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第5話

「うぅぅ……俺のエールが……ただの美味しいお水に……」


医療テントの片隅で、俺は両膝を抱えてシクシクと泣いていた。

酒が飲めない。それは、辺境の過酷な任務を生き抜くための唯一のガソリンを抜かれたに等しい。三十八歳にして、俺の人生は完全に色を失ってしまった。


「ええい、いつまでメソメソしておるか! 泣きたいのはワシの方じゃ!」


ゲラン爺さんが、丸めた羊皮紙でスパーン! と俺の頭を叩いた。


「いっ!? 痛ぇな爺さん!」

「痛いのは当たり前じゃ、お前さんの体は今、羽虫よりもか弱いのじゃからな。いいか、ワシはお前を匿ってやる代わりに、助手としてこき使うと言ったはずじゃ。タダ飯を食わせるほど、この辺境砦は甘くないぞ」


ぐうの音も出ない。万年平騎士の俺だが、働かざる者食うべからずという軍の鉄則くらいは骨の髄まで染み込んでいる。


「わ、わかってるよ……。で、俺は何をすればいいんだ?」

「お前は元々騎士じゃろう。怪我の応急処置くらいはできるはずじゃ。ワシはこれから裏の森へ薬草を摘みに行く。その間、軽い怪我人が来たら、お前が『ヴァル』として傷を洗って薬を塗っておけ」


そう言って、ゲラン爺さんは薬箱から刺激臭のする緑色の軟膏と、清潔な包帯を取り出した。


「いいか、絶対にボロを出すなよ。あの『聖気』とやらも、そのペンダントがある限りは漏れんはずじゃが、感情を乱せばどうなるかわからん。大人しく、可憐な姪っ子を演じきるんじゃぞ」

「へいへい。任せとけって」


ゲラン爺さんがテントを出て行き、俺は一人残された。

静まり返ったテントの中で、自分の華奢な手を見つめる。

(可憐な姪っ子、ねぇ……)


俺が深いため息をついた、まさにその時だった。


「ゲ、ゲラン先生ーっ! い、痛ぇッス! 血が止まんないッス!」


天幕が乱暴にめくられ、一人の若い兵士が転がり込んできた。

見覚えのある顔だ。今朝、俺の部屋の扉をぶち破ろうとした後輩騎士、ルッツだった。


「ル、ルッツ!?」

「えっ?」


俺の声に反応して顔を上げたルッツと、バッチリ目が合ってしまった。


ルッツは、右腕を左手で強く押さえていた。指の隙間からは、ボタボタと生々しい赤い血が床に滴り落ちている。見回りの最中に、森の入り口でゴブリンの奇襲でも受けたのだろう。防具の隙間を縫うように、鋭い刃物で切り裂かれたような深い傷が見えた。


だが、ルッツの表情は痛みに顔を歪めるどころか、俺の姿を見た瞬間に完全に間抜けなものへと変わっていた。


「あ、れ……? 天使……? 俺、ゴブリンの錆びた鉈で斬られて、失血死したんスか……?」


虚ろな目でそんなことを呟きながら、ふらふらとこちらへ歩み寄ってくる。


「バカ、死んでねえよ! しっかりしろルッツ!」


俺は慌ててルッツの肩を支えようと手を伸ばしたが、自分の非力さを完全に忘れていた。

体重八十キロ近い筋肉質の青年に寄りかかられ、俺の華奢な体は支えきれずに「ひゃうっ!」という情けない声と共に、彼ごと床に倒れ込んでしまった。


「いっ、ててて……! おい、ルッツ! 重い、どけ!」

「ふわぁ……なんか、すっごくいい匂いがする……柔らかいし……ここが天国……」

「天国じゃねえ! ここは医療テントだ!」


朦朧としているルッツをなんとか押し退け、俺は立ち上がった。

出血量が多い。急いで止血しないと、本当に危ないかもしれない。

長年の戦場経験が、オッサンの冷静さを取り戻させた。


「ちょっと待ってろ! 今、傷口を洗って薬を塗ってやるからな!」


俺は姪っ子の『ヴァル』であることを忘れ、完全に先輩騎士の口調で叫びながら、手桶に入った綺麗な水を布に浸した。


「い、いや……君みたいな、綺麗な女の子の手を煩わせるわけには……」

「いいから黙って腕を出せ!」


ルッツの右腕を強引に引っ張り、傷口を露出させる。

パックリと開いた傷からは、ドクドクと血が溢れていた。

(傷は深いけど、動脈は避けてる。これなら縫わなくても、爺さんの特製軟膏を塗ってきつく縛れば塞がるはずだ……!)


俺は水を含ませた布で、傷口の周りの血と泥を拭き取ろうとした。

「少ししみるぞ、我慢しろよ」


そう声をかけ、布を傷口に押し当てた、その瞬間だった。


ピカァァァァァァァァァァァァッ!!


「うおっ!?」

「えっ!?」


俺の手のひらから、目も眩むような黄金色の光が爆発的に溢れ出した。

ゲラン爺さんにもらった『魔力隠蔽の護符』が、パキン! と音を立てて弾け飛ぶ。


「な、なんだこれ!? また光った!?」


パニックになり、慌てて手を離そうとしたが、俺の手はルッツの腕に吸い付いたように離れない。

光はルッツの傷口を包み込み、まるで時間が巻き戻るかのような、信じられない光景を俺たちの目の前で展開し始めた。


パックリと開いていた肉が、うねるように繋がり合う。

傷口から入り込んでいた泥や、ゴブリンの武器の錆といった不純物が、シュウゥゥ……という音と共に黒い煙となって浄化され、消滅していく。

そして、光が収まった後。


「…………え?」


俺とルッツは、同時に呆然とした声を漏らした。

ルッツの右腕には、傷跡ひとつ残っていなかった。

それどころか、日焼けして傷だらけだったはずの彼の腕の皮膚が、俺が触れた部分だけ、まるで生まれたての赤ん坊のように白く、すべすべになっていたのだ。


「……治っ、てる……?」


ルッツが、信じられないというように自分の腕を撫で回す。

痛みも完全に消え去っているらしく、腕をぐるぐると回しても全く問題ないようだった。


「す、すげぇ……! 一瞬で塞がった! なんだこの魔法! 痛みが消えたどころか、なんか全身に力が漲ってくるんスけど!?」

「あ、いや、これは……」


俺は完全にフリーズしていた。

ただ布で血を拭こうとしただけだ。魔法の詠唱はおろか、魔力を練るような感覚すら一切なかった。

ただ、『傷を治してやりたい』と、無意識に思っただけ。

それだけで、このふざけた体は『完全回復フルヒール』と『状態異常回復キュア』を同時にぶっ放してしまったのだ。


「あ、あの……君は、もしかして……」


ルッツが、キラキラと輝く尊敬と、明らかな恋心を宿した瞳で俺を見つめてきた。

その視線の熱さに、俺(中身は三十八歳のオッサン)はゾワリと鳥肌を立てた。


「君は、バルド先輩が王都から呼んでくれた、凄腕の治癒術師なんスか!?」

「え……あ、いや……」

「すげぇ! こんな若くて可愛いのに、教会の上位神官クラスの奇跡が使えるなんて! あ、俺、ルッツって言います! 君の名前は!?」


グイグイと距離を詰めてくる若犬のようなルッツに、俺は後ずさりしながら、ゲラン爺さんが作ってくれた設定を必死に口走った。


「わ、私はヴァル……! バ、バルドの、姪っ子で……!」

「姪っ子!? あのバルド先輩の!? 嘘だろ、あんなオッサンからこんな天使みたいな血筋が……!? 奇跡だ!!」


ルッツが一人で勝手に納得し、感動に打ち震えている。

そこへ、薬草摘みから戻ってきたゲラン爺さんが天幕をくぐってきた。


「おい、なんじゃ今の凄まじい光は! テントの外まで漏れ……って、ルッツ!? お前、なぜここにいる!」

「ゲラン先生! ヴァルちゃん、凄まじいッスよ! 俺の腕の深い傷を、一瞬で、しかも無詠唱で完治させちまったんス!」


興奮気味に報告するルッツを見て、ゲラン爺さんは全てを察したらしい。

彼は額に青筋を浮かべ、般若のような顔で俺をギロリと睨みつけた。

(『絶対にボロを出すな』と言ったじゃろうがこのバカモン!!)という心の声が、痛いほど伝わってくる。


「あー……ええと、これはですね、ルッツ君」

ゲラン爺さんは必死に作り笑いを浮かべ、ルッツの肩を抱いた。

「ヴァルは、王都の特別な……そう! 特別な『秘薬』を使ったんじゃ! 触れただけで傷が治る、超高級な魔法薬をな! 決して彼女自身の力ではないんじゃよ!」

「えっ!? そうなんスか? でも、なんかヴァルちゃん自身から神々しい光が……」

「気のせいじゃ! 失血で幻覚を見たんじゃろう! ほれ、傷が治ったならさっさと持ち場に戻らんか! 小隊長に怒られるぞ!」


ゲラン爺さんに強引にテントから押し出されながらも、ルッツは最後まで俺の方を振り返り、満面の笑みで手を振ってきた。


「ヴァルちゃん! 助けてくれてありがとう! 今度、非番の時に王都の甘いお菓子でも奢るよ!!」


ルッツの姿が見えなくなり、テントの中に再び沈黙が訪れる。


「……」

「……」


「バルド」

「……はい」

「ワシの特製『魔力隠蔽の護符』、銀貨十枚分が粉々に吹き飛んでおるんじゃが」

「……給料から、天引きでお願いします」


俺は床に散らばった石の欠片を見つめながら、ガックリと項垂れた。

ただの怪我の治療すらまともにできない。

最強の聖女の力は、持ち主の意思とは無関係に、あまりにも簡単に『奇跡』を垂れ流してしまうのだ。


「……これ、本気でヤバいかもしれない」


バレないように聖女業をこなす。

その難易度の異常な高さを、俺は身をもって思い知らされていたのだった。

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