第2話「妹が笑わなくなった日」
美咲は、よく笑う子だった。
くだらないことで笑った。
テレビの芸人が転べば笑い、俺が卵焼きを焦がせば笑い、アイスの棒に「当たり」と書いてあるだけで家中を走り回った。
だから俺は――
美咲が笑わなくなった日のことを、今でも一分一秒忘れられない。
十五年前。
中学二年の冬。
俺へのいじめは、もう日常になっていた。
上履きがなくなる。
給食にゴミを入れられる。
体育着を濡らされる。
トイレに入れば、外から鍵を押さえられる。
殴られることもあった。
それでも俺は学校へ行った。
休めば母さんにバレる。
父親がいなくなってから、母さんは朝から夜まで働いていた。
「蓮と美咲だけは、ちゃんと学校を卒業させるからね」
それが母さんの口癖だった。
言えるわけがなかった。
学校へ行くことが、毎朝処刑台へ向かうような気分だなんて。
その日。
放課後の靴箱に一枚の紙が入っていた。
『体育倉庫に来い』
嫌だった。
でも行かなければ、翌日はもっと酷くなる。
そういうルールだった。
体育倉庫の扉を開ける。
藤堂翔太がいた。
その横には、いつもの三人。
「遅えよ」
「……何?」
藤堂が俺のスマホを取り上げた。
「返して」
「今日さ、お前にプレゼントがあるんだよ」
嫌な笑い方だった。
「何……?」
「最近、お前つまんねえから」
藤堂がスマホを操作する。
そして画面を俺に向けた。
写真だった。
ランドセルを背負った女の子。
俺は一瞬、意味が分からなかった。
次の瞬間。
心臓が止まりそうになった。
「……美咲?」
妹だった。
学校から帰る途中の美咲が、遠くから撮影されていた。
「かわいい妹じゃん」
藤堂が笑った。
「やめろ」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「美咲は関係ないだろ」
「おお、怖っ」
周りが笑う。
俺は藤堂に掴みかかった。
初めてだった。
殴られても。
蹴られても。
俺は反抗したことがなかった。
でも妹だけは違った。
「妹に何かしたら――」
腹に拳が入った。
息が止まった。
床に崩れ落ちる。
「調子乗んなよ」
頭を踏まれた。
「お前が決めることじゃねえんだよ」
藤堂の声だけが聞こえた。
「次、俺らに逆らったらどうなるか分かるよな?」
俺は床を見ながら答えた。
「……分かった」
「聞こえねえ」
「分かった!」
笑い声。
「最初からそうしろよ」
俺は走って帰った。
美咲は家にいた。
「お兄ちゃん、おかえり!」
いつもの美咲だった。
俺は思わず抱きしめた。
「え、なに?」
「……なんでもない」
「苦しいよ」
「ごめん」
美咲は笑った。
「変なお兄ちゃん」
安心した。
何も起きていない。
藤堂は俺を脅しただけだ。
そう思った。
そう思いたかった。
それから数週間。
俺は完全に逆らわなくなった。
金を持ってこいと言われれば持っていった。
殴られても黙った。
笑えと言われれば笑った。
妹に近づかせないためだった。
それで美咲を守れるなら、それでいい。
でも――
俺は一つだけ間違えていた。
あいつらは、約束を守るような人間じゃなかった。
二月十四日。
午後六時を過ぎても、美咲が帰ってこなかった。
母さんから電話が来た。
「蓮、美咲知らない?」
「知らない」
「友達の家かな?」
胸騒ぎがした。
俺は美咲に電話した。
出ない。
もう一度。
出ない。
三回。
四回。
五回。
そのとき。
俺のスマホが震えた。
知らない番号。
メッセージが一件。
『妹探してんの?』
頭の中が真っ白になった。
続けて、位置情報だけが送られてきた。
俺は家を飛び出した。
指定された場所は、町外れにある古い一軒家だった。
何年も前から空き家になっている建物。
「美咲!」
玄関は開いていた。
電気はついていない。
スマホのライトだけを頼りに奥へ進む。
「美咲!」
返事がない。
二階。
いない。
台所。
いない。
そして――
浴室の前まで来たとき。
聞こえた。
小さな声。
「……お兄……ちゃん……」
美咲だった。
俺は扉を開けた。
そこで見たものを、
俺は今でも夢に見る。
詳しいことは思い出したくない。
美咲は浴室に閉じ込められ、身動きを奪われた状態で、虫を使った悪質な嫌がらせを受けていた。
床を這う無数の黒い影。
震え続ける妹。
泣きすぎて声も出なくなっていた。
「美咲!」
俺は駆け寄った。
「お兄ちゃん……」
「もう大丈夫」
震える手で美咲を助けた。
「ごめん」
なぜか俺が謝っていた。
「ごめん……ごめん……」
俺が守るはずだった。
俺が兄だった。
なのに。
何一つ守れなかった。
美咲が俺の服を掴んだ。
そして聞いた。
「私……何か悪いことした?」
答えられなかった。
「なんで……私なの?」
答えなんてなかった。
だから俺は美咲を抱きしめた。
「悪くない」
それだけを何度も言った。
「美咲は何も悪くない」
警察が来た。
救急車が来た。
母さんが泣いた。
事情を聞かれた。
俺は藤堂の名前を言った。
初めてだった。
全部話した。
学校で何をされていたか。
妹の写真を見せられたこと。
脅されていたこと。
俺は思った。
これで終わる。
大人が何とかしてくれる。
警察が捕まえてくれる。
先生が守ってくれる。
――子供だった。
数日後。
担任と学年主任が家に来た。
「学校としても非常に重く受け止めています」
母さんは泣きながら聞いた。
「藤堂君たちなんですよね?」
沈黙。
「蓮が名前を言っています」
学年主任が答えた。
「現時点では、学校側で断定できる材料がありません」
俺は耳を疑った。
「写真を撮られたんです」
「それについても確認しています」
「本人がやったって言ったんです!」
「三上君」
担任が俺を見る。
「気持ちは分かる」
その言葉を聞いた瞬間。
何かが切れた。
「分かる?」
俺は立ち上がった。
「何が分かるんですか?」
「落ち着きなさい」
「ずっと知ってたじゃん!」
担任の顔が固まった。
「俺の机!」
声が震えた。
「教科書!」
「上履き!」
「ずっと見てたじゃん!」
母さんが俺の腕を掴んだ。
それでも止まらなかった。
「先生、知ってたじゃん!」
担任は何も言わなかった。
その沈黙が答えだった。
美咲は学校へ行けなくなった。
最初の一週間は、部屋から出なかった。
一か月後。
少しだけリビングに来るようになった。
でも。
笑わなかった。
テレビを見ても。
俺が冗談を言っても。
大好きだったアイスを買ってきても。
笑わなかった。
ある夜。
トイレに起きると、美咲の部屋から声が聞こえた。
「やめて……」
俺は扉を開けた。
美咲がベッドの上で暴れていた。
「美咲!」
「やだ!」
「俺だ!」
目を覚ました美咲が俺を見る。
しばらくして、泣き出した。
「お兄ちゃん……」
「ここにいる」
「怖い」
「うん」
「寝るの怖い」
俺は朝まで隣に座った。
そして暗闇の中で決めた。
絶対に忘れない。
美咲が忘れられないなら――
俺も忘れない。
十五年後。
スマートフォンに表示された藤堂翔太の家族写真。
笑顔。
妻。
娘。
幸せそうな食卓。
俺は画面を閉じた。
机の引き出しを開ける。
そこには、一冊の古いノートが入っていた。
表紙には四人の名前。
藤堂翔太。
久我直樹。
石田亮介。
村瀬和也。
そして、その下。
もう一つ。
別の名前が書かれていた。
担任だった男。
佐伯隆志。
俺は藤堂の名前に赤い丸をつけた。
復讐する相手は四人じゃない。
五人だ。
いや――
本当に五人だけなのだろうか。
見ていた奴。
笑った奴。
知っていて黙った奴。
助けを求める子供に、
「気持ちは分かる」
そう言って何もしなかった大人。
俺はノートの新しいページを開いた。
そして書いた。
『同窓会まで、あと十三日。』
十五年間止まっていた時計が、
ようやく動き始めた。
ただ、このときの俺はまだ知らなかった。
俺が復讐しようとしている五人の中に――
美咲のあの日について、俺の知らない真実を知っている人間がいることを。
――第2話 END




