第1話「笑って見ていた」
人間は、忘れる。
殴ったことも。
蹴ったことも。
泣いている人間を囲んで、笑ったことも。
きっと、やった側は忘れる。
だから十五年ぶりにあいつらの名前を見たとき、俺は思った。
――よかった。
お前らが忘れてくれていて。
午後四時十二分。
仕事から帰った俺は、郵便受けに入っていた一枚の封筒を見つけた。
差出人は、中学時代の同級生だった。
『青葉中学校 平成二十三年度卒業生 同窓会のお知らせ』
一瞬、呼吸が止まった。
捨てればよかった。
そのままゴミ箱に放り込めば、それで終わったはずだった。
なのに俺は、封筒を開けた。
参加予定者の名前が並んでいる。
そして――いた。
藤堂翔太。
その名前を見た瞬間だった。
十五年前の匂いが蘇った。
湿った雑巾。
汗。
埃。
そして、古い体育倉庫の臭い。
「……やめろ」
気づけば声が出ていた。
三十五歳になった今でも、俺はあの日から逃げられていない。
十五年前。
俺――三上蓮は、中学二年生だった。
教室では、ほとんど喋らない子供だった。
友達と呼べる人間も少なかった。
ただ、学校が嫌いだったわけじゃない。
少なくとも――
あの日までは。
昼休み。
机の中に手を入れた。
教科書がない。
数学も、国語も、英語も。
全部なくなっていた。
「探し物?」
後ろから声がした。
振り返る。
藤堂翔太が笑っていた。
その後ろには三人。
そして少し離れたところには、何人ものクラスメート。
俺は小さな声で聞いた。
「……教科書、知らない?」
藤堂が笑う。
「知らねえな」
周囲からクスクスと笑い声が聞こえた。
嫌な予感がした。
藤堂は俺の肩に腕を回した。
「一緒に探してやるよ」
「いい。自分で――」
「遠慮すんなって」
肩を強く掴まれた。
痛かった。
でも、抵抗できなかった。
俺はそのまま校舎の裏へ連れていかれた。
焼却炉の横。
藤堂が指を差した。
「あったぞ」
泥水の溜まったバケツ。
その中に、俺の教科書が沈んでいた。
「……返して」
「あるじゃん」
「返してよ」
「だから返してるだろ」
藤堂がバケツを蹴った。
泥水が俺の上履きにかかった。
後ろで笑い声がした。
俺は教科書を拾おうとした。
その瞬間。
背中を蹴られた。
地面に手をつく。
また笑い声。
「何してんの、三上?」
藤堂が言った。
「早く拾えよ」
俺は何も言わなかった。
言えなかった。
泥水の中から教科書を拾った。
ページは水を吸って膨らんでいた。
そのとき。
校舎の窓からこちらを見ている女子生徒と目が合った。
助けて。
そう言いたかった。
先生を呼んで。
誰でもいい。
でも彼女は俺と目が合った瞬間――
カーテンを閉めた。
それだけだった。
その日の放課後。
担任に呼ばれた。
「三上」
「はい」
「教科書、どうした?」
俺は黙った。
「落としたのか?」
「……はい」
担任はため息をついた。
「物は大事にしなさい」
「……はい」
「じゃあ帰っていいぞ」
終わりだった。
俺は教室を出た。
廊下の向こうに藤堂たちがいた。
目が合った。
藤堂が笑った。
口だけ動かした。
『チクったら殺す』
俺は下を向いた。
家に帰ると、妹の美咲が玄関まで走ってきた。
「お兄ちゃん!」
小学五年生だった。
「今日ね、図工で賞とった!」
美咲は画用紙を見せてきた。
俺は笑った。
「すごいじゃん」
「でしょ?」
「母さんに見せた?」
「まだ。最初にお兄ちゃんに見せたかった」
その言葉だけで泣きそうになった。
でも泣かなかった。
兄だったから。
美咲の前では、普通のお兄ちゃんでいたかった。
「お兄ちゃん?」
「ん?」
「制服、汚れてるよ」
「転んだ」
「また?」
「……うん」
美咲は俺の顔を見た。
子供なのに、妙に勘が鋭かった。
「学校、楽しい?」
俺は笑った。
「楽しいよ」
嘘だった。
翌朝。
俺の机に、油性ペンで文字が書かれていた。
死ね。
その下に、
キモい。
さらに、
学校くんな。
教室に入った瞬間、笑い声が起きた。
俺は黙って消しゴムで擦った。
消えなかった。
先生が入ってきた。
俺の机を見た。
一瞬だけ眉をひそめた。
そして言った。
「誰だ、こんなことしたの」
誰も答えなかった。
「もう中学生なんだから、くだらないことするなよ」
それだけだった。
授業が始まった。
俺は机に書かれた「死ね」の上で数学の問題を解いた。
誰も助けてくれなかった。
先生も。
同級生も。
俺自身でさえも。
そして、このときの俺はまだ知らなかった。
本当の地獄は――
俺ではなく、
妹に向かっていた。
十五年後。
俺は同窓会の案内状をテーブルに置いた。
スマートフォンを手に取る。
藤堂翔太。
検索した。
すぐに出てきた。
写真の中の藤堂は笑っていた。
結婚していた。
子供もいた。
小さな娘を肩車している。
コメント欄には、
『本当にいいパパ!』
『幸せそう!』
『翔太くん昔から優しかったもんね』
俺は画面を見つめた。
不思議だった。
怒りは湧かなかった。
むしろ――
笑ってしまった。
「……そうか」
幸せだったのか。
俺が十五年間、
一度もまともに眠れなかった間。
美咲が――
あの日から一度も昔みたいに笑わなくなった間。
こいつは恋をして、
結婚して、
父親になって、
幸せに暮らしていた。
俺は同窓会の案内状をもう一度開いた。
『出席』
『欠席』
二つの欄がある。
俺は赤いペンを取った。
出席。
丸をつけた。
十五年間。
ずっと考えていた。
どうして俺だったんだ。
どうして美咲だったんだ。
どうして誰も助けてくれなかったんだ。
でも――
もういい。
答えなんていらない。
俺は藤堂の家族写真を保存した。
そして小さく呟いた。
「久しぶり、翔太」
十五年前。
お前は言った。
『チクったら殺す』
覚えているか?
俺は覚えている。
全部。
だから今度は――
俺がお前を忘れられない人間にしてやる。
――第1話 END




