8.「オーロラ」-2
十数分後、私と先生の姿は人の気配どころか文明の香りすらしない、どことも知れないカナダの北東部の雪原にあった。
「……見えませんねー」
「そうだなぁ」
「ちょっと空から良さげな場所探してみます。北アメリカ全滅ってことはないと思うので」
雪の上に敷いたレジャーシート(野生動物除け、人工衛星探知遮断、湿度温度天候調整の三点完備)から立ち上がった私を、先生が「待て待て」と引き留めてきた。
「気長に待とうぜ。いくら予報が良かったっても、結局オーロラは太陽の気まぐれなんだ。気まぐれに身を任せるのも風流ってもんだろ」
「それでいいんですか? だって、部活の時間はあともう一時間くらいしかないですよ」
「つってもな」
先生は私から目線を外し、レジャーシートに寝転がった。
「たっぷり一時間も満天の星空を眺めていて良いんだとしたら、俺は十分嬉しいけどな」
ふぅ、と息を吐いて、先生はそれだけで満足そうにしている。
星が好きな先生のことだ、その言葉は嘘ではないのだろう。
「……でも」
私は先生にオーロラを見せたいんです。
そう続ける前に、先生がまた口を開いた。
「いつかまた木原がここに連れてきてくれればいいさ。部活は別に今日で終わりじゃない」
「……ぅ」
ずるい。
先生は星空を見上げたまま動かないから、何か私に特別な思いがあって言ったわけじゃないのはすぐに分かる。
自覚もなしにあんな思わせぶりなことを言えるなんて、本当に先生はどうかしている。
暗闇の中で表情が見えないのは分かっていても、それでも今の私の顔を先生に見られたくはなかった。
「……隣、失礼します」
だから、私も先生の横に寝転んでみることにした。二人で上を見る限り、先生も私もお互いの顔は見えないはずだ。
ぱさ、というビニールが潰される音が静寂の中にうるさく響いて、それっきり物音がしなくなった。
天の半球を遮るものも邪魔な光もなにもなく、そこには完璧な夜空が広がっている。
別に星空にそこまでの思い入れはない私にしても、心に染み入るものを感じざるを得ない眺めだ。先生にしてみれば、オーロラなんてなくてもこれで満足ができてしまうだろう。
先生は本当に星空が好きなんだな、と改めて思った時に、ふと数週間前のことが頭をよぎった。
ソラリウムに入っていく先生を見つけて、勝手に誤解したこと。
先生に女がいると誤解して、自分の全てが否定されるように思い込んで、勝手に絶望したあげくに先生に無用な心配をかけたこと。
勝手に文句を押しつけて、先生が隠したかったかもしれないプライベートを聞き出してしまったこと。
そんな独りよがりな暴走の記憶。
あの日慌てて先生の中から記憶を消し去ってしまったから、先生はもうこのことを覚えていない。今この世界に残っているのは、私の記憶と、心に染みつく罪悪感だけだ。
先生に打ち明けることのできない罪の意識を胸に秘めるようになって以来、私の日課である将来の妄想には、一つ小さな影が差すようになっている。
もし、もし先生と私が好き合えるようになって、いつかプライベートの壁もなくなったとして。それでも私は先生に同じことをしてしまうのだろうか。
私がなにかひどい思い違いをしたり、自分を飾るための嘘をついたりした時、それに気づかれないように先生を都合良く改変能力で騙してしまったりはしないだろうか。
この前の私のことを思えば、やりかねないと正直に思う。
焦りのあまり錯乱した末に、気づけば私は先生から記憶を消し去ってしまっていた。
「力を使って誰かを不幸にはしない」と魔女さんに誓ったはずなのに、私の心は本当に情けない。どこまでも純粋な性格の先生に釣り合うほど、今の私は潔白ではないのかもしれない。
「お? ……おい木原、見ろ見ろ」
そんなことを考えていたからだろう、私は先生が嬉しそうに声を上げたのに気づかなかった。
「木原? おーい」
目の前で手が振られて、ようやく私は妄想の世界から私自身を引きずり戻した。
いつの間にか起き上がっていた先生に続いて、私も身体を起こす。
「あ、は、はいっ。何ですか?」
「あれ」
「……あ」
先生が指さす先には、白くもやがかった薄い光が空を漂う光景があった。
もやは水に揺られるようにゆっくりと形を変え、一部では濃くなり、また別の場所では薄くなり、一向に形を定めない。色味も相まって、まるで雲のようだ。
それでも、先生がわざわざ私に声をかけるということは、きっと。
「あれ、オーロラですか」
「だと思うな」
「なんか、雲みたいですね」
「光が弱いとああいう感じに見えるんだよ。ちょっとスマホ出してみ」
「? はい」
ポケットから出したスマホを先生に渡す。
すると先生は「いやいや」と手を振った。
「別にお前のスマホが欲しいわけじゃないぞ。カメラ設定でシャッターの切る速度変えれるだろ、夜間撮影モードとかそういうやつ」
「あ、はい。できます」
私がぱぱっと設定をいじる間に、先生は自分のスマホを構えてオーロラの方に向けていた。
「それで写真を撮るんだ」
「……わかりました」
言われたとおり、私も白いもやにスマホのカメラを向ける。
撮影ボタンを押すと、かしゃ、という音に続いて「画面を動かさないでください」というメッセージが出てきた。
指示に従いしばらく動かずに待っていると、十秒ほどしてから再びシャッター音が鳴った。
少しの処理時間の後、画面に表示された写真には、確かに緑色の筋が走っていた。
「わぁ、ちゃんとオーロラですね!」
「いやぁ感動もんだ」
感慨深げに呟いた先生は、スマホを下ろして自分の目でオーロラを見つめることにしたようだった。
旅行とかでも、写真よりは眼に焼き付けたがるタイプなのだろうか。
純粋な先生とは違って欲深い私は、写真にも眼にも焼き付けておきたいタイプだ。
「あ、あっちにもありますね」
「ん? おお、ほんとだ」
私から見て先生の背後の空にも同じような白いもやを見つけて、私はそれにカメラを向けた。
まるで子供のように目を輝かせる先生が画角に収まるように。
撮影ボタンを押すと、設定したとおりにフラッシュが焚かれて辺りが一瞬眩しく照らされた。
ぼんやりとした霞でしかないオーロラは、フラッシュの光に溶けてしまって写真にほとんど映っていない。
「っと、おいおい設定ミスか?」
「あー、やっちゃいました-」
白々しい嘘をつきながら、私は先生の顔と満天の夜空を並べて収めた写真をライブラリの「お気に入り」フォルダに速攻で登録した。さっき化学準備室で撮らせてもらった、白い触角を二本背中から生やして苦い顔の先生の写真とスクロールして見比べる。
どちらも最高の作品になった。
けれど、やっぱり先生は目を輝かせている時の方が格好いい。私の胸を高鳴らせる化学物質をまき散らしていると言っても過言ではないくらいだ。
こうして思えば、オーロラよりも綺麗なものがあるという先生の感覚は、私にも同じ感じに当てはまるのかもしれない。
そして、その綺麗なものを大切に思うことができているのだから、きっと私は先生を裏切ろうとはしないはずだ。例え何があっても。
結局その日に真緑の美しいカーテンを拝めはしなかったけれど、私は先生と同じくらい満足した気分で学校に舞い戻ることができた。




