18. パートナーシップで
一泊しながら森を抜け、街を歩く。
見覚えのある貧民街が少し変わっていた。旧女王の圧政下で人々の顔に刻み込まれていた疲労と困窮はやわらぎ、アダマスの軍服を着た男たちが通りかかれば物を売ろうと駆け寄るほどに元気だ。
軍人たちは明るく「あとでな!」と物売りをかわしつつ、箱のように粗末な家々のあいだを抜けて草地に出る。地面に開いた大きな穴には、においからすると糞便がたまっているようだ。軍人たちは肩に担いでいた袋の中身をそこへブチまけている。白い粉だ。
「消毒だってさ。ラウーの奥さんの知恵らしいよ。ラウーが軍医として徹底させて、ボル・ヤバルではやってた熱病を激減させたらしい」
「すごい。義姉はまるで未来から来た人みたい。手伝うのが楽しみ」
猫たちも満腹そうに体を揺らしながら路地を練り歩いている。魚のかけらをめぐって争いを繰り広げていた、ガリガリに痩せた猫たちの面影はない。
キノコが密生したような形をした宮殿には、かつて奏の皇族たちが住んでいた。いま、その尖塔の先や窓にはアダマスの国旗がひるがえっている。背後に広がる青い空が明日も、明後日もずっと続くように思えた。
ラウー・スマラグダスも、デカ猫を望んでいるというトーカさんも分からなくなってきた。巨大化生物を大量に殺傷する極悪人とそれをあおる妻にも聞こえるし、この繁栄に貢献する賢人のようにも聞こえる。
港へ出た。岸壁の向こうに船のマストがずらりと立ち並んでいる。海に面した道には魚の加工場と倉庫が連なり、腕の太い男たちが威勢のいいかけ声を交わしながら、荷や魚を詰めた木箱を運んでいる。おこぼれにあずかろうとするカモメ、猫、犬がうろちょろしていた。
待つまでもなく一人の女性が近付いてきた。柔らかそうな薄い布を全身に巻き、同色のベールを目深に垂らして素肌を隠している。手にするつややかな広い葉で出来たうちわに覚えがあった。象隊商隊長が持っていたものと同じだ。それをひらひら操って招いている。
近付くほどに離れるようなベールの女性に先導されて倉庫街を進む。港が終わる突き当りの崖が見えてきた頃、ふとベールがたなびいて女性が消えた。駆け寄ると、扉の前にうちわが落ちていた。ここだと教えるように。
石を積み上げた灰色の壁を見上げる。倉庫の所有者を示す印は何もない。金属の鋲が打たれた、頑丈そうな木製扉の下へ鼻を突っ込んでみた。
猫の匂いがします!
まさかデカ猫ですか。白象に遊ばれて・・・・・・遊んでやっていて記憶が定かでないが、象隊商と取引できてしまったようだ。
「見てくる。ルキア、ミハイ押さえといて」
とフェリクスが用心深く扉の中へ。慌ててにゃんにゃん鳴き、扉の向こうにいるはずのデカ猫へ、猫族の危機であること、一族を挙げてバックアップすることなどを伝えた。
「うわでかい。子猫だけど、でかっ!」
フェリクスの驚愕に混じって、みゃうみゃうと返事が聞こえた。
『えー、ヒトこわくないよ! ゾウもトラもともだちだよ! わー、たのしそうなヒトきた。にゃふー!』
「ぶべっ!」
ぼーんという肉弾な衝撃音のあとに、カロンカロン、と聞きなれた軽快な音が石壁に反響した。
あまり当たって欲しくはない推測ですが。
まだ力加減を知らない巨大子猫の猫パンチを浴びたフェリクスの口から氷砂糖が飛んだのだろう。奥歯も飛んだかもしれない。目のいいフェリクスに当てるとは何というスピード。
猫族の将来が激しく思いやられます。
「フェリクス、状況は?」
「クソ猫をしつけてやるところだー!」
『わぁい、あそんであげるー!』
フェリクスはぐったりして椅子に埋もれている。
デカ猫は象隊商に育てられ、爪を出したり噛んだりしないようにしつけられたらしかったが、力加減までは学べていなかったようだ。しつけと称してもてあそばれたフェリクスはその後、アダマス本土に飛んだ巨大ワタリガラスの背でほとんど動かなかった。
普通は兄弟など、一番近い猫とケンカしながら加減を学んでいくのだが。今後いったい誰がデカ子猫に猫のマナーやしきたりを教えるんでしょうね? 教える猫の命が心配です。
二人と一匹が訪ねたのはアダマス本土にある城砦、アダマス軍の中枢にある一角だ。石造りの堅牢な部屋は扉、机、椅子までもが石製だ。部屋の主らしき物腰の柔らかい青年は猫の来訪にも不審な顔ひとつせず、水を満たした石の皿を出してくれた。
さっきから蔓延している危険な予感は何なのでしょう。親切な青年は無毒に思えるが。
「初めまして、ミス・スマラグダス」
タレ目はタレ目でもエン嬢とは少し違い、思慮深さを感じさせる賢そうな青年だ。ルキア嬢の異色の瞳を見ては恐怖におののく軍人ばかりだったが、この青年は少しも動揺しなかった。
「夫人の護衛の件、承っております。スマラグダス大佐を呼んで参りますので、少々お待ちを」
カターン。
思わず石の皿を踏んでしまった。
こ、ここは基地周辺の猫たちが出現を警報で知らせるあのラウー・スマラグダスの部屋でしたか。世界で最も巨大化生物を殺傷している、あの。猫の集会を恐慌に陥れた、あの。動物を死ぬまで戦わせることのできるガッテンのボスである、あの。猫族存亡の鍵を握る、あの。
冷静を装おうとしてもカクカクする足をどうにか右、左、と押し進めて机の下へ潜り込んだ。心の平安には狭くて暗い場所が一番なのです。
奥にあるドアを開け、タレ目青年は中へ話しかけている。遮るようなタイミングでフェリクスが声をあげた。
「いるのかラウー! おまえ俺に黙って結婚するなんてひどいだろ! 慰謝料としておまえと同じ目をした妹は俺にくれー!」
「妹本人の了解を取る方が迅速確実じゃない? そして、やだ」
「うっわ、兄が兄だけに妹もひどいな! でも、くれ」
「ラウーは妻本人にさえ黙って、了解取らずに結婚届を出したよね・・・・・・」
おや。最後の呟きの声は初耳です。
「三度目になるが不服ならば、説明を遮り、書類の内容を確認せずにサインした自分を告訴するんだな」
ぶぶぶ、と体中が総毛立った。ルキア嬢が放出していた冷気より十倍濃く、強く、寒い。寒い。寒いです。
「あれ? え? 妹って」
奥の部屋から小走りで顔を出した女性。小柄で長い黒髪は奏民族を思わせるが、どこかが決定的に違う。異質感がすごいが不快ではない。むくむくと湧いた好奇心で毛皮が落ち着いた。ふんふん嗅ぎながらお嬢さんの足元を回った。
が、探索途中でグイーと抱えあげられてしまう。フェリクスの呆れ顔が近い。
「人妻のスカートの中見上げて鼻息荒げてんじゃねーよ」
トーカさんですか! 噂と違って気安そうだ。
お初にお目にかかります、デカ猫が少々手荒な失礼を働くかもしれませんが、どうぞ猫族をよろしくお願いしま・・・・・・あっ、喉ナデナデは右側も。なかなかお上手ですね、お腹もやらせてあげていいですよ。
人間同士も紹介を交わしている。トーカさんは感激の面持ちでルキア嬢を見つめたあと、隣に立つラウー・スマラグダスらしき青年を仰いだ。らしき、というのは眼力の圧力が強すぎて直視できないからだ。警報は正しい、見たら死ぬ。
「ラウー。ありがとう。妹が増えてすごく嬉しい」
「おまえに義妹を与えたのは私ではなく婚姻制度だ」
猫も呆れるそっけなさ。
「私はおまえに、親でも姉妹でもない家族を与えるつもりだ」
トーカさんは頬を赤らめた、そしてルキア嬢とフェリクスを交互に見た。
「・・・・・・お兄さんも増えそう?」
冷気を放ち始めたラウー・スマラグダスへ、弓師がにやにやと意地悪い笑みを向けている。
このおバカさんなお嬢さんが猫族の命運を握ってるだなんて。
「そうだ、ラウー。お休みが欲しいんだけど」
「目的は何だ」
「休むため以外にあるの? ほんと仕事中毒だよね。ほら、みんなでごはん食べたりしたいなーって。来週の日曜はどうかな」
「予定がある。妻担ぎレースだ」
何それとトーカさんは嫌な予感を声に盛っているが。
「軍の恒例イベントだ。妻を担いで鷲に乗り、規定の的を射ちながら、参加者同士の妨害をかわしてゴールを目指すサバイバルレースだ」
魔王は『猫の子は猫』くらいの当然さで答えた。
「わたしが大喜びで参加するとでも思う?」
「妻を落とした時点で失格となる。勝敗が判定に持ち込まれた場合、命綱を使用しないほうが有利だが」
「使って! 使ってください! っていうかわたしの参加はもう決定事項か! 命綱のあるなししか選択権がないのかー!」
「巨大化猫が不要ならば優勝を諦め、休暇を浪費しろ」
「やらせていただきますっ」
デカ猫はすでにボル・ヤバルの港で待機中。ラウー・スマラグダスは優勝する気だ。
「優勝賞金を学校建設にあてる。一刻も早く活版印刷技術を確立しろ。期限は二週間だ。ルキアは護衛と並行して歴史を編纂しろ。客観的にだ。三週目には教科書を製本できる体制を整えろ」
「了解しました」
ルキア嬢は即答したが、トーカさんはのけぞった。
「また二週間! 無理。今度こそ無理」
「今の無駄口で五秒の浪費だ」
「デカ猫の腹毛で泣いてやるー!」
叫びながらトーカさんはバッグをつかみ、「資料館!」と慌てながら部屋を飛び出していった。ルキア嬢がすたすたと追う。
デカ猫は腹毛で泣かせてあげるだけでトーカさんのご機嫌を麗しく保てそうです。単純な。ルキア嬢とフェリクスを密偵してボル・ヤバルの密林深くまで潜入した苦労はいったい? ああ、人間のことわざにありましたね、百聞は一見にしかずと。
「ミハイ、おいで」
廊下の先からボスの呼ぶ声が。
腰を浮かしかけて迷う。デカ猫によるトーカさん攻略法は判明した。もうルキア嬢やフェリクスを内偵する必要はないのだ。お役御免、名もない気楽な野良猫に戻れるのだ。
ぼん、と尻を蹴られて本能的に身をひるがえし反撃。あぐあぐとズボンに噛み付きながら見上げれば、行けよ、とクルミ色の瞳がほほえみながらドアを示した。
「おまえ、ルキアの相棒の適性あるぞ。俺ほどじゃないけどね」
・・・・・・それはどうでしょうね?
あぐっと最後にひと噛みし、ルキア嬢を追いかける首元で、ミハイと刻まれたベルが揺れる。
カロン、カロン。背後では上機嫌な弓師が喉を鳴らすみたいに、氷砂糖を舐めていた。
今宵の集会は良い月夜となりそうです。
更新停滞時期があったにもかかわらず、ここまで読み進めてくれた皆様、ありがとうございました。お疲れ様でした!
読書欲を満たす一片になれたとしたら嬉しいです。星をいくつか送ってもらえると、心のエサとして大喜びで食います。あぐ