第2話
「俺の相棒が……消えちまった……」
ひんやりとした石造りの床に両膝をつき、俺は魂が抜けたようにうわ言を繰り返していた。
手鏡の中に映る絶世の美少女は、呆然と口を半開きにして、大粒の涙をポロポロとこぼしている。その泣き顔すらも、王都の絵画から抜け出してきたかのように庇護欲をそそる可憐さだった。
だが、中身は三十八歳のむさ苦しいオッサンである。
状況の異常さに脳の処理が追いつかず、現実逃避のために三度ほど気絶しようと試みたが、残念ながら意識ははっきりと冴え渡っていた。
「……くそっ、泣いてる場合じゃねえ。どうにかしないと……」
両頬をパンッ! と強く叩いて気合を入れる。
──痛い。
長年、風雪に晒されて分厚い革のようになっていたはずの俺の頬は、今や高級な羽二重餅のように柔らかく、薄い。少し叩いただけで、白磁のような肌に痛々しい赤い手形がくっきりと浮かび上がってしまった。
「痛ぇな、おい……なんだこのふざけた体は」
文句を言いながら立ち上がろうとして、足元がふらついた。
重心が全く違うのだ。胸元にある余計な重り(しかも柔らかい)のせいで前のめりになりそうになるし、何より全体的な筋肉量が絶望的に足りていない。
俺は壁に手をつきながら、どうにか立ち上がった。
(落ち着け、バルド。お前は辺境砦を十年生き抜いた騎士だ。まずは現状分析と、情報収集だ)
このまま部屋に引きこもっていても埒が明かない。
砦には、偏屈だが魔術や呪いにやたらと詳しい軍医の爺さんがいる。あいつのところへ行き、このふざけた変身(TSとかいうやつか?)を解く方法を探らなければならない。
そのためには、まず部屋を出る必要がある。
当然、こんな麻の薄い寝巻き一枚で、しかも絶世の美少女の姿でウロウロするわけにはいかない。即座に「新手の魔物」か「誰かが連れ込んだ女」として捕縛されるのがオチだ。
俺は部屋の隅にある木箱を開け、普段着ている平装の騎士服を引っ張り出した。
厚手の綿布で作られた、実用性重視の無骨な服だ。
「よし、これを着て、上からフード付きの外套を羽織れば……」
そう思って袖を通した瞬間、俺は再び絶望の淵に叩き落とされた。
「……ブカブカじゃねえか」
当然である。身長百八十センチ、体重八十キロオーバーのオッサンの服を、身長百五十センチ台、体重なんて羽のように軽そうな少女が着ているのだ。
肩幅は全く合わず、袖は指先まで完全に隠れてダルダルの状態。ズボンに至っては、ウエストの紐を限界まで縛っても、歩くたびにズルズルと落ちてきてしまう。
「ええい、これならどうだ!」
俺は平装を諦め、壁に立てかけてあった自分の『鎧』に目を向けた。
鋼の胸当てに、鎖帷子。これなら体をすっぽりと覆い隠せるし、兜を被れば顔も見えない。
俺は鎖帷子を持ち上げようと、両手でしっかりと掴み、腰を入れて引き上げた。
「ふんっ……! ぬぅぅぅぅぅぅぅっ!?」
上がらない。
ピクリとも動かない。
「嘘だろ!? これ、俺が毎日着て走り込みしてたやつだぞ!?」
信じられないことに、かつての自分が軽々と着こなしていた鎖帷子が、今の俺にとっては岩のように重かった。
華奢な少女の腕は、プルプルと情けなく震えるだけで、鉄の輪が擦れ合うチャリッという音を立てるのが精一杯だった。
「……はぁ、はぁ……嘘だ、じゃあ、剣は……?」
腰のベルトに吊るしてある、長年愛用してきたバスタードソード。
両手でも片手でも扱える、使い勝手の良い鋼の剣だ。
俺は剣の柄を握り、鞘から引き抜こうとした。
ズシンッ!!
「ひゃうっ!?」
抜けた瞬間、剣の圧倒的な重量に負けて、俺は前のめりにすっ転んだ。
剣に振り回されるような形で床に激突し、華奢な肩を思い切り打ち付けてしまう。
「い、ってぇぇぇ……! なんだこれ、鉄の塊じゃねえか! こんなもん、どうやって振ってたんだよ昨日の俺は!?」
涙目で肩をさすりながら、俺は完全に理解した。
今の俺の戦闘力は、その辺の村娘以下だ。ゴブリン一匹にすら勝てる気がしない。万年平騎士とはいえ、一応は前線で戦ってきたというささやかなプライドが、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
「……最悪だ。鎧も着れねえ、剣も持てねえ。これじゃあ、完全な不審者のお荷物だ……」
途方に暮れて床に座り込む。
だが、嘆いていても時間は過ぎるばかりだ。もうすぐ朝の鍛錬の時間が始まり、砦の中が兵士たちで慌ただしくなる。その前に移動しなければ。
俺は部屋の中を見渡し、使えそうなものをかき集めた。
まず、ブカブカのズボンは、持っていた革のベルトで無理やり胸の下あたりまで引き上げてキツく縛った。不格好極まりないが、ずり落ちるよりはマシだ。
そして、冬の吹雪の任務で使う、分厚くて重い『毛皮の外套』を頭からすっぽりと被る。
「……おもっ。毛皮ってこんなに重かったか?」
肩にズシリとくる重みに耐えながら、フードを目深に被る。
さらに、顔を隠すために防寒用の布で口元から鼻までをぐるぐる巻きにした。
鏡で確認すると、そこには「不釣り合いなほどダボダボの服を着て、薄汚れた毛皮に包まった謎の小柄な不審者」の姿があった。
美しい銀髪はなんとかフードの中に押し込めたし、あの異常にいい匂い(なんで自分の体から花の匂いがするんだ!)も、毛皮に染み付いた獣と汗の臭いでごまかせるだろう。
「よし……完璧だ。これなら、すれ違っても誰だかわからねえ」
俺はそっと部屋の扉の閂を外し、隙間から外の廊下を覗き込んだ。
薄暗い石造りの廊下に、人影はない。松明の火がチロチロと揺れているだけだ。
「行くぞ……軍医の爺さんのテントまで、全力で隠密行動だ」
ゴクリ、と細い喉を鳴らし、俺は部屋を後にした。
廊下の冷たい石の感触が、革靴の中でブカブカに泳いでいる足を通して伝わってくる。
いつもなら大股でのっしのっしと歩くところだが、今の体では歩幅が合わず、どうしても小股でペタペタと歩くような形になってしまう。
「……歩きにくい。なんだこの重心の不安定さは……っ」
壁伝いに、できるだけ音を立てないように進む。
砦の構造は隅から隅まで知り尽くしている。見回りのルートも、兵士たちが集まる食堂の位置も。
(角を曲がって、中庭を突っ切れば、医療テントはすぐそこだ……!)
順調だった。
中庭に通じる重い木製の扉を、渾身の力を込めて(それでも少ししか開かなかったが)押し開け、外の冷たい空気を吸い込んだその時。
「グルルルルルルル……」
低い、地鳴りのような唸り声が足元から聞こえた。
ビクッとして視線を落とすと、そこには砦で飼われている軍用犬――いや、魔物との混血である巨大な黒犬、『バスター』が立ち塞がっていた。
熊のように巨大で、見知らぬ者には容赦なく牙を剥く凶暴な犬だ。俺も何度かエサをやろうとして、指を食いちぎられそうになったことがある。
(ひっ……! バ、バスター!? なんでこんなところに!)
バスターは、完全に不審者を見る目で俺を睨みつけている。
その鋭い牙には、べっとりと唾液が光っていた。
「ま、待てバスター。俺だ、バルドだぞ。いつもお前を避けて通ってたバルドだ……」
必死に低く威厳のある声で語りかけるが、布越しに漏れるのは、震えるような小動物の鳴き声にしか聞こえない。
バスターが、ゆっくりと巨体を近づけてくる。
俺は恐怖で足がすくみ、一歩も動けなかった。今の俺の非力な体では、押し倒された瞬間に喉笛を噛み切られて終わりだ。
(終わった……俺の三十八年の人生、最後は自陣の犬に食い殺されるのか……っ!)
ギュッと目を閉じ、痛みを覚悟した。
しかし。
「……フンス、フンスフンス」
「……え?」
鼻を鳴らす音がして、恐る恐る目を開けると。
さっきまで凶暴に唸っていたバスターが、俺の足元の毛皮の匂いをクンクンと嗅ぎ、その直後、なぜか尻尾を千切れんばかりにブンブンと振り始めたのだ。
「クゥ〜ン、キュン!」
そして、俺の足元にゴロンと寝転がり、あの巨大な図体で甘えるように腹を見せてきたのである。
今まで、小隊長にすらこんなデレた態度を見せたことがない、あの狂犬バスターが、だ。
「は……?」
ぽかんとする俺をよそに、バスターは立ち上がると、今度は俺の顔を覆っている布の隙間から、ペロリと頬を舐めてきた。
「ひゃあっ!? な、なんだお前、急に……!」
生暖かい舌の感触に、思わず可愛らしい悲鳴が漏れてしまう。
バスターはさらにテンションが上がったのか、俺にすり寄ってきて、クゥンクゥンと甘えた声を出している。
(まさか……動物ってのは、俺の体から出てるこの『匂い』に反応してるのか……?)
魔物の混血であるバスターすら手懐けてしまう謎のフェロモン。
この体の異常さが、また一つ増えてしまった。
だが、好都合だ。吠えられずに済んだのだから。
「よ、よしよし、いい子だバスター。お前、案外可愛いところあるじゃねえか」
俺は震える手でバスターの頭を撫でてやり、彼が気持ちよさそうに目を細めている隙に、そそくさと中庭を横切り、軍医のテントへと急いだ。




