57話 遠い目
目の前でご機嫌に食事を摂る娘を見たのはもう何度目になるのか。今までだったら、年に手で数える程度しかなかった光景はクリストファーが屋敷を出て以来、両手では足りなくなっていた。特別な料理でもないパンケーキを嬉し気に頬張るダイアナを隣に座るジェイドは愛おし気に眺めている。本来なら母たるレティーシャもそう見るべきなのだが——そんな目でダイアナを見れないでいた。
病弱じゃないダイアナ=ローウェルに価値はない。
病弱でなければダイアナ=ローウェルではない。
頭や心は何度叫んでも言葉には出せない。
「お母様!」
「! え、な、なにかしら」
「もう! 最近のお母様ぼうっとしていることが多すぎますわ。お父様が帰って来ないのがいけないんだわ」
「え、ええ、そうね……連絡を一つも寄越さないなんてね……」
本当は全く違う思考が回っていたが敢えてダイアナに会話を合わせたものの、クリストファーを思い出すと段々と腹が立って来た。皇帝リーンハルトの誕生日パーティーが終わって長い日数が経ったものの、未だクリストファーに殴られた時に負った心の傷は癒えてない。領地にいる先代夫妻の様子を見に行くと言ったきり音信がない。何度か領地にいるクリストファーに手紙を送った。返信は代理人が書いて送られるが何時帝都に戻るかまでは一切書かれていない。
ウェリタース家やアリアージュ家に目立った動きもない。もうすぐ暖かな春の陽光が帝都を照らす時期がやって来る。この時期のダイアナは寒暖の差に毎日体調を崩しがちだったのに今年からそれはなくなりそうだ。
「わたくし、お父様が戻ったら文句を言ってやりますわ! 公衆の面前でお母様を叩いた謝罪をしてくださいと!」
「ああ、私も同意見だ。父上は何故母上を……あんなに愛し合っているのに」
愛し合っている……。
何も知らない第三者の目にはそう映るだろう。
クリストファーは子供が二人生まれてもレティーシャを愛そうとしない。それどころか、憎しみを募らせるばかり。ただ、子供達の前では良き夫婦を演じてきた。子供には罪がないと言葉にされなくてもレティーシャには分かる。
——だから必要なのよ……!
生まれた時から病弱であるダイアナが。クリストファーと同じでベッドを出られない生活を強いられていたダイアナに同情し、愛情を与えていた。やっと努力が報われたと安心した。ダイアナの為ならなんだってしてきた。ジェイドのこともそう。二人共可愛い我が子なのだ。
「ダイアナ、ジェイド。悪いけど、私はこれで失礼するわ」
「母上? 殆ど手を付けてないではありませんか」
「ごめんなさい。食欲が沸かなくて。後で果物を頂くから心配しないで」
一口、二口しか食べていないパンケーキを置いてレティーシャは侍女を引き連れ部屋に戻った。
「二人だけにしなさい」
ブルーメール家より連れて来た内最も信頼する侍女のみを置いて二人きりになるとレティーシャはソファーに置かれていたクッションを思い切り壁に投げつけた。
「奥様っ、あまり大きな音を出されますと誰か来てしまいます」
「そんなの分かってるわよ! どうして上手くいかないの! クリストファーは帰って来ない、ダイアナの身体はよくなるばかり。こんなの、私は望んでない!」
献身的に尽くせばダイアナ=サンディスに心奪われたままのクリストファーもいつか振り向いてくれると信じていた。死んで尚、愛する夫の心を縛り付けるダイアナ=サンディスが憎々しい。
「お父様は、お父様から何か連絡は来てないの!?」
「ブルーメール公爵様によるとウェリタース家やアリアージュ家に動きはないと……」
「もっと注意深く探ってとお父様に言いなさい! 絶対に水面下で動いている筈よ……っ」
予感だが両家の後ろにはフィデスがいてならない気がしていた。帝国で最も敵に回してはならない影の皇帝とすら呼ばれていた男だ。警戒をし過ぎたって損はない。
「し、失礼します」
上手くいかない状況への焦りで苛立ちが募るレティーシャの許へ一人の侍女が。二人きりになりたいと叫びそうになった途端、侍女の持つ手紙の封蝋に見覚えがあった。生家ブルーメール公爵家のそれだ。
「さ、先程、ブルーメール公爵の使者の方が奥様に早急に渡してほしいと」
奪い取る勢いで手紙を手にし、侍女を追い出したレティーシャはテーブルの引出しに仕舞っているペーパーナイフで封を切って手紙を読んだ。
「公爵様はなんと……?」
「……クリストファーの居場所が分かったわ」
「え?」
両手で手紙を持つレティーシャの握力が増し、くしゃりと紙に皺が広がった。
「サンディス領よ……」
「え? な、何故。旦那様は領地に行くと」
「ええ、ええ。ローウェル家の領地ではなくて、お義母様方の領地に行っていたみたいよ」
先代ローウェル公爵夫人の生家はサンディス領と隣同士。先代夫妻はローウェル領で隠居生活を送っているとばかり思い込んでいたレティーシャにとって大きな誤算だった。
「お父様は賢いわ。お義母様方の領地にまで目を向けるなんて。それとも、隣がサンディス領なのを知って密偵を送ってくれたのね」
「それで旦那様はなんと?」
「クリストファーがサンディス領を出て行き次第、先代サンディス侯爵夫妻を捕えてウィンドル子爵家に運ぶそうよ。ふふ……ふふふ……これでゴーランド=ウェリタースをまた好きに扱えるわ」
後妻を娶ろうと亡き妻を想っているのは帝国に住む貴族なら多くが知っている。亡き妻の両親を人質にすればゴーランドは自分の言いなりになる確信があった。
「感情を乱している場合ではないわ。何れクリストファーは戻って来る。その前に何カ月も夫に出て行かれても女主人として毅然と振る舞う私を見せないと。出掛ける準備をするわよ、人を呼びなさい」
「はい、奥様」
人生悪いことばかりではない。短気は損。長期的に目を向けて物事を考えれば、いずれ幸運は自分へ舞い戻る。途端に上機嫌となったレティーシャは侍女に準備を急かし、一人になった部屋で嬉し気に手紙を抱き締めた。
必ずクリストファーを自分のモノにしてみせる。どんな手だって使ってきた。今更怖いことはない。
「愛してる……クリス……」
姿だけを見れば愛する夫の帰りを健気に待つ妻の姿。
レティーシャにとってクリストファーは王子様。
クリストファーにとってレティーシャはお姫様。ではないと信じない。
「あんな野猿にっ……私が負けてたまるものですかっ」
ダイアナ=サンディスはこの世にいないと言うなら、あの瓜二つのフィービーが生きていてはレティーシャの安寧は訪れない。ダイアナ=サンディスではないのに同じ顔、同じ声が入る度気が狂ってしまいそうになる。
フィービーを殺さないとダイアナ=サンディスは永遠にレティーシャの中から死なない。
——同じ頃、平民街の端へ一人でやって来たミゲルは死角になる位置でアシュフォード家が管理する一軒家を見張っていた。一台の馬車が家の前に停車した。御者が目深く被っていた耳付きニット帽と黒眼鏡を外した瞬間声を出しかけた。
皇帝の誕生日パーティー以降、叔父オルドーに付いて行って帰って来ないアルドルが変装をして御者を務めていた。驚くな、という方が無理である。
「御者の役目なんて出来たのか……」
長い付き合いの親友にそんな一面があったとは知らなかった。驚くミゲルの目に一際目立つ髪の女性が映った。
「フィービー……」
ピンクがかった銀の髪、濃い青の瞳。
帝都にいた頃より肉付きが良くなった頬。決して痩せすぎていたんじゃないが、どこか不健康にすら思える細い身体も健康な人のそれへと変わっていた。
陰に隠れてしまっていた表情は子供の頃と同じで爛漫に見え、声を掛けるどころか姿を見せることすら禁じられているミゲルは遠い目でフィービーを見つめるしかない。
「……」
半年近くフィービーに会わなかったことはあるか、と自問した。なかったと言えるのに、こうやってジッとフィービーを見つめている時間は果たしてどれくらいあったか。
自身がお見舞いに行かなかったせいでダイアナは生死の淵を彷徨い、怒るローウェル公爵へのトラウマを理由にダイアナの具合が悪くなると脚を向けざるを得なかった。フィービーとの時間を大切にしたい、毎日でも会いたいと気持ちは今尚存在するのに。
——周りが許さなかった。
「……駄目だな……周りのせいにばかりしてしまう。もっと私自身がしっかりしていれば……フィービーは……」
ウェリタース侯爵の言葉を受けてしまってフィービーには勿論、両親にも言えなかった。
ダイアナがまた死に掛けて今度こそ死んでしまったら一生後悔すると思って求められるがまま応じてしまっていた。
全てはお前の自業自得だ、と吐き捨てられようとミゲルに反論する言葉はない。
「アルドルとあんなに仲良くなったんだな……」
家の周辺をフィービーとアルドルの二人が回り、馬車の側でオルドーが見守っている。親が子供を見守る眼なのだが心の中には言い様のない焦りが生じていた。公の場では完璧な皇太子を演じるアルドルと完璧な侯爵令嬢を演じるフィービー。
アルドルが悪戯好きでよく人を困らせると知っているのは何人いるのか。
フィービーが関係の上手くいっていないと思われている義母と異母妹ともっと仲良くなりたいと知っているのは……と考えた辺りでミゲルは頭を横に振った。
「私が今すべきなのは、ブルーメール公爵やウィンドル子爵の手の者がいないか見張っていること。雑念を捨てて集中しよう」
現在エイヴァやアイが此処に向かっていると情報は入っている。ウェリタース家やアリアージュ家、アシュフォード家に見張りを付けているのも情報は入手済み。下手に見張りを襲撃すれば、ブルーメール公爵やウィンドル子爵に計画がバレていると感付かれる。事が起きるまでどちらも静観に立とうとフィデスの助言に従って動向を注意深く見るだけに留めている。
三家の行動についてもフィデスから注意が入っていた。なるべく普段通りの生活を送る様に、と。普段と違うことをすれば嗅覚の鋭い連中は必ず感付く。
今回の密会もそう。
エイヴァはジゼルを連れて大教会へ行ってフィデスにフィービーのことで相談する体を装って外出。予定だとジゼルはフィデスに預けエイヴァのみ此処へやって来る。
アイは次期アシュフォード家の後継者として市場の視察に行くという名目で平民に変装して外出。
此方へ来る馬車はアリアージュ家が用意した変哲もない馬車だが、御者を務めるのは腕の立つ騎士。緊急事態に備えて配置した。本音を言うとミゲルが務めたかったが裏方に徹しろと父であるアリアージュ公爵に念押しされ、今此処にいる。
「楽しそうだな……フィービーもアルドルも」
時折オルドーに話し掛けては追いかけ回されているアルドル。二人のやり取りをフィービーは困りながらも笑って見守っている。北の教会支部にいる間はずっとああなのだろう……フィービーに戸惑いの感情は見られない。
子供の頃のフィービーがよくミゲルに見せてくれたものが自分じゃない相手に向けられている。嫉妬する資格はないと自嘲しながら、素の姿を見られる二人に嫉妬してしまう。高い木の上にいるのを忘れそうになりかけ、咄嗟に太い幹に手を置いて体勢を整える。万が一落ちてしまうと三人にバレるだけではなく大怪我を負う。そんな間抜けだけにはなりたくない。
「ブルーメール公爵やウィンドル子爵の刺客は……今のところ見えないな」
慎重に動いたって獲物を嗅ぎ付ける鋭い嗅覚の持ち主達に油断ならない。黒い噂が絶えないウィンドル子爵は父の悩みの種。尻尾を掴んで悪事を暴きたい相手である分、力の入れようが違う。
「見えないと言えば、結局ローウェル公爵はずっと帝都を出たままだったな」
公衆の面前でレティーシャを殴って以降、クリストファーは帝都に戻っておらず、どこかで姿を見掛けたという情報も入っていない。領地にいる先代夫妻に会いに行くと言っていたが実際どうなのか誰にも分からない。
分からないと言えばダイアナもその一人。リーンハルトの誕生日パーティー以降、屋敷と騎士団詰め所を行き来するミゲルはダイアナの突撃に遭う回数が極端に減った。あの時の光景がショックでずっと寝込んでいるかと思いきやそうではなかった。先日、親しい夫人のお茶会に参加した母が夕食の席で漏らした。
『今日面白い話を聞きましたの。ダイアナ様がジェイド様とカフェに現れたとか』
『ダイアナが?』
ベッドの上で一日の大半を過ごし、立てても屋敷の中を歩くのがやっと。外へ出るにはジェイドやレティーシャの補助が必要な分、その時の体調の良し悪しを即座に判断される。微熱の状態だろうとミゲルに会いに来ていた時の気力は消えたと見ていたが、どうもそうではなかった。母曰く、この話をしたのはアシュフォード男爵夫人。アイが友人のダイアナ=ベルナルドーネ伯爵令嬢とカフェでお茶をしているとジェイドと共にダイアナが入店した。
『アイ嬢やベルナルドーネ伯爵令嬢に気付くことなく、カフェのケーキを買って帰ったようだけれど、その時のダイアナ様は健常者とあまり変わらなかったと聞きました』
推測の域に過ぎないがダイアナの病に効果のある薬を飲用し始めた。
ホワイトゴールド伯爵が定期的に処方している特効薬であるなら、疑問が生じる。どうしてこのタイミングでダイアナに特効薬を与えたのか、と。
ダイアナの意中の相手ミゲルはダイアナを拒絶し、クリストファーは未だ領地にいる可能性が高い。
ダイアナの病を治すなら別のタイミングだってあった。
「公爵夫人が何を考えているのか……」
思考の底に落ちかけた時……ミゲルの目に一台の馬車が映り込む。ハッとなって顔を上げるとエイヴァやアイが降りていた。
あの場に自分がいるのは相応しくない。あの二人だからこそフィービーは心を開く。
いつかフィービーに再会する日の為にミゲルは己のやるべきことに取り掛かった。




