握手
今話タイトルは「握手」です。
「まさか、音子ちゃんがあんなに食べるとはね」
「あれは絶対に遙がたきつけたからよ。昼間だって……音子ちゃんって意外に情熱家だったわね。そうだ、あとで握手してもらわなくっちゃ」
「サインはいいの?」
「納葵音子の反対語はサインって言われているほど、音子ちゃんはサインをしないのよ。ファンなら基本のきの字だわ」
「祈裡さんにならいいわよ。特別っ!」
洗い物がほとんど終わったとき、後ろから音子がやってきた。
「え、いいの? たしか、サインするの嫌っていたんじゃなかった?」
「ええ、そうね。『納葵音子の反対語はサインである』なんていわれているのは知っているわ。でもね、ただ最初に受け取って欲しい人がいたってだけなの。小さい頃から決めていたのよ。最初のサインは加古お姉ちゃんにって」
嬉しい話ではあるが、少し不可解である。
「祈裡さんは覚えているかしら? 初めて病院で会ったときのことを」
「ええ、覚えているわ。『納葵』なんて苗字、初めて聞いたもの。その週末に、テレビであなたの名前を見たときは、とても驚いたわ」
「やっぱり。覚えていないみたい。私、あのときこう言ったのよ。『字が上手になったらサイン貰ってね』って。それから、ちゃんと字が上手くなった。だから、サイン貰ってください」
幼い日の約束をずっと覚えていて、守り続けていた音子であった。
「あぁ、そんなこともあったわね……。すっかり忘れてた……。ごめん、音子ちゃん」
確かにそんなことを言われた気がして、忘れていたことを謝った。
「いえ、謝らなくても。それで、貰ってくれますか?」
「うん。ぜひ貰うわ」
音子は嬉しそうな表情で“加古おねえちゃん改め祈裡さんへ”と宛てて、サインと今日の日付けを書いた。祈裡は少し緊張しながら、その流れるような運筆を目で追い、書き終わるのを待った。
「どうぞ」
「ありがとう。なんだか照れちゃうね」
「私も緊張しました」
「見ているこっちもドキドキしたわ」
三人が三様の面持ちでキッチンから出てきたときには、既にリビングにいたのは遙と呉葉だけだった。
「ハル、子供達は?」
「みんな荷解きをして、夕日くんの部屋にいるよ」
「あら、呉葉ちゃんはいいの?」
「私は、永井さんにお料理を教えていただけないかと」
「私もお願いしようかしら?」
「やめておいたほうが賢明よ」
「そうそう。この人はすぐに足をすくうんだから」
呉葉に便乗しようと思った音子であったが、祈裡と一樹に止められる。
「人聞きの悪いことをいわないでおくれよ」
そのあと、何となく有耶無耶にされて、呉葉は夕日の部屋(呉葉の部屋でもある)に戻された。
三歳当時の約束なんて覚えている音子でした。すごい記憶力ですね。ぼくなんて、きのうの昼食も覚えてないです……。
次回、最終話「音子」です。この物語の主人公は音子ですから。
人によっては、これは中途半端に思うかもしれない終わり方します。
ついでに告知。最終話と同日投稿で簡易な設定集的なものを四つ投稿する予定です。




