第3話「五人目の名前」
人を壊すのは、暴力だけじゃない。
殴った奴。
笑った奴。
見ていた奴。
そして――
知っていたのに、何もしなかった奴。
十五年前。
俺はそれを知らなかった。
大人になって初めて分かった。
沈黙も、人を殺すことがある。
同窓会まで、あと十二日。
午前七時。
俺はいつも通り会社へ向かった。
電車に乗り、ネクタイを締め、誰とも目を合わせず出勤する。
「三上さん、おはようございます」
「おはよう」
「昨日の資料、確認お願いします」
「分かった」
会社では普通の人間だった。
少なくとも、そう見えているはずだ。
仕事は遅刻しない。
期限は守る。
酒もほとんど飲まない。
トラブルも起こさない。
同僚からは、
「真面目な人」
そう思われている。
誰も知らない。
俺が十五年間、
五人の人生を追い続けてきたことを。
昼休み。
俺は会社近くの公園へ向かった。
ベンチに座る。
スマートフォンを開く。
最初に調べたのは――
久我直樹。
当時、藤堂の右腕だった男。
俺を殴るのは藤堂より久我の方が多かった。
今は中古車販売会社の店長。
結婚歴あり。
三年前に離婚。
次。
石田亮介。
当時はいつも笑っていた。
自分では手を出さない。
でも誰より楽しそうに笑う男だった。
現在は不動産会社勤務。
妻と息子がいる。
次。
村瀬和也。
こいつは撮影係だった。
俺が殴られているところ。
泥水をかけられているところ。
泣いているところ。
スマホで撮影していた。
現在は飲食店を経営。
SNSにはこう書いてあった。
『人との縁を大切に。』
笑いそうになった。
「……縁、か」
最後。
佐伯隆志。
俺たちの担任だった男。
現在五十二歳。
数年前に教頭へ昇進。
学校の広報誌に写真が載っていた。
優しそうな笑顔。
その横には文章。
『子供たち一人ひとりに寄り添える学校を目指します』
指が止まった。
十五年前の声が蘇る。
『気持ちは分かる』
俺はスマートフォンを伏せた。
吐き気がした。
「お兄ちゃん?」
夜。
久しぶりに美咲から電話が来た。
「どうした?」
『別に。元気かなと思って』
現在、美咲は二十六歳。
実家から離れた街で一人暮らしをしている。
仕事もしている。
日常生活も送れている。
だけど。
十五年前の出来事が消えたわけじゃない。
「美咲」
『ん?』
「……同窓会の案内が来た」
沈黙。
数秒だったと思う。
でも異様に長く感じた。
『行くの?』
「そのつもり」
『やめなよ』
即答だった。
「どうして?」
『どうしてって……』
美咲の声が低くなる。
『もう終わったことでしょ』
俺は何も言えなかった。
終わった?
「美咲は……終わったと思ってる?」
また沈黙。
『終わらせようとしてるの』
その言葉が胸に刺さった。
『私、十五年かかったんだよ』
「……うん」
『電気消して寝られるようになるまで』
「うん」
『知らない男の人が後ろ歩いてても、逃げなくて済むようになるまで』
「……うん」
『普通にお風呂に入れるようになるまで』
声が震えていた。
『十五年かかったんだよ』
俺は拳を握った。
だからだ。
だから許せない。
「だったら――」
『だから、やめて』
言葉を遮られた。
『お兄ちゃんまで戻らないで』
「……」
『お願い』
電話が切れた。
俺は暗い部屋で一人になった。
美咲は知らない。
俺は一度だって、
あの日から出られていない。
翌日。
会社を休んだ。
向かったのは母校だった。
青葉中学校。
十五年ぶり。
校舎は建て替えられていた。
体育館も新しくなっている。
焼却炉はなくなっていた。
俺の教科書が沈められていた場所には、花壇ができていた。
笑いそうになった。
「何か御用ですか?」
背後から声。
振り返る。
女性教師だった。
「あ……卒業生なんです」
「そうなんですね」
「昔の先生に会いたくて」
「どなたですか?」
俺は答えた。
「佐伯先生です」
「ああ、佐伯教頭ですね」
まだここにいる。
「今日はいますか?」
「少々お待ちください」
数分後。
廊下の向こうから男が歩いてきた。
白髪が増えていた。
腹も少し出ていた。
でも――
間違えるはずがない。
佐伯隆志。
俺の担任。
俺を見殺しにした男。
「卒業生が私に?」
佐伯が笑顔で近づいてくる。
俺を見る。
「……ええと」
覚えていない。
当然か。
佐伯にとって俺は、何百人もいた生徒の一人。
俺にとって佐伯は――
人生を変えた一人。
「三上です」
「三上……?」
「三上蓮」
その瞬間。
佐伯の表情が変わった。
ほんの一瞬。
でも俺は見逃さなかった。
覚えている。
「……ああ」
佐伯は笑った。
「三上か。久しぶりだな」
「お久しぶりです」
「元気だったか?」
元気?
俺は笑った。
「はい」
「そうか。それはよかった」
よかった。
まただ。
この男は簡単に言う。
「先生」
「ん?」
「美咲のこと、覚えてます?」
佐伯の笑顔が消えた。
廊下を子供たちが走っていく。
「廊下走るなよ!」
佐伯が注意する。
そして俺を見る。
「……ここでは話せないな」
「じゃあ、どこなら話せます?」
応接室。
二人きり。
佐伯は俺にお茶を出した。
「十五年前の件だな」
「はい」
「三上」
佐伯が深く息を吐く。
「当時は……本当に申し訳なかったと思ってる」
謝罪。
十五年間欲しかった言葉のはずだった。
でも何も感じなかった。
「先生」
「ん?」
「藤堂たちがやったんですよね?」
佐伯が黙った。
「警察には証拠が足りなかった」
「それは知ってます」
「学校も調査した」
「それも聞きました」
「なら――」
「先生は知ってたでしょ?」
佐伯の指が止まった。
「何を?」
「俺がいじめられてたこと」
「……」
「知ってましたよね?」
長い沈黙。
そして。
「……知っていた」
あまりにも簡単だった。
十五年間。
俺が聞きたかった答え。
「いつから?」
「かなり早い段階からだ」
「なんで助けなかった?」
佐伯は下を向いた。
「当時の私は……」
「なんで?」
「問題を大きくしたくなかった」
俺の中で何かが冷たくなった。
「学校のため?」
「違う」
「自分のため?」
「三上」
「自分が面倒だったから?」
「違う!」
佐伯が声を荒らげた。
そして。
次の言葉で――
空気が変わった。
「私だって怖かったんだ」
「……何が?」
佐伯は答えなかった。
「中学生が怖かったんですか?」
「違う」
「じゃあ何?」
佐伯が俺を見る。
怯えていた。
「藤堂じゃない」
「え?」
「私が怖かったのは藤堂じゃない」
意味が分からなかった。
「どういうことですか?」
佐伯は立ち上がった。
「今日は帰ってくれ」
「待ってください」
「帰れ」
「誰が怖かったんです?」
佐伯は答えない。
俺はさらに聞いた。
「美咲の事件と関係あるんですか?」
佐伯の顔色が変わった。
間違いない。
何か知っている。
「先生」
「帰れ」
「教えてください」
「帰れ!」
佐伯が机を叩いた。
そのときだった。
ポケットから何かが落ちた。
古い写真。
佐伯が慌てて拾う。
でも俺は見た。
写真に写っていた人物。
藤堂。
久我。
石田。
村瀬。
そして――
もう一人。
女だった。
俺はその顔を知っていた。
十五年前。
校舎の窓から、
泥水にまみれた俺を見ていた女。
俺と目が合い――
カーテンを閉めた女。
「先生」
佐伯の手が震えている。
「その女……誰ですか?」
佐伯は答えなかった。
俺は名前を思い出そうとした。
そして。
記憶が繋がった。
相沢真奈。
当時、同じクラスだった女子生徒。
十五年間。
俺は藤堂たち四人が美咲を襲ったと思っていた。
でも――
写真の裏側に書かれた日付が見えた。
二月十四日。
美咲が連れ去られた日。
俺は佐伯を見る。
「なんで……」
声が震えた。
「なんでこいつが一緒にいるんです?」
佐伯は目を閉じた。
そして小さく言った。
「三上」
「……はい」
「お前は十五年間、一つ勘違いしている」
心臓が鳴った。
「美咲さんの件を最初に言い出したのは――」
佐伯の口が動く。
「藤堂じゃない」
俺は動けなかった。
佐伯は続けた。
「相沢だ。」
十五年間。
俺は復讐する相手を、
間違えていた。
いや。
違う。
一人、足りなかった。
――第3話 END




