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第6話

「ふぅ……ようやく落ち着いたか」


夜。

ランプの灯りだけがぼんやりと照らす医療テントの中で、俺は深く、深〜いため息をついた。

ルッツの一件以降も、午後の訓練でかすり傷を作ったり、捻挫をしたりした連中が数人やってきた。その度に俺は、ゲラン爺さんの指示に従い「これは王都の秘薬なんです」という苦しい言い訳と共に、患部に軽く手を当てて(微量の聖気で)治癒を施した。


男たちは皆、一様に「ヴァルちゃんの手、すっごくいい匂いがする……」だの「触られただけで痛みが飛んだ!」だのと間抜けな顔を晒して帰っていった。

ただでさえ慣れない『可憐な姪っ子』の演技に加え、力を暴走させないように神経をすり減らした結果、俺の精神的疲労はすでに限界を突破していた。


「あー、疲れた。汗だくだ。爺さん、俺、ちょっと一風呂浴びてくるわ」


俺は立ち上がり、テントの隅にあった自分の荷物(爺さんがこっそり俺の部屋から回収してきてくれた)から、ゴワゴワの手拭いと粗悪な固形石鹸を引っ張り出した。

一日の疲れと汗を、熱い湯で洗い流す。辺境砦に配属されてから十年間、変わることのない俺のルーティンだ。


鼻歌交じりに天幕をくぐろうとした俺の首根っこ(正確にはローブの襟首)を、ゲラン爺さんがガシッと掴んだ。


「……待て、アホウ。どこへ行く気じゃ」

「どこって、大浴場に決まってんだろ。この時間は見回り組が戻ってくる前だから、比較的空いてるんだよ。広い湯船で手足を伸ばして……」

「バカモンッ!!」


ゲラン爺さんの丸めた羊皮紙が、俺の脳天に炸裂した。


「いっ!? な、なんだよ急に!」

「お前は自分の今の姿を忘れたのか! その、どこからどう見ても『絶世の美少女』の姿で、むさ苦しい男どもが全裸でひしめき合う大浴場に突撃する気か! 暴動が起きるわ!」

「あ……」


言われてみれば、その通りである。

俺の意識は三十八歳のオッサンのままだが、外見は可憐な少女(しかも最強の聖女)。

そんなのが湯気立ち込める男湯に素っ裸で現れたら、砦の男たちはどうなるか。間違いなく全員の理性が吹き飛び、俺の貞操(?)が未曾有の危機に晒されることになる。


「……そ、そうだった。俺、今、女なんだった……」


「ハァ……頼むから自覚を持ってくれ。お前がそんな調子では、ワシの胃が持たんわ」

ゲラン爺さんは呆れ果てたように額を押さえ、作業机の下から大きな木製のタライを引き出してきた。


「風呂なら、これを使え。お湯を沸かしてやるから、ここで体を拭くんじゃな。……あ、お湯に触れる前に言うておけよ? また無意識に浄化して、ただの水にしてしまうかもしれんからな」

「う、うっす……」


結局、俺は天幕をしっかりと閉め切り、出入り口に鍵(ただの木の棒だが)をかけて、一人でタライのお湯と向き合うことになった。


「はぁ……狭いし、肩まで浸かれないし。最悪だ」


文句を言いながら、俺は着ていたローブとチュニックを脱ぎ捨てた。

ひんやりとした夜の空気が、素肌に触れる。


「…………」


俺は、そこからピタリと動けなくなってしまった。

視線を下に落とすと、そこには、自分のものとは思えない『真っ白で滑らかな体』が存在していたのだ。


三十八年間見慣れていたはずの、傷だらけで毛深い、分厚い筋肉の鎧はどこにもない。

代わりにそこにあるのは、無駄な脂肪が一切なく、しかし女性特有の柔らかさを備えた、あまりにも完璧な造形美。

特に、自己主張を始めている胸元の『二つの膨らみ』。布越しに感じていた時でさえ動揺したが、こうして直接目視してしまうと、その破壊力は凄まじかった。


「……なんだこれ。どう見ても、オッサンの体じゃねえ……」


ゴクリ、と喉が鳴る。

自分の体なのに、いや、自分の体だからこそ、どこを見ていいのかわからない。

男としての本能が、目の前にある極上の肢体に反応しようとするが、肝心の『反応する場所』が物理的に存在しないため、脳の処理が完全にバグを起こしているのだ。


「と、とりあえず、汗を拭かないと……」


俺は手拭いをお湯に浸し、固く絞った。

そして、無意識にいつものオッサンの力加減で、腕から肩にかけてゴシゴシと擦り始めた。


「痛っ!?」


摩擦で肌が悲鳴を上げた。

見てみると、擦った部分の白い肌が、痛々しいほど真っ赤に腫れ上がっている。


「嘘だろ、手拭いで擦っただけだぞ!? どんだけ防御力低いんだよ、この肌!」


辺境の粗悪な麻の手拭いは、今の俺の繊細な肌(おそらく高級な絹以上の滑らかさ)にとっては、ヤスリをかけているのと同じだったのだ。

仕方なく、俺は手拭いを使うのをやめ、お湯を直接手ですくい、肌を撫でるようにして洗うことにした。


「……っ」


これが、地獄の始まりだった。

自分の手で、自分の体を撫で回す。

ただ汚れ(といっても、聖女の浄化能力のせいか全く汗臭くなく、むしろ花の香りがするのだが)を落とそうとしているだけなのに、指先から伝わってくる肌の感触が、あまりにも良すぎる。


すべすべで、もちもちとしていて、吸い付くような柔らかさ。

特に、洗わざるを得ない『胸』の部分や、かつての相棒が消え去り、全く別の構造へと変貌してしまった『未知の領域』に触れるたび、背筋をゾクゾクとするような、謎の電気信号が脳内を駆け巡る。


「ひゃっ……! あ、いや、声出てるぞ俺……気持ち悪いな……!」


自分で自分を触って、変な声を出しているオッサン(見た目は美少女)。

客観的に見れば、この世の終わりみたいな地獄の光景である。

あまりの精神的苦痛に、俺は半泣きになりながら、猛スピードで体を洗い終えた。


「ぜぇ、ぜぇ……体拭くだけで、ゴブリンの群れと戦うより疲れた……」


タオルで体を拭き、ゲラン爺さんから借りた新しい寝巻き(これも少しブカブカだ)を着込む。

これで一安心……と思いきや、まだ最大の難関が残っていた。


『髪』だ。

背中の真ん中あたりまで伸びた、滝のような銀髪。

これまで坊主頭に近く、石鹸をつけて一分で洗い終わっていた俺にとって、この長髪の扱いは未知数だった。


「どうすんだこれ。洗わないわけにはいかないし……」


俺が自分の粗悪な固形石鹸を手に取ろうとした時、天幕の外からゲラン爺さんの声がした。


「おい、バルド。まさかその軍から支給された廃油みたいな石鹸で、その髪を洗うつもりじゃなかろうな」

「え? ああ、いつもこれで全身洗ってるけど」

「バカモン!! そんなものでその最高級の絹糸のような銀髪を洗ってみろ、バサバサになって取り返しがつかんことになるわ! ほれ、これを使え!」


天幕の下から、コロンと小さな瓶が転がってきた。

蓋を開けると、ふわりと上品な花の香りが漂う。


「これは?」

「エルフの行商人からふんだくった、高級な香油と薬草のシャンプーじゃ。泡立てて、優しく揉み込むように洗え。絶対に爪を立てるなよ!」


「……男の入浴に、どんだけ口出してくるんだよ、あの爺さん……」


ブツブツと文句を言いながらも、俺はそのシャンプーを使って髪を洗うことにした。

教えられた通り、優しく泡立てる。

きめ細かい泡が、銀色の髪に絡みつく。指通りは驚くほど滑らかで、引っかかるようなことは一切ない。

洗い流した後の髪は、まるで水分をたっぷりと含んだ真珠のように、しっとりと輝いていた。


「……すげえ。俺の頭から、貴族の令嬢みたいな匂いがする」


手拭いで丁寧に髪の水分を拭き取りながら、俺は再び深いため息をついた。


さらさらと肩にこぼれ落ちる銀髪。

寝巻きから漂う、甘く清らかな香り。

少し火照って、ほんのりと桜色に染まった頬。

手鏡に映るその姿は、どう贔屓目に見ても『湯上がりの色っぽい美少女』そのものだった。


「俺は……どこへ向かってるんだ……」


三十八歳の万年平騎士。酒とツマミを愛する泥臭いオッサン。

そのアイデンティティは、もはや見る影もない。

自分の体にドキドキし、髪の毛の手入れに時間をかけ、いい匂いを漂わせる謎の生き物。


「……酒が、飲みたい……」


二度と酔うことのできない体を抱え、俺は簡易ベッドに倒れ込んだ。

肉体的な疲労よりも、精神的な疲労が限界だった。

目を閉じると、今日一日で起きたあまりにも非日常的な出来事が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。


「明日も、またヴァルのふりをして、手当てとかしなきゃいけないのか……」


重い現実に押し潰されそうになりながら、俺は逃げるように眠りの淵へと沈んでいった。

せめて夢の中くらいは、むさ苦しいオッサンの体で、浴びるようにエールを飲ませてくれと祈りながら。

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