第4話「相沢真奈」
人間の記憶は、自分に都合よくできている。
忘れたいことは薄れていく。
思い出したくない顔は、ぼやけていく。
だから俺は十五年間、
あの女を忘れていた。
相沢真奈。
俺が泥水の中から教科書を拾っていたとき。
校舎の窓から俺を見ていた女。
目が合った。
助けを求めた。
そして――
カーテンを閉めた女。
「相沢が……言い出した?」
俺は佐伯を見た。
「何を?」
佐伯は黙っていた。
「先生」
「……」
「何を言い出したんですか?」
「もう帰ってくれ」
「ここまで話して、それはないでしょう」
「三上」
佐伯の声が震えた。
「これ以上知って、何をするつもりだ」
答えなかった。
答える必要もなかった。
佐伯は俺の目を見ていた。
そして、何かを悟ったようだった。
「……やめろ」
「何をです?」
「十五年前を掘り返すな」
笑ってしまった。
「先生」
「……」
「埋めたの、俺じゃないですよ」
佐伯が黙る。
「先生たちでしょ?」
その瞬間。
佐伯の顔から血の気が引いた。
俺は確信した。
学校は何かを隠した。
「写真を見せてください」
「駄目だ」
「どうして十五年前の写真を持ってるんです?」
「関係ない」
「二月十四日の写真ですよね?」
佐伯の手が止まる。
「美咲が被害に遭った日です」
「……」
「偶然ですか?」
答えない。
俺は立ち上がった。
「じゃあ警察に聞きます」
「待て」
初めて佐伯から俺を止めた。
振り返る。
「……写真は、私が撮ったものじゃない」
「誰が?」
「匿名で送られてきた」
「いつ?」
「事件の三日後だ」
「警察には?」
沈黙。
嫌な予感がした。
「渡してないんですか?」
佐伯は俺から目を逸らした。
「……渡していない」
その瞬間。
椅子を蹴った。
大きな音が応接室に響いた。
「ふざけんなよ!」
佐伯が身体を震わせた。
「写真があったんだろ!」
「三上、落ち着け!」
「証拠だったかもしれない!」
「写真だけでは何も――」
「それを決めるのはお前じゃねえだろ!」
十五年前。
ずっと言えなかった。
教師だったから。
大人だったから。
俺より正しいと思っていたから。
でも違った。
ただの人間だった。
しかも――
逃げた人間だった。
「なんで渡さなかった?」
佐伯は唇を噛んだ。
「……止められた」
「誰に?」
答えない。
「校長?」
「違う」
「藤堂の親?」
佐伯の目が動いた。
一瞬だった。
でも十分だった。
「……藤堂の親なんですね?」
「違う」
「今、顔に出ましたよ」
「三上!」
俺は佐伯に近づいた。
「藤堂の親って、何者だったんです?」
佐伯はしばらく黙っていた。
そして。
「当時のPTA会長だ」
記憶が蘇った。
入学式。
壇上で挨拶していた男。
地域の建設会社を経営していると聞いたことがある。
藤堂翔太の父親。
藤堂正臣。
「それだけ?」
「……市の教育関係者とも繋がりがあった」
「だから?」
佐伯は答えない。
もう答えは出ていた。
学校は守った。
被害を受けた子供ではなく――
自分たちを。
学校を出た。
雨が降っていた。
傘は持っていなかった。
どうでもよかった。
スマートフォンを取り出す。
検索窓に入力した。
相沢真奈
同姓同名が何人も出る。
画像。
SNS。
会社情報。
一時間近く探した。
そして見つけた。
プロフィール写真。
間違いない。
三十代になっていた。
髪型も違う。
化粧もしている。
でも目だけは覚えていた。
相沢真奈。
現在三十五歳。
職業――
スクールカウンセラー。
画面を見たまま動けなくなった。
子供の相談に乗る仕事。
紹介文が掲載されている。
『子供たちが一人で悩みを抱え込まない環境を作りたい』
笑った。
雨の中で。
声を出して笑った。
「……すげえな」
藤堂は、いい父親。
村瀬は、人との縁を大切にする経営者。
佐伯は、子供に寄り添う教頭。
そして相沢は――
子供を救うカウンセラー。
俺と美咲を壊した人間たちは、
十五年かけて、
立派な大人になっていた。
その夜。
俺は古い段ボールを開けた。
実家から持ってきたものだった。
卒業アルバム。
プリント。
ノート。
写真。
十五年間、一度も開けていない。
卒業アルバムをめくる。
相沢真奈。
笑っていた。
成績優秀。
学級委員。
教師からの評判もよかった。
藤堂たちとは、表向きほとんど接点がなかったはずだ。
「なんでだ……?」
なぜ相沢が?
俺を嫌う理由は?
美咲なんて、ほとんど知らないはずだ。
ページをめくる。
文化祭。
体育祭。
修学旅行。
そして。
一枚の集合写真で手が止まった。
藤堂。
その隣に相沢。
距離が近い。
よく見ると――
二人の手が触れていた。
「付き合ってた……?」
知らなかった。
いや。
俺が周りを見ていなかっただけか。
そのとき。
アルバムから何かが落ちた。
小さく折られた紙。
古い。
開く。
女子の字だった。
『三上くんへ』
心臓が跳ねた。
『急にごめんなさい。』
『ずっと言えなかったんだけど――』
途中から黒いペンで塗り潰されている。
でも最後だけ読めた。
『返事、待ってます。 真奈』
俺は何度も読み返した。
意味が分からなかった。
相沢が俺に?
いつ?
記憶を探る。
何もない。
こんな手紙を受け取った記憶はなかった。
紙を裏返す。
裏側に別の筆跡。
太い黒ペン。
たった一言。
『勘違いすんなよ』
藤堂の字だった。
スマートフォンが鳴った。
美咲からだった。
「もしもし」
『お兄ちゃん』
「どうした?」
『今日、青葉中行った?』
背筋が冷たくなった。
「なんで知ってる?」
美咲が黙る。
「美咲?」
『……佐伯先生から電話きた』
「何て?」
『お兄ちゃんを止めてくれって』
俺は笑った。
「余計なことを」
『お兄ちゃん』
「大丈夫。美咲には関係ない」
『関係あるよ』
「俺が全部やる」
電話の向こうで、美咲が息を呑んだ。
『何を?』
「……」
『何をするつもりなの?』
答えなかった。
すると美咲が言った。
『相沢さんに会うつもり?』
時間が止まった。
「……なんでその名前を知ってる?」
沈黙。
「美咲」
『……』
「相沢のこと知ってたのか?」
『知らない』
「嘘つくな」
『知らない!』
「じゃあなんで――」
『会っちゃダメ!』
美咲が叫んだ。
初めて聞く声だった。
「どうして?」
電話の向こうで泣いている。
「美咲」
『お願い……』
「何を知ってる?」
『知らない』
「十五年前、相沢に何かされたのか?」
『違う』
「じゃあ何なんだよ!」
沈黙。
長かった。
そして美咲は、小さく言った。
『お兄ちゃん……』
「うん」
『あの日ね』
声が震えている。
『私をあの家から最初に助けようとしてくれた人――』
俺は息を止めた。
『相沢さんだったよ』
「……え?」
理解できなかった。
「何言ってんだ?」
『私、覚えてる』
「だって佐伯は――」
『相沢さんはいた』
美咲が泣いている。
『でも、あの人は……』
そこで言葉が止まった。
「何?」
『……言えない』
「美咲!」
電話が切れた。
俺はすぐにかけ直した。
出ない。
もう一度。
出ない。
そのときだった。
知らない番号からメッセージが届いた。
写真が一枚。
十五年前の写真だった。
古い空き家。
その玄関前に――
俺が写っていた。
美咲を探して走ってきた、
十五年前の俺。
写真の下に文章。
『まだ調べてるんだね、三上くん。』
続けて、もう一通。
『だったら教えてあげる。』
そして最後。
『あの日、一番最初にあの家にいたのは――あなたの妹だよ。』
意味が分からなかった。
送信者の名前はない。
俺は画面を見つめた。
すると、さらに一通届いた。
今度は短かった。
『美咲ちゃんに聞いてみれば?』
『本当は誰を呼び出すために、あの家へ行ったのか。』
十五年間、
俺は妹を被害者だと思っていた。
それは間違っていない。
だけど――
俺はまだ、
あの日の始まりを知らなかった。
――第4話 END




