第5話:消失
夜は、思っていたよりも静かだった。
虫の声も、風の音も、遠い。
世界そのものが、息を潜めているみたいに。
部屋の中央に立ち、結晶を見つめる。
灯りは落とした。
窓から差し込む月明かりだけが、淡く床を照らしている。
それで十分だった。
これから起きることに、光は必要ない。
「……これで、終わり」
小さく呟く。
誰もいない部屋に、音が溶ける。
返事はない。
当たり前だ。
もう、誰にも聞かせるつもりはないのだから。
結晶を手に取る。
昼間よりも、少しだけ重く感じた。
気のせいかもしれない。
あるいは――
終わりが近いと、体が理解しているのか。
目を閉じる。
魔力を、流し込む。
ゆっくりと。
ためらいなく。
結晶が、淡く光を帯びた。
それだけで、十分だった。
もう、止まらない。
止めない。
脳裏に、いくつもの光景が浮かぶ。
朝の光。
侍女の笑顔。
庭の花。
何気ない会話。
全部。
ほんの少し前まで、“当たり前”だったもの。
それが、ひとつずつ――
ほどけていく。
「……ああ」
声が漏れる。
痛みは、ない。
苦しさも、ない。
ただ。
輪郭が、曖昧になっていく。
自分という存在が、少しずつ薄れていく。
名前が、遠い。
呼ばれていたはずの音が、思い出せない。
顔も、声も。
全部。
“自分のもの”だったはずなのに。
「……いいの」
それでいい。
そうなるように、選んだ。
誰かの中から消えるだけじゃ、足りない。
自分の中にも、残したくなかった。
未練なんて、ひとつも。
残さないために。
光が、強くなる。
視界が、白く滲む。
けれど、不思議と怖くはなかった。
終わるだけ。
それだけのこと。
最後に、ひとつだけ。
浮かんだ顔があった。
あの人の顔。
“必要ない”と言った人。
その表情すら、もう曖昧で。
怒りも、悲しみも。
何も残っていない。
「……さようなら」
今度は、声に出した。
誰に向けたのかも、わからないまま。
それでも、いい。
全部、終わるのだから。
結晶が、砕けた。
音は、しなかった。
ただ、光が弾けて。
世界が、一瞬だけ白く染まる。
その中で。
“わたくし”は――
消えた。
⸻
「……で?」
男は、書類から顔を上げた。
目の前に立つ侍従が、わずかに戸惑ったように視線を揺らす。
「本日のご予定ですが」
「ああ」
淡々と頷く。
いつも通りの朝。
いつも通りの仕事。
何ひとつ、変わらない。
――はずだった。
「午前中に、婚約に関する最終確認が」
「婚約?」
言葉が、引っかかった。
ほんの一瞬だけ。
「はい。ですが、先方からの連絡が――」
「待て」
遮る。
眉をひそめた。
「誰との話だ」
侍従が、困ったように口を開く。
「それが……記録には残っているのですが」
「はっきり言え」
「お相手の情報が、抜け落ちておりまして」
空気が、わずかに揺れた。
「……は?」
短く、声が落ちる。
そんなことが、あるはずがない。
重要な契約だ。
婚約だ。
記録が消えるなど。
あり得ない。
「ですが、確かに存在していたはずで……」
「“はず”?」
苛立ちが、わずかに滲む。
曖昧な言葉は嫌いだ。
事実か、否か。
それだけでいい。
「……失礼いたしました。すぐに再確認を――」
「いい」
手で制する。
考える。
何かが、おかしい。
だが。
何が、おかしいのかが――わからない。
胸の奥に、小さな違和感が残る。
引っかかるような。
空白のような。
けれど、それ以上は広がらない。
思い出そうとしても、何もない。
最初から、そこには何もなかったかのように。
「……妙だな」
ぽつりと、呟く。
その言葉も、すぐに空気に溶けた。
誰にも拾われないまま。
そして――
もう二度と、思い出されることはなかった。




