』
表を見る。
俺。
藤堂。
久我。
石田。
村瀬。
相沢。
佐伯。
クラスメート。
そして――
端に一人の男が写っていた。
制服ではない。
教師でもない。
スーツ姿。
俺はその顔を知っていた。
十五年前。
事件後に一度だけ、
家に来た男。
母さんと二人で話していた。
帰り際、
俺の頭を撫でて、
こう言った。
『大変だったな。もう安心していい』
当時のPTA会長。
藤堂翔太の父親。
藤堂正臣。
写真の正臣の顔に、
赤いペンで小さな丸がつけられていた。
俺は写真を握った。
その瞬間。
美咲が呟いた。
「お兄ちゃん」
「何?」
美咲は写真ではなく、
俺を見ていた。
「私……もう一つ嘘ついてる」
嫌な予感がした。
「何?」
「事件のあと」
美咲の唇が震える。
「藤堂さんのお父さんが家に来た日」
「……うん」
「お母さん、お金を受け取ってた」
音が消えた。
「何……言ってんの?」
「私、見た」
「嘘だ」
「本当」
「母さんがそんなこと――」
「お兄ちゃん」
美咲が泣いた。
「私たちのお母さんも――」
そして言った。
「全部知ってたんだよ。」
俺が十五年間信じていたものが、
また一つ、
音を立てて崩れた。
――第5話 END




