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第10話

「……広い風呂に入りたい。足を、思いっきり伸ばして、肩までお湯に浸かりたい……っ」


夜更けの医療テント。

俺は簡易ベッドの上で、怨念めいたうめき声を漏らしていた。

連日続く、ゴルド小隊長やルッツたち『砦の男たち』からの暑苦しいアピール。そして何より、片時も俺のそばを離れようとしない特務執行官ユリウスの過剰な世話焼き。

「聖女様、お背中をお流ししましょうか?」と真顔で迫られた時は、本気で舌を噛んで気絶しようかと思ったほどだ。


精神的な疲労は限界を突破している。

狭いタライでチョロチョロとお湯を浴びるだけの清拭では、このオッサン特有の心のコリは絶対にほぐせない。


「頼む、爺さん! どこかに広い風呂はないのか!? 魔の森の奥の秘湯でもいい、オークと混浴でもいいから、俺を広い風呂に入れてくれ!」

俺は土下座の勢いでゲラン爺さんにすがりついた。


「オークと混浴などしたら、お前さんの貞操が文字通り物理的に終わるわアホウ! ……しかし、そうじゃな。お前さんの精神状態が限界なのはワシにもわかる」


ゲラン爺さんは腕を組み、渋い顔で唸った。

「実はな、広い風呂……それも、男の目など一切気にせず、心置きなく手足を伸ばせる安全で巨大な風呂の心当たりが、一つだけある」


「ほ、本当か!? どこだそれ!」

「王都にある、『王立聖女学院』じゃ」


王立聖女学院。

我が国において、聖なる力を持つと見出された少女たちが集められ、教会の厳格な管理のもとで教養と祈りを学ぶ、全寮制の最高学府。

もちろん、男子禁制の秘密の花園である。


「お前さんの今の姿なら、学園の生徒に混じっても全く違和感はない。あそこの地下には、生徒たちが心身の穢れを落とすための、それは見事な大理石の『大浴場』があるんじゃ」

「大理石の大浴場……!」

俺の脳内に、湯気が立ち込める広々とした湯船のビジョンが広がった。


「で、でも爺さん。王都なんて、ここから馬車で一週間はかかるぞ。そんな暇……」

「フッ、ワシを誰じゃと思っておる」


ゲラン爺さんはニヤリと笑うと、戸棚の奥から一枚の埃を被った『古びた姿見』を引っ張り出してきた。

「これは、空間を繋ぐ『転移の鏡』じゃ。ワシが昔、王都の魔術院にいた頃にくすね……ゲフン、研究用に借りてきたものでな。この鏡は、王立聖女学院の旧校舎にある物置部屋の鏡と繋がっておる」


「マジかよ! 爺さん、アンタ最高だ!」

「よいか、今なら夜中じゃから誰も大浴場にはおらんはずじゃ。一時間じゃぞ。一時間以内に烏の行水で戻ってこい。もし見つかれば、不法侵入で教会に突き出されるのはもちろん、お前が『イレギュラーな規格外聖女』であるとバレて、二度とこの砦には帰ってこれんからな!」


「わかってる! ささっと入って、パパッと戻ってくる!」


俺はローブの裾を握りしめ、転移の鏡の前に立った。

鏡面が水面のように波打ち、青白い光を放つ。

深呼吸を一つして、俺はその光の中へと飛び込んだ。


――視界が反転し、次に足が地についた時、そこはカビ臭い埃まみれの物置部屋だった。


「ゲホッ、ゲホッ……よし、本当に着いたみたいだな」


扉をそっと開けて廊下に出る。

辺境の無骨な石造りの砦とは違い、絨毯が敷かれ、壁には美しい彫刻が施された学園の廊下は、まさに貴族の館のようだ。

夜の静寂に包まれた廊下を、俺は抜き足差し足で進んだ。

中身は三十八歳のオッサン。見た目は十五、六歳の銀髪美少女。

そんな俺が、女子校の深夜の廊下を徘徊している。客観的に見れば完全な変質者だが、背に腹は代えられない。風呂のためだ。


「……おっ、あった。あそこだ」


廊下の突き当たりに、『大浴場』と美しい文字で彫られた大きな両開きの扉を見つけた。

そっと押し開けると、もわぁっ……と、花の香りが混じった温かい湯気が顔を撫でた。


「おおおお……っ!!」


俺は声を押し殺して感動に打ち震えた。

広い。とにかく広い。砦の食堂くらいある広大な空間の中央に、白い大理石で縁取られた巨大な湯船が広がっている。

お湯は青白く透き通り、ライオンの口を象った湯口から、こんこんと熱い湯が注がれていた。


「最高だ……! 爺さん、ありがとう!」


俺は脱衣所で借り物のローブと下着を光の速さで脱ぎ捨てた。

自分の真っ白で女性的な体に一瞬ギョッとしたが、今はそれどころではない。風呂だ、風呂が俺を呼んでいる!


掛け湯もそこそこに、俺はチャプン……と、湯船に足を踏み入れた。


「あぁぁぁぁ…………〜〜〜〜っ」


オッサン特有の、腹の底から絞り出すような吐息が漏れた。

熱すぎず、ぬるすぎない、完璧な温度。

広い湯船の底に腰を下ろし、両足を思い切り前へと伸ばす。

肩までしっかりとお湯に浸かり、頭を大理石の縁に乗せて、天井を仰いだ。


「極楽だ……生きててよかった……」


ここ数日の、ユリウスの狂信的な視線や、ルッツたちの暑苦しい愛情、そしてバレてはいけないという極度の緊張感が、お湯に溶け出して消えていくのを感じる。

聖女学院の大浴場のお湯は、ほんのりと魔力が込められているらしく、肌に触れるだけで心地よいマッサージを受けているような感覚があった。


「あー……これはいい。ずっと入っていられる……」


俺は完全に警戒心を解き、目を閉じて脱力した。

しかし、俺は一つの重大な事実を失念していたのだ。


『俺の体が、触れたものを強制的に浄化・聖化してしまう規格外のバケモノである』という事実を。


俺が極楽気分でお湯に浸かっている間に、湯船の中で静かに『化学反応』が起きていた。

俺の体から無意識に漏れ出た『聖気』が、大浴場に満ちていた魔力入りの湯と共鳴し始めたのだ。


ピキィィィィン……!


「……ん? なんの音だ?」


閉じていた目を開けた俺は、自分の周囲を見て息を呑んだ。


「は!? な、なんだこれ!?」


さっきまで青白く透き通っていたお湯が、まるで溶けた黄金のように、まばゆい光を放ち始めていたのだ。

ただ光っているだけではない。湯面からは、見たこともないような純白の蓮の花が次々と咲き乱れ、お湯自体が『超高濃度の聖水(入ればどんな病も一瞬で治るレベル)』へと変異してしまっていた。


「や、やばい! また暴走した!? なんでただお湯に浸かってただけなのに!」


慌てて立ち上がろうとした、まさにその時だった。


『ガチャリ』


大浴場の扉が開く音がした。


「……っ!?」

俺は心臓が口から飛び出しそうになり、咄嗟に黄金に光るお湯の中に肩まで沈んで身を隠した。


「……こんな夜中に、誰かいるのですか?」


静かな、しかし凛とした声が響いた。

コツン、コツンと、木のサンダルがタイルを叩く音が近づいてくる。

湯気の向こうから現れたのは、俺と同じくらいか、少し年上に見える少女だった。


艶やかな黒髪を背中で切り揃え、鋭く知的な紫色の瞳を持った、息を呑むような美少女。

彼女はバスタオルを一枚胸に巻いただけの姿で、片手に『魔術の灯り』が灯った杖を持っていた。

その堂々とした立ち振る舞いと、首元に光る『首席』を示す金のペンダント。


(や、やばい……絶対に見つかっちゃマズいタイプの優等生だ……っ!)


俺はお湯の中で息を殺し、蓮の花の陰に隠れた。

しかし、俺の足掻きは無駄だった。

なんせ、湯船全体が俺を中心に黄金に光り輝いているのだ。目立たないわけがない。


「なっ……大浴場のお湯が、黄金に……!? これは、神聖魔法の極致、『奇跡の霊泉』……!?」


優等生の少女が、信じられないものを見るように目を限界まで見開いた。

そして、その視線が、お湯の中心でブルブルと震えている俺(銀髪の侵入者)を完全に捉えた。


「……あなた。見ない顔ですね」


スッ、と。

少女が杖の先端を、俺の方へと真っ直ぐに向けた。

杖の先に、攻撃用の魔力がチリチリと集束していくのがわかる。


「学園の生徒ではないわね。何者ですか。こんな夜中に忍び込み、大浴場にこれほどの奇跡の魔法を展開するなんて……教会の特級神官? いえ、それにしては若すぎる。答えなさい、不審者!」


「ち、違いましゅ……! 私はただ、広いお風呂に入りたかっただけで……!」


恐怖のあまり、オッサンの低い声を出そうとして完全に噛んでしまった。

「違いましゅ」ってなんだ。バカか俺は。


「戯言を。素直に答えないのなら、拘束して異端審問局に突き出しますよ!」

少女が一歩、湯船に近づいてくる。


(異端審問局!? ダメだ、ユリウスのところの部署じゃねえか! ここで捕まったら、絶対にアイツの耳に入って、今度こそ一生神殿に監禁される!!)


「ま、待って! 誤解だ! 俺は、じゃなくて、私はただの迷子で!」


俺は慌ててお湯から立ち上がろうとした。

しかし、大理石の床は滑る。そして、俺の今の体は致命的に運動神経が悪かった。


「あ、ひゃうっ!?」


ツルッ!

見事に足を滑らせた俺は、湯船の中で派手に転倒。

その拍子に、周囲に浮かんでいた純白の蓮の花が水しぶきと共に舞い上がり、俺の濡れた銀髪と、露わになった真っ白な裸体(胸元はなんとか両腕で隠した)が、優等生の少女の目の前に完全に晒されてしまった。


「あ……」

俺は情けない声を漏らし、涙目で少女を見上げた。


その瞬間。

杖を構えていた少女の動きが、ピタリと止まった。


黄金に輝くお湯の中で、水滴を滴らせながら座り込む、絶世の銀髪美少女。

周囲には純白の蓮の花が舞い、その体からは圧倒的で清らかな『聖気』が立ち昇っている。

誰がどう見ても、それは『天界から水浴びに降りてきた女神』の図にしか見えなかった。


「あ……あぁ……」


優等生の少女の杖が、カラン……と音を立てて大理石の床に落ちた。

彼女の紫色の瞳が、驚愕と、そして何かに『魅入られた』ような熱を帯びて揺れている。


「美しい……。これほどの清らかな聖気……あなたが、神話に語られる『真なる聖女』……?」


「え?」

「申し訳ありません、無礼な真似を……! どうか、どうかこの愚かなアリアを、あなたの足元にひざまずかせてくださいませ……!」


バシャァッ!!

あろうことか、優等生の少女アリアはバスタオル一枚の姿のまま湯船に飛び込み、俺の目の前で水飛沫を上げながら平伏したのだ。


「えええええええええっ!?」


王立聖女学院の大浴場。

裸の美少女(中身オッサン)の前に、別の裸の美少女(学園首席)がひれ伏しているという、男から見れば天国、俺から見れば完全に意味不明な地獄の光景が展開されていた。


どうしてこうなるんだ。

俺はただ、ゆっくり風呂に入りたかっただけなのに!


学園の首席にまで崇められ始めてしまった俺の、絶対にバレてはいけない聖女(不法侵入)ライフは、いよいよ引き返せない領域へと突入しようとしていたのだった。

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