第18話「戻れる場所」
正臣と会う日の朝。
藤堂翔太から電話が来た。
出るつもりはなかった。
でも出た。
『三上』
「何」
『親父に会うだろ』
「誰から聞いた」
『親父』
俺は黙った。
『やめてくれ』
「お前に言われる筋合いない」
『分かってる』
「なら切る」
『待て』
藤堂の声が震えていた。
『俺も行く』
「来るな」
『親父が何をしたか全部俺のせいだ』
「違う」
初めて。
俺はそう言った。
藤堂が黙る。
「全部お前のせいじゃない」
自分で言って、
妙な気分だった。
「お前が始めた。でも、止めなかった奴もいた。隠した奴もいた」
『……』
「だから来るな」
『三上』
「何」
『俺、お前に殺されても仕方ないと思ってた』
「気持ち悪いこと言うな」
『でも違った』
藤堂は言った。
『俺が殺されても美咲ちゃんには何も返らない』
俺は通話を切った。
もう聞きたくなかった。
みんな同じことを言う。
美咲。
母さん。
相沢。
村瀬。
藤堂。
正臣。
復讐しても戻らない。
知ってる。
そんなことは、
最初から知ってる。
午後。
会社から連絡。
退職について話したい。
返事はしなかった。
冷蔵庫には何もない。
部屋は散らかっていた。
十五年間、
真面目に生きてきた。
遅刻しない。
犯罪もしない。
酒にも逃げない。
全部、
復讐する日のためだった気がする。
今、
ようやく俺は自分の人生を壊し始めている。
妙に安心した。
これでいい。
俺だけ普通に生きているのは、
美咲に申し訳ない。
そう思っていた。
でも美咲は、
そんなこと一度も望んでいなかった。
全部、
俺が勝手に決めた。
夕方。
相沢からメッセージ。
『美咲ちゃんからです。』
写真が一枚。
海。
夕日。
美咲の後ろ姿。
その下。
『今日もちゃんと生きてるよ』
俺はしばらく見た。
涙が出た。
美咲は、
俺がいなくても生きている。
当たり前だ。
妹はもう、
守られるだけの小学生じゃない。
二十六歳。
自分の人生を選べる。
俺だけが、
美咲を十五年前の浴室に閉じ込め続けていた。
「……ごめん」
また言った。
その瞬間。
本当に行くのをやめようと思った。
正臣へ電話。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
切る。
メッセージ。
『今日の話、やめます』
送信。
既読にならない。
俺は椅子に座った。
終わった。
行かない。
復讐しない。
明日会社へ電話しよう。
美咲にいつか謝ろう。
母さんにも。
そう思った。
午後七時四十一分。
電話。
正臣。
『すまない』
「メッセージ見ました?」
『今見た』
「なら今日は――」
『もう着いてる』
心臓が止まった。
「どこに」
『空き家だ』
「帰ってください」
沈黙。
『三上君』
「何」
『俺もここへ来る必要があった』
嫌な予感。
『十五年間、一度も来られなかった』
正臣は言った。
『逃げ続けた』
「明日警察行くんですよね」
『ああ』
「なら帰って」
『君が来なくても構わない』
電話の向こうで、
風の音。
『俺は少しここにいる』
通話が切れた。
俺は立ち上がった。
行く必要はない。
分かっている。
でも。
十五年間。
俺が夢の中で立ち続けた場所に、
正臣が一人でいる。
俺は車の鍵を掴んだ。
午後八時十四分。
空き家。
取り壊し用の囲い。
正臣は中にいた。
「来ないんじゃなかったのか」
「帰らせに来た」
正臣は笑った。
「それなら帰る」
あまりにも簡単だった。
俺は腹が立った。
「待って」
正臣が止まる。
「何だ」
「一つだけ」
俺は聞いた。
「美咲のこと、今でも覚えてるって言いましたよね」
「ああ」
「何を覚えてる?」
正臣は目を閉じた。
「俺を見た目だ」
「……」
「助けてくれる大人が来たと思ったんだろう」
正臣の声が震えた。
「安心した顔をした」
俺は息を止めた。
「そして俺は、その期待を裏切った」
正臣が泣いた。
「十五年間、あの顔が消えない」
その瞬間。
俺の中で何かが崩れた。
こいつも覚えていた。
忘れて幸せに生きていたわけじゃない。
だから何だ。
罪は消えない。
それでも。
俺が想像した世界とは違った。
復讐するために、
俺は加害者を怪物にしていた。
怪物なら殺せるから。
でも目の前にいるのは、
ただの弱い老人だった。
俺は言った。
「帰ってください」
正臣が頷く。
「分かった」
その瞬間だった。
外で大きな音。
工事用の資材が風で倒れた。
正臣が驚いて振り返る。
そして足を滑らせた。
俺は反射的に腕を掴んだ。
二人で床に倒れた。
近くに置かれていた古い照明器具が倒れる。
火花。
埃。
乾いた廃材。
小さな火がついた。
俺たちは同時に見た。
まだ、
消せる火だった。
正臣が言う。
「三上君、外へ」
俺は立ち上がった。
出口。
正臣。
小さな炎。
その三つを見た。
ここで出ればいい。
正臣も一緒に。
それで終われる。
本当に。
戻れる。
俺は――
そのはずだった。
――第18話 END




