第1話:婚約破棄は、静かに
――その日、私は自分が“いらない存在”になったことを知った。
けれど、その少し前までは。
「今日も、庭は綺麗だな」
そう言って笑った彼の横顔を、私はまだ信じていた。
王城の中庭。春の陽射しはやわらかく、風は穏やかで、花は静かに揺れている。
こんな日には、悪いことなんて起こらないと――どこかで思っていた。
「殿下、あちらの薔薇も咲き始めていますよ」
そう声をかけると、彼は一瞬だけこちらを見た。
「ああ、そうだな」
返事は短くて、どこか遠い。
――あれ?
ほんのわずかな違和感。
けれど、それを“気のせい”だと片づけるくらいには、私はこの関係に安心していた。
だって。
彼は、私の婚約者なのだから。
幼い頃に決められた婚約。
けれど、ただの政略では終わらなかった。
少なくとも、私はそう信じていた。
彼は優しくて、真面目で、少し不器用で。
感情を表に出すのが得意ではないだけで、本当はちゃんと、私を見てくれている――と。
……そう、思っていた。
「少し、いいか」
彼がそう言ったのは、花を一通り見終えたあとだった。
いつもより低い声。
ほんの少しだけ、冷たい。
「はい、殿下」
私は微笑んで、頷いた。
その先に待っている言葉を、知らなかったから。
――知らなかったから、笑えたのだ。
彼は、しばらく黙っていた。
まるで言葉を選んでいるかのように。
けれど、それは優しさではなくて。
ただ、“どう言えば面倒にならないか”を考えている沈黙だったのだと、あとから気づく。
「……婚約の件だが」
胸が、少しだけ高鳴った。
もしかして、と思った。
少しだけ期待してしまった。
関係が変わる話。
距離が近づく話。
そんな都合のいい未来を、一瞬だけ思い描いてしまった。
――馬鹿だ。
「やめにしようと思う」
その一言で、すべてが終わった。
風が、止まった気がした。
花の色も、空の青も、何もかもが遠くなる。
「……え?」
自分の声が、ひどく間の抜けた音に聞こえた。
理解が追いつかない。
今、何を言われたのか。
それがどういう意味なのか。
考えるよりも先に、彼は続けた。
「君との婚約は、解消する」
はっきりとした声音だった。
迷いも、躊躇もない。
「理由を、伺っても……?」
なんとか言葉を絞り出す。
けれど、その問いすら必要なかったのだと、すぐに思い知る。
「単純な話だ」
彼は、私をまっすぐ見た。
その目には、もう何の感情もなかった。
「君は、必要ない」
――ああ。
それだけで、十分だった。
胸が痛むとか、涙が出そうだとか。
そういう段階ではなかった。
ただ、すべてが静かに崩れていく。
音もなく。
跡形もなく。
“なかったこと”にされていく。
「……そう、ですか」
驚くほど、声は落ち着いていた。
泣きもしない。
取り乱しもしない。
ただ、受け入れるしかなかった。
だって。
彼は、最初からそういう人だったのだろう。
必要なものだけを選び、
不要なものは切り捨てる。
そこに情はない。
だから――
「承知いたしました」
私は、静かに頭を下げた。
これで終わりだ。
婚約者でも、何でもなくなる。
ただの“いらないもの”になる。
それなら。
――ちゃんと、消えなければ。
「……?」
彼が、わずかに眉をひそめた。
たぶん、予想外だったのだろう。
もっと縋ると思っていたのかもしれない。
泣きつくとでも思っていたのかもしれない。
けれど。
そんなことはしない。
だって、もう決めたから。
「最後に、一つだけお願いしてもよろしいでしょうか」
「……内容による」
「少しだけ、お時間をいただきたいのです」
「時間?」
「はい。整理が必要ですので」
嘘ではない。
ただし、彼が思っている“整理”とは少し違う。
「……好きにしろ」
興味を失ったように、彼は視線を逸らした。
その瞬間。
何かが、完全に切れた気がした。
――ああ、本当に終わったのだ。
私はもう、この人の世界にはいない。
ならば。
せめて、最後くらいは。
“きちんと消える”ことにしよう。
この世界には、ひとつだけ禁じられた魔法がある。
それは――
自分の存在を、完全に消す魔法。
代償は、単純。
誰の記憶にも残らなくなること。
最初から、いなかったことになる。
それでもいい。
どうせ、もう“いらない”のだから。
だったら。
中途半端に残るより、きれいに消えた方がいい。
私は顔を上げた。
春の光が、少しだけ眩しい。
「――では、失礼いたします。殿下」
彼は、もうこちらを見ていなかった。
その背中を、ほんの少しだけ見つめて。
それから、私は踵を返す。
一歩。
また一歩。
遠ざかるたびに、何かが削れていくような感覚。
けれど、不思議と軽かった。
痛みすら、もう遠い。
――これでいい。
私は、静かに息を吐いた。
そして、心の中で呟く。
さようなら。
私の婚約者だった人。
どうか、幸せに。
……もう二度と、思い出されることはないのだから。




