36話 最後に仰天
一年に一度の大きな催したる皇帝の誕生日パーティーは無事終わっただろうか。翌朝起床したフィービーは、微かに燃えている暖炉の火を消し、目を覚ます為思い切って窓を開けた。
「寒い……!」
冷気が容赦なくフィービーの部屋に入り込み、折角の暖かさもすぐに寒くなってしまった。目を覚ますにはこれでいいと自身に活を入れ、乱れたベッドの上を綺麗に整えた。共同の洗面室へ向かう前に厨房に寄り、既に起床していたウォレス、スザンナ夫妻に朝の挨拶をした。
「今日はちゃんと起きれたね。偉い偉い」
「あはは……毎日寝坊していられませんから」
「冬の時期は皆寒さに負けて中々起きられないんだ。フィービーは働き者だね」
一度だけ寝坊をしたことがあった。暖かい毛布の中から中々抜け出せず、ついうとうとしていたらアズエラが起こしに来てくれた。
『フィービーでも寝過ごすなんてあるんだ。ちょっと意外』
『気が緩んでるのかも……』
『今日が初めてじゃない。それに時間だってまだ少し余裕があるから、ぱぱっと起きちゃいましょう』
『ええ』
大きな盥に少々熱めのお湯を注ぎ、それをカートに載せて洗面室へ向かった。冬は厨房でお湯を貰って洗顔や歯磨きをする。冬の水はとても冷たいと知っていたが、雪国の水は凍り付いていると知った時は驚いた。アズエラと二人凍った水面を指で突き、罅すら入らないから二人で顔を見合わせて笑い合った。町を北へ行った場所に湖があり、冬は水面が凍り付き歩けるとさえ聞き、帝都から戻ったら一緒に行こうと約束している。水面を歩くなんて機会、北の町の冬にしかない。
「帝都にいた頃だと考えられない」
洗面室に入ったフィービーは洗顔と歯磨きを済ませ、必要なケアを済ませると使用したお湯を流した。
ウェリタース家で生活していた頃に寝坊なんてしたら、父や兄にどんな嫌味や説教をされるか分かったものじゃない。義母なら人間一度くらいはすると庇ってくれていただろうが、却ってあの二人はフィービーへの嫌味を加速させた。
「……」
盥を厨房へ返し、一旦部屋に戻った。寝間着からデザインのない厚手の紺色のワンピースに着替え、足には羊毛の毛糸で編んだ長靴下。自分で作るならオリジナル性を出そうと脚を覆う長さにした。お陰でワンピースを選んでも寒くない。
フィービーが得意な刺繍や編み物の技術は子供達にしっかりと教えられており、春になったらバザーを開く予定だ。北の教会支部と併設している孤児院はオルドーがいることもあって資金が豊富で、冬を乗り越える貯えも十分にある。また、フィービーが来てからアイが自身の名義で多額の寄付をした為、例年以上に豊かになっているとオルドーに聞かされた。毎月貰うお小遣いの額は、さすが帝国一の大富豪の娘と言わざるを得ず、無駄遣いを嫌うアイは使わない為貯まる一方だと会うと愚痴を零された。
フィービーの目に一通の手紙が映った。テーブルに置いているそれを手に取って封筒の中身を取り出した。フィデスとオルドー達が帝都へ出発してすぐにサンディス領で暮らす祖父母に当てた手紙、その返事だ。
「お祖母様とお祖父様は、私がウェリタース家を出て行ったと知らないのね」
突然の手紙なのに祖父母はフィービーが来ることを歓迎すると書き、同行者にオルドーがいることについて深く言及されていなかった。会った時に説明をすればいい。
「お母様はどんな気持ちでお父様と結婚したのかしら……」
愛していた人と結ばれるまでもう少しのところで横恋慕をされ、皇族の力を借りて引き裂かれた当時の母の心情は決して計り知れない。フィービーの知っている母は常に微笑みを絶やさず、家族を温かく見守る聖母のような人だった。療養の為サンディス領で暮らしていた頃、ふと、思い出したことがある。あの時、出発当日屋敷に残るミリアンが母に一緒に領地に行きたいと泣きながら懇願していた。既に準備を済ませ、ハンナと共に玄関ホールに行ったフィービーは初めてミリアンが泣いている場面を目撃して大いに驚いた。腰に抱き付き、泣いて一緒に行きたいと強請るミリアンを困ったと言いたげに微笑む母の代わりに、長年母の専属侍女を務めるミラージュがやんわりとミリアンを引き剥がした。
父が残るのは分かるとしても、どうしてミリアンも留守番組になってしまったのか。馬車に乗って母に訊ねても——
『お兄様も一緒に行っては駄目だったのですか?』
『うん。だーめ』
『私は良いのに?』
『フィービーはいいの。ミリアンまで来ちゃうと旦那様が寂しがるでしょう? 以前旦那様がミリアンの跡取り教育に遅れが生じてるって話して、私と相談してミリアンは跡取り教育の遅れを取り戻させるってことで置いて来ることになったのよ』
『お兄様がお勉強を……』
勉強熱心なミリアンは家庭教師の評判が良く、遅れが生じる等俄かに信じられなかった。母が病に伏せて以降、頻繁に勉強を抜け出しては母のところに来ていたとミラージュが説明をした為、一応納得はした。
父と兄がいない、母との生活は今のフィービーにとって宝物と言っていい。調子が良い日は全力とまでいかなくても裸足で草原を走る母を追い掛けた。普段走るなんて行為をしなかったフィービーにとって、自然豊かな領地での生活は毎日が新鮮だった。木登りの方法も教えられた。久しぶりに登ると言いながら、ドレス姿で器用に木を登る母を眺めていた伯母は額に手を当てて呆れていた。母が療養しに来ると聞いて駆け付けたらしく、調子が良いからと木に登る母を見る目は呆れながらも懐かしさに溢れていた。
『知ってたフィービー? ダイと伯母様は、よく姉妹喧嘩をしたのよ』
『ええ? とても仲が良いのに?』
『子供の頃はとにかく落ち着きのないダイを淑女らしくしたくて、私が家庭教師の許へ連れて行こうとすると逃げ回っていたわ』
やれ野猿だ、手の付けようのない野生の河馬と伯母が罵っては、のっぽだ、綺麗でお行儀の良い白熊と母は罵り返したのだとか。他人の悪口を言う母等想像出来ず、戸惑ったのもまた一つの思い出だ。
手紙を封筒の中に戻し、引出しを開けて仕舞うと一冊の本があった。アイにお勧めされた恋愛小説を持って来ていて、本には栞を挟んでいた。
栞を取り出したフィービーは微笑を浮かべ見せた。
「私の話なんて興味がないって思ってたけど、お父様を気にして何も話せなかったの? ミゲル……」
お気に入りの栞を失くしてしまったとフィービーが話しても反応を示さなかったのに、次に会った時新しい栞を贈られた。フィービーが好む青い鳥が描かれた栞を……。
幼馴染のダイアナが死の淵を彷徨った原因をローウェル公爵夫妻に責められ、父に婚約を快く思っていないと言われたミゲルの心中もまた計り知れない。
ダイアナの許へ行かないでほしいと必死に引き止めていた時に見せたのが聞き分けのない婚約者への呆れではなく、言いたくても言えなかったとしたら、ちょっとでも良かった……信じて話してほしかった。
栞を仕舞ったフィービーは自身の頬を叩いて気持ちを切り替え、今日の業務を熟すべく部屋を出て行った。
——凡そ半月後。皇家と大教会の紋が刻まれた馬車が今朝教会の正面入り口に停車した。そろそろ戻る頃だとここ数日待っていたフィービーは、馬車を降りたアズエラと目が合うと思い切り抱き付かれた。勢いが強く、支えられなかったフィービーが倒れそうになったのをウォレスが咄嗟に壁となって阻止した。
「おいおい、久しぶりの再会で嬉しいのは分かるがアズのお嬢ちゃん力強いんだから。ちょっとは手加減しねえと」
「私そこまで強くないですよ!? って、ごめんねフィービー」
「気にしないで」
アズエラの真っ直ぐな感情表現を見習いたいくらいフィービーには真似が出来ない。ウォレスに立たせてもらうとアズエラと向き合った。
「お帰り、アズ」
「ただいま、フィービー」
「久しぶりの帝都はどうだった? ギデオン伯爵はお元気だった?」
「帰る前日は大変だったわ。お義姉様と一緒になって引き止めるんだもの。戻るなら戻るで、あれも持って行け、これも持って行けって重量オーバーになりそうだったわ」
「賑やかだったのね」
話を聞くだけで何となくだが光景が浮かんでしまう。とても楽しそうで笑顔が溢れている。
続いてダイアナやトレイシー、イーサンの三人も降りた。イーサンの方は少し疲れており、トレイシーとダイアナはいつも通り。三人に声を掛け、談笑をしていると皇家の紋が刻まれた馬車からオルドーが降りた。
フィービーは三人に一言断ってオルドーに駆け寄った。
「オルドー様。お帰りなさいませ」
「ああ。ただいま。フィービー、君宛の手紙を幾つか預かっている」
「私の?」
オルドーが懐から出した手紙を受け取り、差出人の名前をそれぞれ見ていく。
「お義母様……アイも。ハンナやダイソンさんも書いてくれたのね。あ」
四人分の手紙の下にもう一通あった。拙い字で“ねえ様へ ジゼル=ウェリタース”と書かれている。
「ジゼル……」
綺麗に字が書けないとフィービーに泣き付いていたジゼルが手紙を書いてくれた。黙って出て行った異母姉の為に。込み上がるものがあり、目頭が熱くなっているとオルドーに呼ばれる。
「フィービー。陛下の誕生日パーティーで起きたことを話す。正直予想以上だった」
涙を袖で拭い「ローウェル公爵夫人やダイアナ様が……ですか?」と問えば、ある意味で当たっていると返される。
「詳しい話は中でしよう。ところでサンディス家から返事は来たか?」
「はい。歓迎すると返事を」
「そうか」
移動しようとしたところでオルドーは御者に振り向いた。
「ここまでご苦労だった。客室に案内する」
「——いえ、その必要はありませんよ」
非常に聞き覚えのある声にオルドーとフィービーは互いに顔を見合わせた。耳当て付きのニット帽を深く被っていた御者が帽子と黒眼鏡を取ると——素顔を見たアズエラが叫んだ。
「こ……皇太子殿下!!?」
帝国の次期皇帝が御者の振りをして今目の前にいる。ダイアナやトレイシー、イーサンにアズエラが慌てて頭を下げようとしたのを手で制した。
「ああ、非公式の訪問だ。畏まらなくていい」
「アルドル!! お、お前、一体何を。というか、最初からか!?」
「おじ上が乗っていた馬車の御者は最初からおれです。ほら、言ってたでしょう? 北に戻ったらフィービー嬢と共にサンディス領へ行くと。亡きダイアナ夫人やローウェル公爵の素顔を知りたくなったので潜り込みました」
悪びれもせず、平然と言ってのけるアルドルに唖然とする周囲。
不意にアルドルと目が合ったフィービーは距離を縮められて緊張を強くした。
「フィービー嬢。ミゲルの奴には、おれが戻る前にケジメをつけろと背中を蹴り飛ばして来た」
「え!?」
「ミゲルはダイアナと絶縁した。だが、それくらいでは君やウェリタース夫人の信頼を得るには程遠い。徹底的にやれと言った。フィービー嬢が抱えるローウェル公爵夫人やダイアナへの心配を消した後、ミゲルに会うかどうか判断してくれ。ウェリタース夫人の方は、フィービー嬢の意思に任せるってさ」
「……」
予想外な人が予想外な登場を果たしたせいで呆気に取られるもミゲルの名前が出た辺りで顔付きを変えた。
「ミゲルがダイアナ様と絶縁だなんて……」
「信じられない? そうだよな。あいつにとっては、大きな一歩と言っていい。ダイアナが死んだら自分のせいだと責める思考はまだあるが、それを乗り越えないと君と会うどころか、ダイアナと本気で絶縁するのは無理だって突き付けた」
何を差し置いてでもダイアナを優先し続けて来たミゲルがダイアナと絶縁をした。アルドルが言うのなら事実なのだろうが信じ難い話でもある。
「その他については、さっきおじ上が言っていた通り中でしよう」
「あの、皇太子殿下が来てしまってお城の方はパニックになっているのでは」
「お祖父様に協力してもらった。陛下達がやらかしてくれたお陰で素直に言う事を聞いている筈さ」




