第10話
朝六時の鐘を聞きながら、東区の坂道を下った。
足取りは、いつものようには弾まなかった。胸に、昨日聞いたダミアンの言葉が、冷たい泥のように沈んでいる。
特務小隊の席が一つ空く。お前さえ戻る気があるなら、いつでも戻れる。
理不尽な横槍から店を守るなら、身分と剣の権威があった方がいい。
石造りの店の窓からは、いつも通りの橙色の灯りが漏れていた。木の扉を押すと、鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
作業場から出てきたアルノは、いつもと同じ、粉まみれの前掛け姿だった。灰色の目が私を捉えて、短く頷き、窯の方へ戻っていく。昨日の査察など最初からなかったように、店は静かで、薪の爆ぜる音だけが穏やかに響いていた。私は丸テーブルに腰を下ろして、膝の上で指を強く組んだ。
「座ってろ。今出す」
運ばれてきたのは、飴色のクロワッサンと、湯気の立つ陶器のマグカップ。
カップから立つ香りを吸い込んだ時、私は瞬きをした。いつもの玉ねぎや根菜の素朴な匂いとは違う。タイムの清涼感と、カモミールに似た、ほんのり甘い草の香り。のぞき込むと、澄んだ琥珀色のスープの中で、柔らかく煮た鶏肉と白いんげん豆が、静かに揺れていた。
「いただきます」
スプーンで一口すくって、口に入れた。鶏の出汁の丁寧な旨味と、野菜のまろやかな甘み。後に残るハーブの清々しさが、緊張で固まっていた胸の奥を、そっと撫でていく。とてもおいしい。
それなのに、昨日の光景が頭を離れなくて、手はそこで止まってしまった。スプーンをカップの縁に預けたまま、視線が宙を泳ぐ。
アルノが近衛を辞めたのは、宮廷の嘘と権力争いに耐えかねて、誰の嘘も混ざらないパンを焼く暮らしを選んだからだ。それは数日前、本人の口から聞いたし、私は心から尊敬している。
それでも、ダミアンの言葉が消えてくれない。ユリウスの嫌がらせが、この店に押し寄せた。私の過去の因縁が、この人の平穏を脅かした。もしアルノが、私や店を守るために「やはり身分や権威が要るのか」と思い詰めていたら。
「口に合わないか」
低い声が、頭の上から降ってきた。
はっとして顔を上げる。生地を丸めていたはずのアルノが、作業の手を止めて、カウンター越しに怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
「え?」
「スープだ。ハーブがきつすぎたか」
「いえ、そんなことは! とてもおいしいです。鶏の出汁も、ハーブの香りも、驚くほど優しい味で」
慌てて首を振ると、アルノは灰色の目を細めて、私の手元を指差した。
「なら、どうして一口で止まってる。パンにも手をつけてない。冷めちまうぞ」
見透かされていた。ごまかそうにも、この観察眼の前では何の役にも立たない。口ごもる私を見て、アルノは小さく息を吐いて、腕を組んだ。
「朝、入ってきた時の顔が、ひどく青白かったからな。胃を温めて、気を鎮める薬草を少し混ぜた。昨日の役人どもに、余計な気を遣わされたんだろうと思ってな」
そっけない言い方に、胸が軋んだ。
仕込みで忙しい早朝に、私の顔色を見て、わざわざ調合を変えてくれたのだ。言葉で飾ることはなくても、この人はいつも、相手の傷や疲れを真っ先に見抜いて、大きな手で温かいものを差し出してくれる。その不器用な優しさが、痛いほど嬉しくて、同時に苦しかった。
「ありがとうございます、アルノ様。せっかく作っていただいたのに、ぼんやりしてしまって、すみません」
スプーンを動かして、温かいスープを胃に流し込んだ。クロワッサンを持ち上げて、ざくっとかじる。香ばしいバターの甘みと、熱いスープ。冷えていた身体の隅々に血が巡って、固まっていた肩から、力が抜けていくのが分かった。
最後の一滴まで飲み干して、空のカップを両手で包んだ。陶器の温もりが、手のひらにじんわり伝わってくる。
アルノはカウンターの向こうで、木箱からいつもの納品伝票の束を出して、台帳の隣に並べた。
「食い終わったなら、今日の分の伝票だ。ただ、無理にやらなくていいぞ。具合が悪いなら、明日に回せ」
「いいえ、やります。頭は、もうすっきりしていますから」
深呼吸をひとつした。温かいスープのおかげで、霧が晴れるように心が決まっていた。疑いや遠慮を胸にためたまま、腫れ物に触るように距離を置くなんて、私にはできない。それは、まっすぐ向き合ってくれるこの人に、失礼だ。
アルノは、自分の意志で騎士の地位を捨てた。その誇りと自由を、誰よりも尊重したい。けれど同時に、私の胸には消せない願いがある。
ここにいてほしい。毎朝六時に、あなたの焼いたパンを食べて、あなたの隣で温かい朝を迎えたい。
でもその願いを口にしたら、彼が再び剣を取って身を立てる機会を、奪うことにならないだろうか。
迷いは尽きない。それでも、ひとりで勝手に決めつけて怯えるのは、もうやめると決めたのだ。
席を立って、カウンターの前まで歩いた。伝票に伸ばしかけたアルノの手が、私の顔に気づいて止まる。灰色の目が、まっすぐに私を見た。
「なんだ」
薪の燃える音だけが、静かな店に響く。私は両手を胸の前で握りしめて、震える声を抑えながら言った。
「アルノ様。帳簿を開く前に、ひとつだけ伺ってもいいでしょうか」
「何だ」
「昨日いらした近衛の方のお話が、立ち聞きするつもりはなかったのですが、聞こえてしまいました」
アルノの眉根が、わずかに動いた。けれど口は挟まず、黙って私の言葉を待っている。
「近衛に特務小隊の席が空いていて、あなたさえ望めばいつでも戻れる、と。店を守るためにも、権威があった方がいい、と」
心臓が早鐘を打っている。手のひらに、冷たい汗がにじんだ。それでも途中で言葉を濁さずに、胸の中の問いを、そのまま差し出した。
「アルノ様は、近衛へお戻りになるおつもりなのですか」




