終:魔女の探究 1/
◇
明けない夜はない、と初めて謳ったのは誰だろう。その言葉を知ったときの私は、明けてほしくない夜が存在することなど思いもよらなかった。
けれど明けない夜はない。陽は落ちて、再び昇る。昨日という一日を、どうしようもなく過去にして。
今日も私は、彼のいない学園に通わなければならない。
今更普通の講義が行われている教室に足を運べるほどの勇気は、私にはなかった。相も変わらない図書室登校だ。
ごくごく微かな期待を胸に部屋の中へ入ると、もちろん、人の気配はなかった。
わかっていたことだ。
胸中の希望をまたひとつ打ち捨てると、重い足を、ゆっくりと運んだ。学園指定の靴音が、がらんとした無人の空間に響き渡る。いつものようにいつもの席に着こうとして、足が止まった。
椅子の上に手紙と思しきものが置かれている。
「…………」
気づかずに座っていたらどうするつもりなのか、と呆れながら。紙の束を机に移すと、椅子に腰を下ろした。今日読む本の予定を後ろにずらして、改めてその手紙を見遣る。
特徴のない、いたってごく普通の筆致に、少しだけ胸がざわついた。
『親愛なる図書室の魔女へ。──平凡なる魔女より』
「…………、」
誰が書いたものなのかは、すぐにわかった。
□
親愛なる図書室の魔女へ。
きみがこの手紙を読んでいるころ、ぼくはもうこの学園にはいないだろう。……一度は書いてみたかった書き出しなんだ。ここで呆れて紙を破り捨てることなく、きちんと続きを読んでほしい。
あの日、ぼくが言ったことを覚えているだろうか。
ぼくの人生が始まった日から話す、となると流石に長い……そういうことだ。だから代わりに、こうして文章を残すことにした。
もちろん、すべてを余さず書くわけじゃない。
けれど、ぼくという存在にとって重要なことは、きちんと伝えておきたい。
きみが、あの村が焼けた日のことだけではなく、きみにとって大切なことをも話してくれたように。ぼくもまたそうしなければ、割に合わないというものだ。
だから、要点を掻い摘んで記すことにしよう。
ぼくは平凡に呪われている。
平凡である、ということに呪われている。
あの日のぼくも語ったことだ。どういうことなのか、ときみも思ったことだろう。正直にいえば、ぼく自身でも、どういうことなのかわかっているとは言いがたい。
性格とも、体質とも、特技とも、得意不得意とも、好き嫌いとも、いかなる観念とも違う。得体が知れないなりにぼくの一生に付き纏っているそれは、やはり呪いと呼ぶのがふさわしいと思う……なんて、ぼくの感想だけを並べていてもきみには伝わらないだろうね。書いているぼく自身がこのことを理解していないから説明が難しいのだけれど。
根本から考えてみよう。
そもそも平凡とは何か。
あるいは普通でも凡庸でも、普遍でも常識でも、形容にこだわりはない。きみが論じた、魔女の異端性や異能性と同じだ。ぼく自身は平凡という単語の語感が気に入っているけれど、しかし含意が同じなら表現が違おうと構わない。
では、平凡や普通といった言葉が共通して含む意味とは何か。幾つか考えられると思う。というか、その幾つかが過去を語るうえで都合がいいのだけれどね。順を追って、説明していくことにしよう。
第一に、平凡とは、平均のことだ。
あらゆる人の誰にも似ていて、誰よりも全員との距離が近い。そんな、どこにでもいる人間性を形にしたのがぼくという存在……なのではないか、と思う。そう推測される。
この点についてはきみも頷けるはずだ。たとえば、試験成績のことがあった。試験に限らずとも、なんらかの基準によって各個人を評価する際、ぼくは必ずその平均付近に位置づけられている。
きみに勉強を教わり、ぼく自身それなりの自信をもって臨んだ前回の試験ですらそうだった。不正が疑われるほどに奇妙で、しかし確かな現実がそれだ。
あるいは。
初めて会ったときにきみは、ぼくの顔を見てどう思ったかな。どこにでもいるようなありふれた顔立ちだ、と感じただろうか。
もしそうなら遠慮する必要はない。
ぼくが今までに知りあった相手は、例外なくそんな感想を抱いていた……少なくとも、ぼくが感想を求めた限りではね。不思議なことに、彼らの生まれや育ちはそれぞれに違っていた。異なる常識や経験を備えた別人が、同じようにぼくの顔を平凡と称するのは、ある意味では呪いと呼べるかもしれない。
とはいえ、ここまではまだ安全というか、平穏な特徴だと思う。
第二に。平凡とは普通であること。
つまり、異常でないということだ。
これが単なる同語反復では済まないことは、あの日のぼくの話から薄々察しているのではないだろうか。
つまり、だ。
普通の、というとこの流れでは誤解を招くだろうけれど……、一般の人間は、異常な事態には異常な、常ならぬ反応を示すものなんだ。
当たり前のことだろう?
普段と違う事態に、普段と同じ対応をしても。効果は薄いどころか、むしろ状況を悪化させることもある。非常事態にはそれに応じた対処が必要なのは当然だ。
ところが、ぼくにはそれができない。いや、今のぼくは比較的自分を客観視できているから、理屈で自分を動かせばなんとかなるかもしれない。
でも、少なくとも過去のぼくには、異常に応じた行動ができなかった。
あの村での過去を思い出してほしい。きみが姿を消したというのは、きみ自身の事情を知らない弟さんにとっては、紛れもない非常事態だ。
それまでの経緯を踏まえてみれば、あの本がきみに危害をもたらした可能性も高かった。きみより本に詳しくない、いわば初心者である弟さんとその友人が呪いの本に触れるなんて愚の骨頂だった。
救助者が遭難しかねない。
にもかかわらず、ぼくにはその判断ができなかった。あの緊急事態において、日常における、きみが読んでいた本への興味をごく普通に表明してしまった。
それがいかに危険で、手遅れなことであったかは、もはや語るまでもないと思う。
何を言っても申し訳は立たない。これは、ぼくの罪だ。どう謝ったところできみの弟は戻らない。きみにどれほど恨まれようと、ぼくはそれに甘んじるよ。
……少し、話が逸れた。
異常事態において普通の行動をしてしまうとはいえ、その異常が重大であるとは限らない。急いでいても脱いだ履物はきちんと整える、というのは、ある種の美徳ともいえる、かもしれない。
その程度で済むなら別に構わないんだ。
しかしながら、決定的で致命的な異常を前にしても普通に行動してしまう、それが周囲を傷つけかねないというのは……まさに呪いというべきだろう。
最後に、第三の点。
これについては、おそらくきみの心当たりはないと思う。だから少しわかりづらい、あるいは信じられない面もあるかもしれない。
実際、ぼくの認識が歪んでいる可能性も否定はできないからね。あくまでこれは、ぼくがそう思っているだけ、と考えてくれてもいい。けれど、一応言葉は尽くしてみよう。
改めて第三に。
平凡とは、理想のことだ。
これまでのふたつの説とは相反している、と感じるかもしれない。平凡で普通であることは、理想とはかけ離れた印象を与えると思う。
しかし理想とは、すなわち現実には存在するはずのない概念的なもの、と考えてみれば頷ける面もあるのではないだろうか。
たとえば試験の結果は整数値だ。けれど、複数人の平均が整数に収まるとは限らない。平均ちょうどの点数をとることができるのは、平均が整数の場合に限られる。つまり平均とは、ある種の理想化された点数であるわけだ。
……一応の注意をしておくと、これはぼくの成績が凡庸であることを擁護しているわけではないからね。
今度は試験以外の方面について考えてみよう。たとえばぼくの顔立ちや仕草や行動は、どこにでもあるような平凡なものである、と認識されるらしい。ぼくには自覚はないから、あくまで伝聞になるけれど。
つまりぼくという存在は、平凡な人間という理想そのものなのだろうか?
そんなことはないんだ。
そんなわけはないんだ。
ぼくだって、この不思議な体質を抱えながら、自分なりに生きているつもりだ。
そこにはぼくの意思がある。
ぼくという人間は、ぼくという個性によって、少なからず平凡からずれているはずだ。にもかかわらず、ぼくの存在が周囲に与える印象は平凡だ。
その齟齬の存在に、なかなか彼らは気づかない。
いっそのこと、人間がすべてを整数値的に評価されていたならまだよかった。
人間が画一的な試験によって評価される程度の価値しかもたなかったなら、平均ちょうどの人間なんていないってことがすぐにわかるのに。
彼らは、ぼくを平凡だと考える。ぼくに平凡や、普通や、常識や、普遍を求めてくる。彼らが理想化した平凡を押しつける。けれど、ぼくの個性は決してその枠には嵌らない。
収まらないんだ。
そのことを知るのには、かなりの時間がかかる。ぼくの身にかかる平凡という魔法が彼らを惑わせている。けれど、ひとたびそれを知ってしまったら、もはや理想との乖離は致命的になっている。
その大きな違いが、何を生むのかは……あまり語りたいものではないね。
ぼくに固定観念を押しつけていたことを恥じる、優しい人もいる。その罪悪感で自傷するのはやめてほしいけれど。
ぼくが固定観念に一致しないことに、怒る人もいる。その怒りをぼくにぶつけるのは、やめてほしいけれど。
彼らの対応は実に多様だった。ぼくという平均を生みだす人間の幅というものを見せつけられる思いだった。冗談だけれど。
自分のせいで傷つく人を見るのはいやだった。
自分のせいで人が死んでいくのがいやだった。
だから。
この平凡は、ぼくにとっての、呪いなんだ。
さて。結構長い文章になってしまった。もし読んでくれたのなら、この手紙の意味もわかってくれるかもしれない。
そう。
これが、ぼくがこの学園にいられない理由なんだ。
きみの弟を死なせたことへの罪滅ぼしもある。けれど、それだけではない。このままぼくが学園にいると、もしかしたら、ぼくの呪いがきみすら手にかけるかもしれない。あるいは、きみが知らず知らずのうちに抱いていた理想が、ぼくと致命的にずれてしまう日がくるかもしれない。
そんなことは想像もしたくない。
きみをぼくが傷つけるのも、ぼくがきみを傷つけるのもいやだ。
けれど、それを絶対に防ぐことのできる方法を、ぼくはひとつしか知らなかった。
ぼくが背負う魔法のような神秘のような不思議な呪いが、決してきみを危ぶむことはないと確信するには、たったひとつのやりかたしかなかった。
だから。改めて、ここで言わせてほしい。
ぼくはきみとは一緒にいられない。
◇
そこで文章は紙の端部に達していた。
悲しい本を読んだことは、少なくないつもりだ。物語の幸福な結末に感極まったこともある。涙を堪えながら文章を読むことには慣れている。
けれど、その経験が多いほど気が楽になるというわけではない。
苦しかった。
彼が記した独白に見え隠れする罪悪感が。
彼が背負っている呪いに対する畏怖と嫌悪と絶望が。
その呪いを理由に学園を去る決断に至るまでの苦悩が、私の喉を締めつける。
けれど、何よりも。
この期に及んでもなお彼のことを嫌いになれずにいる、そんな自分自身が最も苦しかった。
理性では理解できている。弟を殺したのは彼とその呪いだと。つまり彼は私の仇なのだと。憎んで恨んで然るべきなのだと、理屈ではわかっている。彼自身もまたその罪を認めている。
どうせ、一緒にはいられないのなら。
いっそ嫌って厭って喧嘩別れするほうが楽なのだ。
なのに、それでも、今も私はあの日々を懐かしく思ってしまう。一緒に本を読んで、彼と過ごしていた頃のこと。何も知らずに逢瀬を楽しんでいた、愚かな私。仇に対して抱くべき嫌悪以上に、親愛を感じてしまっている自分を、どうしようもなく自覚する。
読んでいた手紙に再び、目を落とす。
彼の呪いが周囲に抱かせるという、理想化された平凡性。私にとってそれは親しみやすさを意味するのだろう、と漠然と思う。
世界と自分が違っていることをずっと意識させられてきたから、そんな自分と同じに見える、平凡すなわち私に近い、彼に親近感を覚えてしまう。
これまで出会ったなかで最も私に近しい存在だからこそ、いっそう未練が募ってしまう。
そのことを自覚として認識しているのに感情を止められない、自分の愚かさが苦しい。
「…………」
もう一度、別れの手紙に目を通す。文章は離別を告げる言葉で紙の下端に達している。
それを痛いほどに見つめてから、私は紙を捲った。
『絶対に伝えなければならなかったことはここまでだ。中途半端ではなくて、きちんとした別れの言葉。きみへの礼儀として必要だった最低限の儀礼は以上だ。
そして。
そしてここからは、あくまで身勝手で自分勝手な祈りの手紙だ。
もしこれ以上ぼくの言葉なんて見たくなかったら、別に読まなくてもいい。
それなら書かなければいい、と思うかもしれないね。
その指摘は甘んじて受けいれる。けれど、それでもぼくは書かずにはいられなかったんだ。
読みたくなければいい。けれど、もしよければ、この先にも目を通してみてほしい。
ぼくの祈りが届きますように』
「…………」
今更だ、と思った。
もはや私は充分に傷ついている。この先を読むか否かで、この心の苦しさが変わることはない。これ以上傷つくことなどないのだから、読んでしまってもいいだろう。
毒を盛られた皿まで喰らうような気持ちと、もうひとつ。
興味がないといえば嘘になる。
人が言葉を紙に残すのは、何かを伝えたいからだ。
人が本を創るのは、その手間をかけてでも残したい言葉があるからだ。
彼がどうしても書かずにはいられなかったという、それほどに伝えたいこととは何か。
好奇心が疼かないはずがなかった。




