結:どちらが魔女か 2/2
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頁を捲るのは誰にしようか、という議題で少し揉めた。この村の部外者であり、万が一の際しがらみのないぼくが一番ではないか、とぼくは提案したけれど、自分が捲ると言って譲らない弟さんに、最後は折れることになった。
食卓を中心に、五角形を描くようにして座った。弟さんを頂点として、その両隣に女子がふたり、反対側に残りの男子。ぼくから見て右奥に座っている弟さんが、正面に本を置くかたちだ。全員が、身を乗りだすように、上方から本を見下ろしている。
その状況を確認して、弟さんは静かに、その本に手を掛けた。
頁を捲る。
その途端だった。本を囲う彼らの瞳から、一様に、光が失われた気がした。表情が虚ろだった。意思のないような、魂の抜けたような。そんな彼らと、機械的に単調に淡々と捲られていく頁。
異常を認識していたのはぼくだけだった。
状況がよく理解できない。弟さんから聞いていたその姉の様子と、今の弟さん自身は非常に似ている。そのことは漠然と悟っていた。しかしどうすればいいのだろう。ぼく以外の四人がそんなありさまで、ただひとり正常を保っているぼくは、何をすべきだろうか。
少し迷って、呼びかけてみることにした。声をかける。声をあげる。声を張りあげる。返事はない。反応はない。音声では駄目らしい。なら、肉体的刺激だろうか。ここでも少し迷って、立ちあがると、今も本を捲り続けている彼のところへ近づいて。
肩に手を置いた。
途端に、彼の表情が軋んだ。
反応があったことにぼくが喜んだのもつかの間だった。目を瞬いた彼は、ぼんやりとした様子で本から顔をあげると、声にならない叫びをあげた。
表情が、歪む。恐怖に、恐慌に。
目を見開いて虚空へ視線を向けている。その目線の先をぼくも追った。何の変哲もない壁と天井があった。彼に意識を戻す。本に手を掛けたまま、ぼくには見えないものを見ている彼の肩を、軽く叩く。その背が跳ねる。怯えの表情を強くした彼は、おそるおそるでこちらを振り向いて、ぼくと目が合うと顔色を和らげた。
どうやら、ぼくだけが、彼の視界のなかで普通に見えているらしい。少し安心して力を抜いた彼は、ぼくとじっと目を合わせているのも居心地が悪いと考えたのか、少し目を逸らして、すぐに体を強張らせた。
その世界に何が見えるのか、ぼくにはわからない。
再び恐怖に囚われた彼は、しかし今度は固まってはいなかった。ぼくを庇うように腕を広げて、本から後ずさる。
本から、手を離した。
その瞬間、嫌な予感がした。
世界が軋む音を錯覚した。
呪いの本が歪んだような気配を感じた。
ぼくら以外の三人が、その瞳に意思の光を取り戻した。途端それぞれに阿鼻叫喚を始めた。
彼と彼女らの反応は弟さんと変わりなかった。部屋中を見回してぼくには見えない何かを散々に恐れたあと、ぼくのほうを見て、少しだけ安心する。彼らが見ている幻覚のなかで、ぼくだけが普通であるらしい。そのことをなんとなく察していると、彼らの視線がぼくの隣に移った。ぼくの隣に立つ弟さんに。
彼らの視界に弟さんがどのように映ったのか、ぼくにはわからない。
弟さんの視界に彼らがどのように映ったのか、ぼくにはわからない。
ぼくには彼らの見ていたものがわからない。
その後の展開は、もうぼくには意味がわからなかった。
ごく普通に見える彼らが互いを傷つけあうのは、どうしてだったのだろう。ぼくの隣に立っていた彼や彼女は、どう見えたのだろう。まるで、ぼくを助けようとしているかのように。ぼくの隣の位置を奪いあう彼らは、何を見ていたのだろう。
人体と人体が衝突する音がした。部屋のあちこちに人体がぶつかる音がした。食卓に誰かが頭を打ちつけられた。卓上に置かれた諸々が誰かと一緒に吹き飛ばされた。誰かの体液が流れた。誰かの血が流れた。誰かの骨が折れた。
誰かが死んだ。
狂乱の渦のなかで、ぼくだけがどうしようもなく正常で平常で凡庸で普通で平凡だった。
彼らを異常から救う術をもたない平凡なぼくは、ただ、すべてが終わるのを待っていた。
気づいたときには誰も動かなくなっていた。
いつものようにぼくは平凡に呪われていた。
部屋のなかは惨憺たるありさまだった。とりあえず、ぼくは部屋を片づけることにした。
ひっくり返った食卓を正しい向きに戻して、散らかった食器を拾い集める。諸悪の根源であろうあの本も、踏んで汚しかねない床上に放置するのも忍びなくて卓上に置き直した。
それでも、部屋のあちこちはさまざまな理由で汚れたままだ。液体を拭けるものがなくて綺麗にできないことを申し訳なく思った。
できるところまで整頓を終え、今度は彼らに目を移した。凄絶に歪んだ形相に、心が痛む。せめてもの供養として、その瞳を閉ざして、衣服の皺と曲がった体を伸ばし、手を組ませて安置すると、ぼく自身もまた手を合わせた。
黙祷する。
冥福を。どうか安らかに。
そんな、ありふれた祈りを捧げた。
そうして、知人の家を訪れたら帰宅する前に散らかしたぶんは片づける、という当たり前の行為を終えて、ぼくはその家を後にした。
居候をしていた家には、戻りづらかった。自分のせいで死なせた息子の両親に顔を合わせるのは、もちろん普通に気まずいからね。
それに旅には慣れていた。
追われるように住処を変えるのは、いつものことだった。
結局そのまま、ぼくはあの村を去った。
◇
「つまり、」
と彼は何かを言いかけ、押し黙った。先にどんな言葉を続けようとしたのかはわからなかった。彼に視線を向けることができなかった。目の前の机を見下ろす、私の思考は混濁していた。
つまり。すなわちなんなのか。彼は何が言いたい。彼がした話の意味は何か。わからない。理解が追いつかない。わかってしまっていることを理解したくない。
「……きみは言ったよね。弟さんを殺したのはきみだと。呪いの本に適切な対策をとれなかったきみの罪だと」
彼の言葉が、思考を侵食する。理解したくない、意味をわからせてくる。
私の罪。
その言及が意味する先に、私は気づいている。
「確かに、それも一面ではある。きみに罪がなかったとは言わない。けれど、それは間接的だ。呪いの本を放置していたことによる消極的な関与でしかない」
私は悪くないと彼は言う。言わんとしているのがわかる。私は悪くない。なら誰が。誰が弟を殺したことになるのか。
私は、わかってしまっている。
「直接的に、関与したのは。呪いの本を調べることを提案したのは。
その本を読むことを、提案したのは。彼が捲ることを拒めなかったのは。
そして、あの本に呪われた狂乱を止められなかったのは。
すべてぼくの責任で、呪いで、罪だ」
彼は言う。
「ぼくがきみの弟を殺した」
彼は言う。自分が悪いのだと彼は言う。その罪悪を言明する。
そして、その続きを。私が認めたくない結論を。
口にする。
「だから、」
きみと一緒にはいられない。
◇
理解する。彼のことを理解してしまう。
これまでの話から導かれる帰結がわかってしまう。
彼は、異端だった。
私と同じように異端だった。黒髪を理由に周囲から怖れられる異物だった。
彼は、おそらく異能である。
私の傲慢なる自称とは違う天性の異能である。その詳細はわからない。どういう理屈なのかはわからないが、しかし語られた過去における彼は、明らかに異常だった。
そして、彼は孤独だ。
きっと、それは私のように。
異端を理由に疎まれて、異能を理由に離別を経てきた。
そしていまは。私と彼との親交が、失われようとしている。
私が彼に感じたのと同じように、彼もまた、私に親愛を抱いてくれていたとしたら、つまり。
つまりそれは。
◇
「……きみは、ぼくのことをどう思う?」
顔の見えない彼の声が届く。その顔を私は見られない。
「きみの弟を殺し、きみの平穏を奪ったぼくのことを」
そこでようやく、理解して。思わず唇が歪んだ。
「きっと許せないはずだ。許せるはずがない」
その断定する口調に、ようやく私は私を理解する。
あまりにも、理解するのが遅すぎた。
「だから、ぼくのことを嫌うだろう。恨むだろう」
私にとっての、──とは何か。
異端も異能も孤独もその一因であるのは確かで、けれどそれら以上に。
「呪って厭って疎んで忌み嫌わずにはいられないはずだ」
それは、私の幸福を奪った者だ。
あの優しい弟を死なせ、ささやかで確かな私の居場所を奪い、あの村でのささやかな日常を壊した者だ。
「それでいい」
それは私なのだと思っていた。私に孤独を思い知らせるのは、あくまで私の愚かさなのだと思っていた。
でも。
「ぼくは憎まれなければならない」
私は顔をあげた。目の前の、近くて遠い少年を、真っ向から決然と見据えた。睨むように向ける瞳の端から落ちる雫に、気づかれないことを祈りながら。掠れた声で、私は言った。
「──あなたが、」
私にとっての。
「あなたが──魔女だったのね」
「ぼくは男だけれどね」
冗談めかした口調で、彼は微笑んだ。いつもどおりの、どこにでもあるようなありふれた、私が目にする最後の、平凡な笑顔だった。
◇
そうして、魔女の探究が終わる。
私にとっての魔女の定義とは、異端で異能で孤独な存在であり、私の日常を壊し、私に孤独を教えた者のことだ。
議論は結し、結論が下り、私の魔女は学園を去った。
図書室には、かつてと同じ静謐な気配が戻っている。
静寂のなかで私は、痛々しいほどに孤独を思い知る。
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その夜、手紙を書いた。少ない語彙と拙い筆で、祈りと別れを告げる手紙を。