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第3話

軍医のテント内は、消毒用のキツいアルコールと、天井から吊るされた乾燥薬草のむせ返るような匂いが充満していた。

辺境砦の医療を一手に担うこの場所は、怪我人がいない平時には、ただの気難しい老人の引きこもり部屋と化している。


「……誰じゃ。こんな朝っぱらから。腹痛か? それともまたルッツの小僧が訓練で頭でも打ったか?」


薄暗いランプの灯りの下、大きな乳鉢で何かの木の根をすり潰していた軍医のゲラン爺さんが、鬱陶しそうに振り返った。

白髪交じりのボサボサ頭に、片眼鏡モノクル。偏屈を絵に描いたような顔立ちのこの老人は、王都の魔術院にいたこともあるという噂で、魔法や呪い、人体に関する知識は砦の誰よりも深い。


俺は入り口の天幕をしっかりと下ろし、誰にも見られていないことを確認してから、ぐるぐる巻きにしていた防寒布を口元からずらした。


「……ゲランの爺さん。俺だ、バルドだ。ちょっと、とんでもないことになっちまって……」


布越しではない、生の可憐な少女の声がテント内に響く。

ゲラン爺さんはピタッと乳鉢を回す手を止め、俺の顔を――いや、ブカブカの毛皮の外套に包まれた『謎の美少女』を、胡乱な目で見つめた。


「はて。バルドの声帯が突然若い娘のそれに変異する奇病など、ワシは知らんぞ。どこぞの貴族の令嬢か知らんが、ここはむさ苦しい辺境の砦じゃ。迷子なら案内してやるから、とっとと顔を見せい」


「だから、俺がバルドだっての! 信じられないだろうが、朝起きたらこんな姿に……っ」


俺は覚悟を決め、頭からすっぽりと被っていた重い毛皮のフードを後ろに跳ね除けた。

バサッ、という音と共に、隠されていた銀色の長い髪が滝のように流れ落ち、ランプの灯りを反射してキラキラと輝く。

陶器のように白い肌。大きな蒼い瞳。三十八歳のオッサンが作り出すには、あまりにも悲壮感に満ちた、今にも泣き出しそうな美少女の顔。


「なっ……!?」


ガシャンッ!!

ゲラン爺さんの手から乳鉢の棒が滑り落ち、床に転がった。

老人は目を限界まで見開き、あんぐりと口を開けたまま、俺の顔と、ダボダボの騎士服の隙間から覗く華奢な体つきを交互に見た。


「お、お前……本当に、バルドなのか……? いや、しかし……こんな馬鹿なことが……」

「嘘じゃねえ! 右の尻にイノシシに突かれた大きな傷跡があるし、去年の冬、爺さんの秘蔵の『エルフの精力剤』をこっそり飲んで鼻血が止まらなくなったのも俺だ!」


「バ、バカモン! それを大声で言うな!」


慌てて俺の口を塞ごうとするゲラン爺さんだったが、その手が俺の肌に触れる直前で、ピタリと止まった。

そして、片眼鏡の奥の目を鋭く細め、俺の全身を舐め回すように観察し始めた。いや、エロオヤジの目線ではない。純粋な『学者』としての、底知れぬ探究心と警戒心の入り混じった視線だ。


「……幻術の類ではないな。実態がある。骨格も、筋肉量も、完全に十代半ばの雌のものじゃ。匂いも……むっ、なんじゃこの匂いは。清浄すぎる。先ほどまでここに充満しておった薬草の匂いが、お前がフードを取った瞬間にかき消されたぞ」

「匂い? だから言ったろ、朝起きたら自分の体から変な花の匂いがして……。さっきも、あの狂犬バスターが俺の匂いを嗅いで、腹を見せて甘えてきやがったんだ。どうなってんだよ、これ」


その言葉を聞いた瞬間、ゲラン爺さんの顔色が変わった。

彼は慌てて作業机の引き出しを漁り、ゴテゴテとした意匠が施された古い手鏡のような魔道具を取り出した。


「お前、そこから一歩も動くなよ。……『真理の瞳よ、隠されたことわりを暴け』!」


ゲラン爺さんが呪文を唱えると、手鏡の表面が青白く発光し始めた。

彼はその光を俺の全身に照射する。

眩しさに思わず目を細めた、その時だった。


「おおおおおおおおおおおおっ!?」


突如、テントの中が真昼の太陽のように激しく発光した。

俺の体から、目も開けていられないほどの強烈な『黄金色の光』が爆発的に溢れ出したのだ。

それは魔術の光というよりも、もっと神聖で、温かく、底知れない力を持った何かだった。


「ひゃっ!? な、なんだこれ! 俺の体が光って……っ!」


「馬鹿な……あり得ん! なんだこの常軌を逸した魔力量は! いや、これは魔力ではない……『聖気』じゃ! 測定器が、光の強さに耐えきれん!」


パキンッ! という乾いた音と共に、ゲラン爺さんの持っていた手鏡に大きな亀裂が走り、青白い光がプツンと途絶えた。

同時に、俺の体から溢れ出していた黄金色の光も、嘘のようにスッと収まった。


テントの中に、再び薄暗いランプの灯りと、重い沈黙が戻る。


「……爺さん。今の、なに……?」


自分の手を見つめながら震える声で尋ねると、ゲラン爺さんは机に両手をつき、肩で息をしながら、信じられないものを見る目で俺を凝視していた。


「……バルド。お前、何か心当たりはないのか。神の啓示を受けたとか、聖遺物に触れたとか……」

「あるわけねえだろ! 昨日は王都の行商人から買った猪肉の干し肉と羊乳チーズをツマミに、安いエールを樽が空になるまで飲んで、そのまま寝ただけだ! 起きたらこれだよ!」


俺の切実な訴えに、ゲラン爺さんは深く、深〜くため息をついた。

そして、壊れた手鏡を机に放り投げると、頭を抱え込むようにして呻いた。


「……お前さん、自分が今、どんな存在になっているか、理解しておるか?」

「だ、だから、絶世の美少女……」

「ただの美少女ではないわい!」


ゲラン爺さんの怒鳴り声に、ビクッと肩が跳ねる。


「美しい銀髪。周囲の魔や穢れを無意識に払うほどの清浄なる体臭。凶暴な魔獣すら平伏させる絶対的な浄化のオーラ。そして、今の測定器を破壊するほどの、規格外の『聖気』……。これら全てが指し示す答えは一つじゃ」


ゲラン爺さんは、俺を指差し、絶望的な事実を宣告した。


「お前さんは……『聖女』じゃ。それも、建国神話に語られるレベルの、とんでもないバケモノ級のな」


「…………は?」


聖女。

それは、神の加護を受け、奇跡の力で人々を癒し、魔を退ける存在。

王都の教会に数人しか存在せず、皆、厳格な戒律のもと、清らかな祈りの日々を過ごす、文字通りの『聖なる乙女』たち。


「せ、聖女……俺が……? この、酒とツマミを愛する、三十八歳の万年平騎士バルドが……?」


「いかにも。どういう原理で性が転換し、その器に強大な力が宿ったのかは皆目見当がつかん。だが、事実としてお前は今、この国で最も神聖な存在じゃ」


頭の奥で、何かがガラガラと崩れ去る音がした。

聖女? 俺が?

いやいやいや、冗談じゃない!


「ふ、ふざけるな! 俺は酒が好きだ! 塩気の強い肉を齧りながら、下品な冗談を言い合って、ダラダラと生きていくのが好きなんだ! 聖女なんて、朝から晩まで神に祈って、質素な飯食って、酒も飲めねえような生活、耐えられるわけねえだろ!」


「ワシに文句を言われても困る! だがな、バルド……もしこの事実が教会や王都に知れ渡ってみろ。お前は即座に国賓扱いで拉致され、一生、教会の奥深くで『最強の聖女』として祀り上げられることになるぞ」


「拉致!? 一生軟禁!? そんなの絶対に嫌だあああ!!」


恐怖のあまり、俺はゲラン爺さんの胸倉(届かないから服の裾)を掴んで懇願した。


「爺さん! 頼む、隠してくれ! 治す方法が見つかるまで、俺がこんなバケモノ聖女になっちまったこと、絶対に秘密にしてくれ!」

「無茶を言うな! その隠しきれないほどの美貌と、溢れ出るいい匂いをどうするつもりじゃ! すでにそのダボダボの服と毛皮じゃ限界じゃろうが!」


「そこをなんとかするのがアンタの知恵だろ! 頼む! 報酬なら払う! 今月分の辺境手当、全部アンタにやるから!」


必死にすがりつく銀髪の美少女(中身はオッサン)と、頭を抱える偏屈な軍医。

もはや平穏な騎士生活など粉々に砕け散っていた。

どうにかしてこの『規格外の聖女』という正体を隠し通さなければ、俺の愛する酒とツマミのダラダラライフは完全に終わってしまう。


「……ええい、わかった! わかったから泣きつくな、やりづらい! とりあえず、その魔力……いや、聖気の漏出を防ぐ魔道具と、まともな服を見繕ってやる! その代わり、酒保のツケ、三ヶ月分はお前持ちじゃぞ!」


かくして。

俺たち辺境砦のむさ苦しい男たちの間で、一人の美少女の存在を巡る、地獄のような『聖女偽装・隠蔽生活』が幕を開けようとしていた。


果たして俺は、このふざけた体で、バレずに元の平騎士に戻ることができるのだろうか。

いや、絶対に戻ってやる。俺の、愛しのエールと干し肉のために!

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