55話 春の訪れより少し早く
時は流れ。
厳しい冬を越え、暖かな陽光の兆しを見せ始めた。地面を覆っていた雪の量は減り、茶色の地面が見えるようになると足を踏み込んだ時の感触が全然違う。一歩一歩が重く、気を抜くと靴が脱げそうだった重圧な白い絨毯がなくなるととても歩きやすくなった。家出を決行して早数か月が過ぎたフィービーは、今現在帝都の端へと来ていた。北の大地は未だ分厚い雪に地面が覆われているものの、帝都の方は前述した通りになっていた。
馬車を動かしたのは皇帝の誕生日パーティー以来、北の教会支部に滞在し続けているアルドル。いい加減城へ戻って来なさいとフィデスが一度手紙を寄越したものの、フィービーが一旦帝都へ戻るまでは戻らないと返事を送っていた。
合計すると凡そ半年近くフィービーは帝都を離れていた。亡き母の療養に付いて行った時も半年は不在ではなかった。先に降りたオルドーの手を取って馬車を降りたフィービーは眩しい太陽の光に目を細めた。
「久しぶりともなると、感慨深いものがあるか?」
「この辺りは滅多に足を運びませんので、そういう訳ではないのですが……帝都に戻って来たことがなんだか信じられなくて」
二度と戻らないつもりで家を出た。状況が大きく変わっているといえど、気持ちに嘘はない。帝都中心街を大きく離れた端には、ポツンと何軒かの家が距離を離して建てられている。元は同じ血縁者同士が住んでいたようだが、現在はアシュフォード家がこの辺りの土地を買い取って別荘の代わりにしていると聞く。本当の用途は秘密のお話をしたい時に使うのだと、昔アイがこっそりと教えてくれた。馬と馬車を大きな木の側に停めたアルドルがニット帽と黒眼鏡を外して大きな溜め息を吐きながら二人の側へとやって来た。
「うるさいぞ、アルドル」
「だって、やっと装備もなく素顔を晒せられるんですよ? ああ、長かった」
「お前が残ると言ったからそうなったんだ」
一度も事情を知る貴族以外、耳付きニット帽と黒眼鏡を欠かさない御者の青年が皇太子アルドルだと気付かれることはなかった。サンディス領に滞在していた時は、若干声を高めにしていたが、教会支部では地声でいっていた。アルドルの声を聞いて皇太子だと気付く者がいないからだ。向こうで装備を外せたのは部屋で一人になった時だけだと愚痴を零すアルドルに小言を飛ばすオルドーを、苦笑しながらも優しく見つめていたフィービーは空を見上げた。
久しぶりに見た帝都の空は、家を出る前に見た色と何ら変わらない。
心は意外と静かだった。もしも、家出を実行して間もない時に帝都に戻らないとならなかったら、今のような落ち着きは持っていなかった。
二人のいつものやり取りを眺めながらフィービーの頭に浮かぶのは――ミゲルのことだった。
二ヵ月前、アイに送られた手紙にミゲルがアリアージュ公爵家の騎士団を使って義母やジゼルの警護をしていること、ローウェル公爵夫人やブルーメール公爵、ウィンドル子爵の動向を注意深く探っているというもの。フィービーがいなくなった途端の行動力にアイは長々と文句を書き連ねていた。アイのように自分の気持ちを素直に出せる性格だったなら、フィービーはきっと家出をしなかった。
「アイならきっと、さっさと婚約破棄を突き付けてそうね」
思い切りの良さを分けてもらいたい。
「さて。予定の時間より、かなり早く着いてエイヴァ夫人はまだ来ていないようだな」
懐から懐中時計を取り出し、時間を見たオルドーの言葉にそれならとアルドルはある提案をした。
「中心街の端っこなんて、おれやフィービー嬢、叔父上だって滅多に足を運べません。夫人が来るまで辺りを散策するのは」
「お前……そんな呑気なことを」
ブルーメール公爵やウィンドル子爵がどんな策を巡らせているか不明な以上、軽率な行動は控えたいオルドーに対し、アルドルの方は気を張ってばかりでいては身体が保たないと反対の意見を出す。
「君はどう思う? フィービー嬢」
「私は……」
二人の言葉はどちらも理解できるし、納得もできる。どちらに重きを置くかと問われると……フィービーはアルドルを選んだ。
「周辺をと言いましても、使用する家の周り限定ならどうでしょう? それなら、離れる心配もなく、何かあったらすぐに戻って来られます」
「はあ……まあ、ぼく達が帝都に来ると知るのは叔父上や極限られた人間だけ。ブルーメール公爵やウィンドル子爵が動くとするなら、移動をするエイヴァ夫人の後を追うくらいだろうな」
事前にフィデスに帝都へ戻る日を手紙で報せ、指定された場所から入るようその後返事が来た。……その場にフィデス本人がいようとは三人とも予想外ではあったが。
「あの時の大叔父上……笑ってたのに威圧感が出てて最悪だった……」
「城に戻ったら、真っ先に叔父上に顔を見せに行け。きっと叔父上も、お前がここまで長く帝都を離れるとは思っていなかっただろうからな」
「一応、言い訳を書いた手紙を送ったのに」
フィービーは怖いと思わなかったが身内にしか分からない空気をこの二人は感じ取ったのだと推測し、触れなかった。今回フィービーがアイに頼んで借りた一軒家は、以前は平民の家族が四人で暮らしていて、隠れ家として使い勝手がよく、アイと偶に使っていた。家具の配置や内装をよく知っている。家の周辺も他と同じで薄く地面が見え始めていた。
「皇太子殿下は城を抜け出して街へよく降りていたと話していましたが、街の端に来たことはなかったのですね」
「おれが行ってみたいと駄々を捏ねても、ロードに強く止められてね。一人でこっそりと行っても良かったが後でバレた時が面倒でさ……」
ロードとはアルドルの従者の名前。ロードには事前にオルドーが北の教会支部へ戻る際、馭者に扮して付いて行く旨を伝えていたと言えど、フィデス同様雪が解ける頃まで不在になるとは思っていなかった筈。
最初にアルドルと話す時生まれた緊張は現在では緩和され、まだ言葉を選んで話しているがかなり打ち解けた。言葉を交わしていくと完璧な皇太子の姿は相手を畏怖させる為の仮初に過ぎず、本来のアルドルは気さくで悪戯好きな青年だということが判明した。子供達と毎日楽しく雪合戦をし、大きな雪玉をオルドーに投げ付けては追い掛け回されていた。その姿は、大きな子供がはしゃいでいるようにしか見えなかった。
アルドルはミゲルの話をあまりしなかった。時々、思い出したようにフィービーに振ることはあれど、積極的に話すことはなかった。フィービーもそう。アルドルが見て来たミゲルを聞きたいと思う気持ちはあれど、聞かなかった。自分の知っているミゲルは、誰かにとっては別人となる。誰かに聞くより、自分の目で、耳で、実際に確かめたい。必ずどこかでミゲルと再会する時がくる。その時、ミゲルに――自分の意思でフィービーは聞きたいと願った。
「春の訪れより少し早く帝都に戻って来た訳だが……北の地と比べると寒さが格段に違うな」
「北と帝都の気温を一緒にするな」
「してませんよ。滞在して、その身を以て味わいましたもん」
冬の季節は寒いとは共通認識。北の大地の寒さがどの程度かは、帝都出身の二人は滞在して初めて知った。厳しい冬を乗り越える知恵や技術を現地の人々に教わりながら、昔の人々が試行錯誤を繰り返した結果が現在の糧になっているとしみじみ感じたものだ。
「アルドル、フィービー。ぼくは此処にいるから、二人で周囲を見て来たらどうだ。周囲を散策したいと言いながら、結局同じ場所に留まったままだぞ」
オルドーの指摘を受けたアルドルに誘われ、フィービーは後を追った。周囲の散策と言ってもオルドーの目の届く範囲に他の家は建っている。中を見て見たいと黄金の瞳を輝かせるアルドルを止めつつ、フィービーはエイヴァが来るのを待った。




