第2話:消える準備
婚約を解消されたその日、私は自室に戻った。
泣くためではない。
――消える準備をするために。
その魔法には、名前がない。
正確には――名付けられていない。
禁じられているからだ。
書物にも記されず、口伝も許されない。
ただ一部の血筋だけが、知っている。
“消去”。
それだけで、意味は足りる。
机の上に置いた結晶を、もう一度見下ろす。
透明で、何の変哲もない。
けれど、これひとつで終わる。
人の記憶から、自分を消す。
――それだけなら、まだよかった。
「……問題は、こっち」
指先で、結晶の縁をなぞる。
ほんの少しだけ、冷たくなった気がした。
これは、“他人の記憶だけ”を消すものではない。
もっと徹底している。
記録。痕跡。関係。
そして――
「わたくし自身も、例外じゃない」
小さく呟く。
誰もいない部屋に、落ちる音。
この魔法は、整合性を保つ。
誰かの記憶だけを消せば、必ず歪みが生まれるから。
だから、すべてを揃える。
最初から、いなかった形に。
家族の記憶からも。
使用人の記憶からも。
そして――自分自身の中からも。
“わたくし”という存在は、消える。
空白すら残さずに。
残るのは、ただ整えられた世界だけ。
「……徹底してる」
思わず、苦笑が漏れた。
優しさなんて、どこにもない。
未練を残す余地すら、削ぎ落とされている。
けれど。
だからこそ、いい。
中途半端に残る方が、よほど残酷だ。
椅子に腰かける。
視線が、自然と自分の手に落ちた。
細くて、白い指。
この手で、いくつのことをしてきただろう。
どれだけの人に触れて、どれだけのものを支えてきたか。
――それも、全部。
なかったことになる。
「……うん」
頷く。
迷いがないわけではない。
ただ、それ以上に。
もう、続ける理由がなかった。
“必要ない”と言われたから、ではない。
それは、きっかけに過ぎない。
もっと前から、決めていた。
ここには、自分の居場所がないと。
誰かにとって必要であることを、ずっと証明し続けなければならない場所に。
もう、いたくないと。
「だから、ちょうどよかった」
言葉にすると、不思議と軽くなる。
本当に?
と、自分の中で問い返す声がある。
それには、答えない。
答えてしまえば、揺らぐから。
結晶を手に取る。
今はまだ、ただの道具。
けれど今夜、それは“終わり”になる。
使い方は、簡単だ。
魔力を流し込むだけ。
そして、ひとつ願う。
“自分を消す”と。
それだけで、発動する。
止める方法は、ない。
途中でやめることも、できない。
だから――
「もう、後戻りはしない」
静かに、言い切る。
誰に聞かせるでもなく。
ただ、自分のために。
窓の外では、夕日が沈みかけていた。
橙色の光が、部屋を染める。
きれいだと思った。
こんなふうに思うことも、もうなくなるのだろうか。
それとも――
思う“誰か”が、別に生まれるのだろうか。
「……どっちでも、いいか」
小さく息を吐く。
期待はしない。
救いも、望まない。
ただ――
終わるだけ。
それでいい。
結晶を、そっと机に戻す。
夜まで、あと少し。
やることは、もうほとんど残っていない。
残っているのは――
“何も知らないままの時間”を、過ごすことだけ。
それが、最後。
誰にも気づかれず。
誰にも止められず。
静かに、消えるための準備は。
――すべて、整っていた。
……はずだった。
廊下の向こうで、誰かの足音が止まる。
「……誰か、いたか?」
その声に、私は息を止めた。




