第19話「炎」
小さな火だった。
本当に。
靴で消せるくらい。
近くには消火器もあった。
出口まで数メートル。
正臣は立てる。
俺も動ける。
何も起こさず帰れる。
なのに。
俺は炎を見つめていた。
十五年前。
美咲の泣き声。
俺の机の「死ね」。
泥水。
教師の沈黙。
母さんの涙。
久我の拳。
石田の笑い声。
村瀬のカメラ。
藤堂の顔。
全部が頭の中で重なった。
正臣が言った。
「三上君」
俺は返事をしなかった。
「外へ出よう」
その声を聞いて。
思った。
こいつはまた外へ出る。
明日警察へ行く。
罪を認める。
裁かれる。
それで終わる。
それだけ?
美咲の十五年は?
俺の十五年は?
たったそれだけ?
「正臣さん」
「何だ」
「怖いですか」
「……ああ」
「今?」
「怖い」
俺は笑った。
「美咲も怖かったと思います」
「そうだな」
「俺も」
「ああ」
正臣が俺へ近づいた。
「だからもう――」
俺は突き飛ばした。
正臣が倒れる。
「三上君?」
自分でも、
何をしているか分かっていた。
分かっていて止めなかった。
床に落ちていた燃えた木片。
俺はそれを拾った。
正臣の顔が変わった。
「やめろ」
初めてだった。
正臣の顔に、
はっきり恐怖が浮かんだ。
十五年間。
見たかった顔。
「もっと怖がれよ」
自分の声じゃないみたいだった。
「三上君」
「美咲はもっと怖かった!」
「分かってる!」
「分かるわけない!」
俺は火を放った。
炎が広がった。
正臣の服へ火が移る。
悲鳴。
その瞬間。
時間が止まった。
俺は何をした?
目の前。
人間が燃えている。
復讐。
十五年間求めたもの。
これ?
これが欲しかった?
正臣が倒れる。
「助け……」
声。
俺のすぐ横。
消火器。
手を伸ばせる。
俺は掴んだ。
安全栓に手をかける。
美咲の声。
『お兄ちゃん』
夢と同じ。
『それ、誰に使うの?』
俺は正臣を見る。
炎。
悲鳴。
恐怖。
そして――
消火器を床に置いた。
背を向けた。
それが。
俺が最後に選んだことだった。
外へ出た。
冷たい風。
数歩歩いて、
膝をついた。
中から音が聞こえる。
俺は耳を塞いだ。
「終わった」
呟いた。
「終わった」
何度も。
でも。
何も終わらない。
胸が軽くならない。
笑えない。
美咲の顔も戻らない。
俺はただ、
人を一人殺した。
それだけだった。
サイレン。
誰かが通報したらしい。
消防車。
警察。
赤い光。
十五年前と同じ。
誰かが俺に叫ぶ。
「離れて!」
俺は動かなかった。
警察官が近づく。
「あなた、何を――」
俺は両手を出した。
「俺です」
「何が?」
「俺がやりました」
警察官の顔が変わる。
「火を……」
喉が震える。
「俺がつけました」
手錠。
冷たかった。
驚くほど。
パトカーへ乗せられる直前。
人混み。
その中に、
藤堂翔太がいた。
なぜいる。
父親から聞いていたのかもしれない。
藤堂が燃える空き家を見る。
そして俺を見る。
目が合った。
藤堂は何も言わなかった。
ただ、
泣いていた。
俺は初めて思った。
十五年前の俺も、
今の藤堂も。
大切な人を、
一瞬で奪われた。
違いは。
今度は――
俺が奪った側だった。
取調室。
刑事が聞く。
「なぜやった?」
俺は答えた。
「復讐です」
「十五年前の事件?」
「はい」
「後悔している?」
すぐに答えられなかった。
後悔。
正臣を殺したこと?
美咲をまた苦しめること?
十五年間?
全部?
「分かりません」
本当だった。
「もう一度同じ状況になったら?」
刑事が聞く。
俺は目を閉じた。
炎。
正臣。
消火器。
手を伸ばせば間に合った。
俺は助けなかった。
「……今なら」
声が震える。
「助けます」
刑事は何も言わなかった。
俺は机に顔を伏せた。
涙が出た。
復讐は終わった。
正臣は死んだ。
最後の名前に、
×をつけられる。
なのに。
俺が十五年間待ち続けた瞬間には、
何一つ――
救いなんてなかった。
――第19話 END




