第9話
朝食のあと、作業台で売上台帳の最後の数字を書き入れた時だった。
ちりん、と硬い音で鈴が鳴った。革靴の重い足音が二つ。入ってきたのは、濃紺の揃いの制服を着た、見慣れない男が二人だった。
一人は、革張りの書類挟みを抱えた、細身の文官風の男。もう一人は、白銀の肩章をつけた制服に佩刀した、筋骨たくましい壮年の男で、鋭い目つきと鍛えた立ち姿から、一目で王宮の近衛騎士だと分かる。
カウンターの奥で鉄板を磨いていたアルノが、手を止めて二人を見た。
「何の用だ」
低い声にも、文官は眉一つ動かさず、書類挟みから通報票を一枚出した。
「王都東区、市街監督窓口の査察担当官だ。貴族籍の申立人より、『無許可営業および無届の大型火気使用の疑いがある』との通報を受理した。営業の実態を確認に来た」
やはり来た、と奥歯を噛んだ。昨日のユリウスの捨て台詞の通りだ。自分では何もできないから、公の機関を動かして嫌がらせをしてきたのだ。
近衛の男は、事務的な文官とは違い、静かな目でアルノを見ていた。重い声が続く。
「加えて、昨日この店で、貴族令息に対する暴行と営業妨害まがいの騒ぎがあったと申し立てがあった。元近衛の者が絡むと聞いたので、俺が事実確認に同行した」
アルノの眉がわずかに寄った。何か言いかけた口より先に、私が動いた。立ち上がり、鞄から革表紙の真新しい台帳を両手で抱えて、カウンターの前に進み出る。
「この店の帳簿と諸届を委託されている、商業ギルド公認筆耕人、セリア・フォン・ハルデンと申します。確認には、私がお答えします」
ギルドの木札を示すと、文官が眼鏡の奥で目を丸くした。平民の小さな店に、公認筆耕人が専属でついているとは、思っていなかったのだろう。
「ハルデン嬢か。では、営業許可証の原本を見せていただこう」
「こちらです」
迷わず、木のファイルから羊皮紙の束を引き出して、カウンターに広げる。一番上は、先代から受け継いだ、王都商務局の『製パン業営業許可証』。右下には、今年の春に押されたばかりの、鮮やかな更新印があった。
「許可証番号は東第七二号。三年ごとの更新も、今年の春に済んでいます。無届の火気とされているパン窯については、こちらです。十年前の改築時に、王都消防局から交付された『基準適合認可証』の控え。煙突の排煙基準も、耐火煉瓦の厚みも、規定を十分に満たしています」
文官はぐっと詰まって、指で許可証の刻印をなぞり、手持ちの台帳の記録と見比べた。紙をめくる乾いた音だけが店に響く。
「許可番号、一致。消防認可の控えも、有効期限内だ。では仕入れはどうだ。不正な横流しや、脱税の疑いはないか」
「先月分と今月分の納品伝票と、売上台帳の写しはこちらです。小麦粉、ライ麦、薪の仕入れ先と数量と支払額を、日別に記帳してあります。ベルク粉問屋の受領印とも、過不足なく一致しています。それ以前の伝票は、日付順に束ねて、記帳待ちの箱に保管しています。どうぞ、照合なさってください」
整然と並んだ数字の列を前に、文官は言葉を失っていた。殴り書きの伝票は、もう一枚もない。私が三十分ずつ整えた帳簿は、大手商会の正規の帳簿に劣らない精度になっていた。何度も指で数字を追って、とうとう深い溜め息をついて書類挟みを閉じた。
「確認した。営業許可、火気使用、帳簿の記載、いずれも瑕疵はない。完全に適法な営業だ」
「では、通報にあった無許可営業の疑いは、晴れたと理解してよろしいですね」
「ああ。通報の内容と実態が異なっていた旨、本庁へ報告書を上げる。なお、申立人が故意に虚偽の通報をしたかどうかは、本庁の法務官が判断する。虚偽の申告は、貴族であっても罰金刑と、記録への明記の対象だ。我々の調査はここまでだ」
役人は私情を挟まず、事実だけを淡々と記録した。適法だと証明できれば、それで十分だ。ユリウスの浅はかな嫌がらせは、書類の壁に当たって、空振りに終わった。
そこで、黙っていた近衛の男が、一歩前に出た。目は私ではなく、アルノを見ている。
「店の適法性は確認された。次は昨日の騒ぎだ。アルノ、お前が道具を使って貴族令息を威圧したというのは、本当か」
問いは厳格だったけれど、責める刺々しさはなかった。アルノは前掛けの粉を静かに払って、士官の目をまっすぐ見て答えた。
「事実だ。店に土足で踏み込んで、客の腕を掴もうとした。だから窯用のピールを間に挟んで、外に押し出した。殴っちゃいない。怪我もさせてない」
「被害に遭った当事者は、私です」
私は士官に向き直って、はっきり言った。
「押し入ってきたのは、私の元婚約者です。正式に破談が成立しているのに、私を力ずくで連れ去ろうとして、腕を取ろうとしました。店主は、客の私を守るために、最小限の動きで相手を外に出してくださっただけです。余計な暴力はありませんでした」
士官は私の言葉を静かに聞いて、口元をわずかに緩めた。
「承知した。正当な自衛と店舗防衛の範囲内と判断する。令息側の申し立ては一方的で、身分を笠に着た不当な営業妨害と記録する。安心しろ。お前たちが咎められる筋合いは、一切ない」
「では、私は外で待つ」
文官が一礼して、先に出て行った。ちりん、と鈴が鳴って扉が閉まる。
けれど、士官は残った。佩刀に手を添えたまま、アルノに歩み寄る。さっきまでの厳しい顔が消えて、旧知の相手に向けるような、柔らかい苦笑が浮かんでいた。
「相変わらずの手際だな、アルノ。お前が道具を抜いたと聞いた時は、昔みたいに相手を叩き斬ったんじゃないかと肝を冷やしたが、見事な自制心だ」
「人を斬るための腕じゃない。今はパンを焼く手だ、ダミアン」
アルノが短く返すと、ダミアンと呼ばれた士官は肩をすくめて、カウンターの端の私に視線を投げた。
「ずいぶん優秀なお客さんがついているじゃないか」
「客だ」
アルノは素っ気なく言った。
客。その一言が、思ったより深く胸に刺さって、私は帳簿をファイルにしまう手に力を込めた。
聞くつもりはなかった。でも、扉の前で声を落としたダミアンの言葉は、静まり返った店の中で、はっきり私の耳に届いた。
「アルノ。お前のその頭と腕を、こんな路地裏に埋もれさせておくのは、やはり惜しい」
指先が止まる。
「近衛の再編が進んでる。来月、特務小隊の席が一つ空く。お前さえ戻る気があるなら、いつでも戻れるよう、上には話をつけてある」
「以前も断ったはずだ」
「分かってる。だがな、貴族どもの理不尽な横槍から、この店やお前の大事なものを守るなら、身分と剣の権威があった方が動きやすいんじゃないか。よく考えておけ。お前の席は、まだ空けてある」
ダミアンはそれ以上押さず、アルノの肩を軽く叩いて、扉を開けて出て行った。鈴の音が、やけに遠く聞こえた。
扉が閉まる。店に、二人だけの静けさが戻った。作業場へ戻っていくアルノの足音が聞こえる。
胸の奥に、冷たい小石がひとつ落ちたようだった。
アルノが近衛を辞めた理由は、二日前の朝に聞いたばかりだ。権力闘争と嘘を守るための剣に嫌気がさしたこと。誰の嘘も混ざらないパンを焼く今が、いちばん生きている気がすること。その誇りも選択も、私は知っている。誰よりも分かっているつもりだった。
それなのに、ダミアンの言葉が針のように刺さって抜けない。
アルノが近衛に戻れば、名誉も高い俸給も取り戻せる。ユリウスのような浅はかな貴族に見下されることも、嫌がらせを受けることもなくなる。私の過去のごたごたが、この人を、また貴族社会の面倒な泥に引き戻そうとしているのではないか。私がここにいることが、彼の平穏を壊しているのではないか。
ここにいてほしい。毎朝、あなたの焼いたパンを食べて、あなたの隣で笑っていたい。
そう願ってしまった自分が、ひどく身勝手に思えた。彼が自分で選んだ暮らしを、私の都合で縛りつけていいはずがない。
「セリア?」
作業台の向こうから、アルノの訝しげな声が降ってきた。顔を上げると、灰色の目が、私の強張った顔をじっと見ている。
私は引きつりそうな唇を抑えて、書類を鞄にしまい込んだ。喉に言葉が詰まって、何も言えなかった。




