53話 名前
部屋に戻ってまずフィービーがしたのは暖炉に火を付けること。鞄を床に置いて小さな小物入れに近付き、引出しを開けて火打箱とつけ木を取り出した。最初の内は自分で中々火を点けられず、ダイアナやトレイシーにしてもらった。周囲に物を置いてないか確認後、左手に火打金を持ち、右手に火打石を持った。火口に火打金を火打石に叩き付ける作業をしていると、もっと力を入れて、火を怖がらないで、と指導されたのを思い出す。火を見ることはあれど、自分で熾した経験が一度もなかったフィービーにとっては恐怖であった。四回目でやっと火に慣れ、五回目で漸く自分で熾せるようになった時は偶々一緒にいたアズエラと喜んだものだ。
「あ、出た」
火花が出ると火口に向けて息を吹きかけた。すぐにやりなさいという言葉もしっかりと覚えている。風のない室内なら心配はないが、外で炊き出しをしている時に一度フィービーが火を熾そうとしたら風が強く中々点けられなかったのだ。
火種を大きくして火口を燃え上がらせるとつけ木に火をやり、大きくなると暖炉にくべた薪に火を移した。焦らず、慎重に、作業を進めれば暖炉の火は完成した。後は時間を掛けて火が全体に回り、室内を暖めてくれれば完了。
火口に熾した火を消し、冷めるまでテーブルに置いたフィービーは次のことに取り掛かった。
机に向かい、右の引出しの二段目を開けた。そこには色とりどりの便箋や封筒が仕舞われていて、アイの好む派手な金色の便箋と封筒を選んだ。
サンディス領でオルドーやアルドルと話した通り、一旦帝都へ戻る決断をした。父や兄、ミゲルに会う勇気はまだない。けれど、義母やアイ、ジゼルに会いたい気持ちは強くある。ただ戻るだけでは自分を狙うレティーシャやブルーメール家の罠にかかってしまう恐れがあり、そこでアシュフォード家が所有する平民街の一軒家を借りられないか相談する手紙を書くことになった。
「図々しいお願いでアイを頼ってばかりでごめんなさい……」
恩返しをする日は、果たして来るのだろうか——……。
——フィービーの送った手紙がアシュフォード家に届いたのは十日以上後のこと。執事にフィービーの手紙が届いたと内密に知らされたアイは、書庫室で吟味していた読書本選びを中断し、封筒を受け取ると部屋に籠った。すぐに机の引き出しからペーパーナイフを取り出し、封を切って手紙を読んだ。
「フィービー……」
今回の手紙は二枚もあり、端から端までびっしりとフィービーの達筆が記されていて、書かれている内容にアイは手紙を握り締めた。
「そっか……一度戻るって決めたんだ」
二度と帝都に戻らない覚悟を持って家を飛び出したフィービーを陰ながら助けてきた。何故戻る気になったかなど聞くのは野暮。状況があまりに変わり過ぎていた。
「サンディスのお祖父様やお祖母様に会ったのね……ローウェル公爵様までいたなんて」
帝都に戻ることから、サンディス領へ行って祖父母に会ったこと、更にクリストファーが滞在していたことまで事細かにアイへ記されている。
「勿論良いわよ。何よ図々しいって。フィービーが図々しいなら、ローウェル公爵夫人なんかどうなるのってよ」
この場に自分一人しかいないのを良いことに口調を砕けたアイは、相変わらず後ろ向きなフィービーにぷりぷりしながらも、頼られたことが嬉しくて頬がにやけていた。
「ウェリタース夫人と相談するのは、お出掛けの後が丁度良さそうね」
五日後、フィービーと共通の友人ダイアナ=ベルナルドーネ伯爵令嬢と買い物へ出掛ける予定を入れている。帰りにウェリタース家へ寄ってエイヴァに相談をする時間は出来る筈だ。アイは椅子に座ると早速先触れの手紙を書き始めた。
「そうだ。ディアナに渡すプレゼントの他に、エイヴァ夫人に渡す手土産も考えなきゃ」
ディアナとはダイアナの愛称。帝国でダイアナという名前は珍しくないのに、ダイアナ=ローウェルは母レティーシャの力を借りては同じ名前の令嬢達に敵意を露にしていた。友人ダイアナも例外ではない。何なら、華奢で儚げな雰囲気が似ている為当たりがかなりきつかった。
「私の名前だって一人同じ人を知っているけど、自分だけの名前とは思えないわ」
自分の名前が特別だと感じるのは個人の勝手、それについて言及するつもりはない。
同じ名前の人を攻撃するのは違う。
インクの蓋をアイが開けた時、母が部屋へやって来た。
「アイ。マドレーヌが焼き上がったのだけれど一緒に食べない?」
「いただきます!」
「あら、手紙を書くところだった?」
「そうだけど、お母様とお茶を飲む時間くらいはあるわよ」
文章を纏める時間を持つ意味でも母とお茶をしたい。椅子から立ち、母の背を押してサロンへと足を運びながらあることを訊ねた。
「ねえお母様。前に、ローウェル公爵様とダイアナおば様の話をして下さったじゃない? おば様は、ゴーランドおじ様と結婚をして幸せだったと思う?」
「さあ。貴族の結婚に愛情がないのは誰だって分かり切ってる。ゴーランド様に愛情があった分、ダイアナ様は幸せな方だったと思うわ」
典型的な仮面夫婦を演じる夫妻は大勢いる。夫に愛人がいようと黙って受け入れるのが妻の務めだと押し付けられ、心を壊す女性がいるのもまた事実。そう考えると一途にダイアナを想い続けたゴーランドは誠実な男の部類に入る。
「ただ」
「ただ?」
「フィービー様を出産されたダイアナ様に会いに行った時、ダイアナ様はずっとフィービー様を抱き続けられていたの。ミリアン様の時も抱っこをしていられたけど、すぐに乳母に渡していたのに」
腕の中で眠るフィービーを見つめるダイアナの眼差しは母性だけではなく、それ以上の感情が含まれていたようにアシュフォード夫人の目には見えていた。
「これ、ダイアナ様に聞いたのだけどね、フィービー様の名前はダイアナ様がつけたようなの」
「ミリアン様の時は違ったってこと?」
「ミリアン様の名付けはゴーランド様よ。フィービー様もゴーランド様が名付けたのだと思っていたから、ちょっと意外だったわ」




