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第1話

ガンガン、と。

まるでドワーフの鍛冶屋が頭蓋骨の中で鉄を打っているかのような、暴力的な痛みが脳内を支配していた。


「……う、ぐぅ……」


呻き声を上げようとしたが、喉は干上がった砂漠のようにカラカラに渇いており、ひび割れた唇からはかすれた音しか漏れ出ない。

胃袋の奥底からは、昨晩大量に流し込んだ安いエールと、胃液が混ざり合った不快な酸っぱさがこみ上げてくる。今すぐにでも横を向いて胃の内容物をぶち撒けたい衝動に駆られたが、あいにくとそれを実行するだけの体力すら、今の俺には残されていなかった。


(……飲みすぎた、な。こりゃあ……)


閉じたまぶたの裏で、昨晩の記憶が断片的に蘇る。

ここは王国の最北端、魔の森に隣接する辺境の防衛砦。吹き荒れる吹雪と、いつ現れるともしれない魔物の脅威に晒され続ける、文字通りの最前線だ。

俺の名前はバルド。年齢は三十八。剣の腕はそこそこだが、出世欲もなければ特別な才能もない、しがない万年平騎士である。

給料は安いが、辺境手当がつくため、毎晩酒を飲む程度の余裕はある。俺のささやかな楽しみといえば、非番の夜に酒保しゅほに入り浸り、同僚のむさ苦しいオッサンどもと管を巻きながら、エールを煽ることだけだった。


昨日は、珍しく王都から行商人がやってきて、美味い干し肉とチーズを仕入れることができたのだ。

塩気がガツンと効いていて、噛めば噛むほど肉の旨味が染み出してくる猪肉の干し肉。それから、少しクセはあるが濃厚な羊乳のチーズ。

そんな最高のツマミを前にして、酒が進まないわけがない。


『バルド! お前、またそんなに飲んで! 明日は朝から見回り番だろうが!』

『うるせぇな、小隊長。こちとら万年平の独り身なんだよ。酒とツマミくらいしか楽しみがねぇんだ。ほれ、アンタも一杯どうだ?』


呆れ顔の小隊長に安酒が入った木杯を無理やり押し付け、そのまま樽が空になるまで飲み明かしたところまでは覚えている。

その後、どうやって自室のベッドまでたどり着いたのかは定かではない。おそらく、見かねた後輩の誰かが運んでくれたのだろう。あとで礼として干し肉の切れ端でも恵んでやらなければ。


「……あー……水……」


とにかく水分が欲しかった。

ベッドの脇にあるサイドテーブルには、いつも素焼きの水差しと木組みのコップを置いているはずだ。

俺は鉛のように重い右腕を動かし、毛布の中から這い出させようとした。


(……ん?)


違和感があった。

腕が、やけに軽いのだ。

長年、重い鉄剣と盾を振り回してきた俺の腕は、丸太のように太く、無骨な筋肉の鎧で覆われている。血管が浮き出て、あちこちに魔物から受けた生傷や火傷の痕が残る、汚いオッサンの腕だ。

それがどうだ。今、毛布を押し上げようとしている腕は、まるで力が入らない。いや、軽いのではない。絶対的な筋量が足りていないのだ。


「……おいおい、いくら二日酔いだからって、力まで抜けちまったのか……?」


自分を鼓舞するように呟いたその声に、俺はさらに驚愕した。


「……は?」


鼓膜を揺らしたのは、聞き慣れた低くしゃがれたオッサンの声ではなかった。

鈴を転がすような、という表現がこれ以上なく似合う、高く、細く、それでいてどこか甘さを帯びた、透き通るような声。

まるで、王都の劇場で歌う歌姫か、あるいは貴族の箱入り娘のような、清廉な少女の声音だったのだ。


「……あ、あー。う、あー?」


パニックになりかけた頭を落ち着かせようと、何度か発声練習を試みる。

しかし、喉から発せられるのは、間違いなく可憐な少女のそれだった。

声変わりを終える前の少年の声でもない。明確な『女性』の、それもかなり若い部類に入る人間の声だ。


「な、なんだこれ……風邪か? 喉が腫れて声が高くなってんのか……?」


現実逃避気味にそんな結論をひねり出すが、どう考えても無理がある。喉の渇きはあるが、痛みはない。

俺はたまらず、水差しを取ることも忘れて、上半身をガバッと起こした。

その瞬間、頭痛が激しく脈打ち、視界がぐらりと揺れる。


「っ、いててて……!」


こめかみを押さえようと両手を頭にやった時、俺は決定的な『異変』に気づいてしまった。


さらり。


指の間に、何か滑らかなものが入り込んできた。

それは、まるで上質な絹糸のような手触りの、細く柔らかな髪の毛だった。

俺の髪は、兜を被るのに邪魔にならないよう、常に短く刈り込んでいる。いわゆる坊主頭に近い短髪だ。

だが、今俺の指に絡みついているのは、どう見ても肩口よりも長く伸びた髪の毛だった。

しかも、指に伝わる感触が良すぎる。辺境の粗悪な石鹸でガシガシと洗っているオッサンの剛毛とは、根本的に物質としての格が違う。

そして、鼻腔をくすぐる微かな香り。汗と泥と酒の入り混じったオッサンの体臭ではなく、花畑の真ん中に立っているかのような、甘く爽やかな香りが、自分自身から漂ってきているのだ。


「嘘、だろ……?」


震える手で、自分の顔を触る。

髭の剃り残しでジョリジョリとしていたはずの顎は、つるんとしていて雪のように滑らかだ。

頬を触れば、赤ん坊のようにもちもちとした弾力がある。

鼻筋は細く通り、目はやけに大きく、まつ毛がバサバサと長いのが手触りでわかる。


「ひぃっ!?」


情けない悲鳴を上げてしまったのは、手のひらが『胸元』に触れた時だった。

厚い胸板と大胸筋があったはずの場所。そこには、俺の知る筋肉の硬さは微塵もなく、代わりに、手のひらにすっぽりと収まるサイズの、柔らかく、確かな質量を持った『膨らみ』が二つ、存在していたのだ。


「ま、待て待て待て待て!! なんだこれ、胸!? なんで俺に胸があんだよ!!」


パニックは最高潮に達する。

心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、二日酔いの吐き気などどこかへ吹き飛んでしまった。

まさか、新種の魔物の呪いか? いや、昨日は砦から一歩も出ていない。

それなら、行商人が持ってきたエールに、変な薬でも盛られていたのか? 幻覚剤の類か?


そうだ、これは幻覚だ。夢だ。

都合の悪いことは寝て忘れるに限る。もう一度目を閉じて、次に開けた時には、むさ苦しいオッサンの体に戻っているはずだ。


そう自分に言い聞かせ、ぎゅっと目を閉じようとした俺の手が、無意識のうちに下腹部へと伸びた。

男としての本能、あるいは最後の希望の確認。

俺の、三十八年間連れ添ってきた、俺の相棒。

辺境勤務のせいで長らく実戦投入の機会はなかったが、それでも毎朝元気な姿を見せてくれていた、俺の分身。


「……あ、れ?」


股間をまさぐる俺の手が、空を切る。

何もない。

布越しに伝わってくるのは、平坦な感触だけ。

あるべきものが、ない。

代わりに、何か決定的に異なる構造の、全く知らない『渓谷』のようなものがそこにはあった。


「あああああああああああああああっ!?!?」


悲鳴というよりは、もはや魂の絶叫だった。

俺は弾かれたようにベッドから転げ落ちた。

足元がひどくおぼつかない。視界が低い。今まで見慣れていたはずの自室の天井が、やけに高く感じる。

這いずるようにして、部屋の片隅に置かれた洗面台へと向かった。

そこには、ヒゲを剃るための小さな鏡が立てかけられている。

埃を被ったその鏡を引っ掴み、俺は恐る恐る覗き込んだ。


「……っ!」


息を呑んだ。

そこには、見知らぬ美少女がいた。


透き通るような銀色の長髪が、寝起きのせいで少し乱れながらも、月の光のように輝いている。

陶器のように真っ白で滑らかな肌。

少し吊り気味の、大きな蒼い瞳が、恐怖と驚愕で見開かれている。

小さく可愛らしい鼻と、桜色の艶やかな唇。

年齢は、どう見ても十五、六歳といったところか。


俺が右手を上げれば、鏡の中の美少女も右手を上げる。

俺が頬をつねれば、鏡の中の美少女も痛そうに顔をしかめる。


間違いない。

こいつは、俺だ。

俺は、三十八歳の万年平騎士バルドは……一晩にして、絶世の美少女に『変身』してしまったのだ。


「俺の……俺の相棒が……消えちまったあああああああああああああああ!!!!」


辺境の砦の小さな個室に、少女の姿をしたオッサンの、この世の終わりを告げるような悲痛な叫び声が、虚しく響き渡った。


二日酔いの朝。

俺の平穏なオッサンライフは、こうして唐突に、そして理不尽に終わりを告げたのだった。

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