第11話
静まり返った店に、私の問いが落ちて、波紋みたいに広がっていった。
心臓が耳元でうるさい。アルノがどんな顔で、どんな言葉を返すのか、聞くのが怖くて、私は両手を握りしめたまま動けなかった。
けれど、アルノは怒らなかった。動揺もしなかった。灰色の目を一瞬だけ丸くして、それから、分厚い手のひらで顔の半分を覆うと、長く息を吐き出した。肩が、小さく揺れている。
「……ははっ」
低く、掠れた笑い声だった。私は驚いて顔を上げた。
「アルノ様? 私は、笑われるようなことを聞いたつもりでは」
「いや、すまん。まさかお前が、そんなくだらんことを真剣に悩んで、朝からあんな青い顔してたのかと思ったらな」
顔から手を外して、アルノはカウンター越しに私の目をまっすぐ見た。その目に、迷いは少しもなかった。
「戻る気なんぞ、あるわけがないだろう」
あまりにきっぱりした言い方に、言葉が出なかった。
「で、でも、昨日の方は、いつでも戻れるよう話をつけてあると」
「ダミアン隊長は昔からああいう人だ。辞めた俺を気にかけて、折を見ては戻れと言ってくる。昨日が初めてじゃない。俺の答えは最初から決まってる。断り続けてるし、これからも受ける気はない」
アルノは前掛けの粉を払い、腕を組んで言葉を継いだ。
「一度、胸くそが悪くなって捨てた場所だ。未練なんぞない。あそこに戻れば、また誰かの身勝手な嘘や、権力争いの泥を被せられるだけだ。俺が振るいたい剣は、そんなもののための剣じゃない」
「ですが、昨日のようなことがありました」
胸にくすぶる罪悪感が、そのままこぼれた。
「ユリウス様が、嫌がらせをしてきました。ああいう横槍から店を守るには、身分や剣の力があった方がいいと、ダミアン様もおっしゃっていました。私の過去のせいでアルノ様に迷惑がかかったから、迷っておられるのではないかと」
「迷惑?」
アルノの眉が跳ねた。カウンターから身を乗り出して、私の目の前まで顔を近づける。彫りの深い無骨な顔に、強い真剣さがあった。
「セリア。あんな馬鹿の嫌がらせごときで、俺が生き方を変えると思うか。それに、昨日の騒ぎを跳ね返したのは、剣でも身分でもない。お前が毎日整えてくれてた帳簿と、お前の堂々とした態度だ。俺の力じゃない。お前が自分の力で、店を守ったんだ」
「それは、私は任された役目をこなしただけで」
「役目だけじゃない。俺はな、セリア」
声が低くなり、熱を帯びた。
「親父の店を継いで、一人でパンを焼いてた時も、それなりに納得して生きてるつもりだった。誰にも邪魔されず、嘘のないパンを焼く暮らしに、誇りもあった。だが」
灰色の目が、逃げ場がないほどまっすぐ私を捉えていた。息が止まりそうになる。
「お前が毎朝六時にここへ来て、うまそうに食って、笑うようになってからだ。俺の焼くパンが、腹を満たすだけじゃなく、誰かの心を救えるんだと、心底思えたのは」
「アルノ様」
「宮廷の飾りを守るより、毎朝ここでうまそうにパンを食うお前の顔を見る方が、今の俺には、よっぽど誇らしい。俺はこの場所で、お前と迎える朝が気に入ってる。手放す気なんぞ、最初からない」
飾らない、無骨な人の、揺るぎない告白だった。
胸に溜まっていた冷たい不安が、一瞬で溶けて、熱い波に変わって全身を満たしていく。張りつめていた糸が切れて、視界が涙で滲んだ。
嬉しい、と思った。彼がここにいてくれることが。私と過ごす朝を、誇らしいと言ってくれたことが。
それなら、私も、もう遠慮や迷いには逃げられない。役に立つ人間だから、仕事の恩があるから、という言い訳を脱ぎ捨てて、本当のことを言わなければ。
指先で滲んだ目元を拭って、顔を上げた。
「私もです、アルノ様」
「セリア?」
「私も、この場所を手放したくありません。毎朝ここへ通うのは、帳簿のお手伝いができるからでも、おいしいパンが食べられるからでも、それだけではないんです」
頬が熱い。それでも、灰色の目から視線は外さなかった。
「誰の嘘もないあなたの前で、あなたが焼いてくださった朝ごはんを食べる時間が、私の支えです。パンも好きですけど、私が好きなのは、あなたです。アルノ様」
言った瞬間、アルノが息を止めたのが分かった。
大きな身体の、日に焼けた頬が、耳の付け根まで一気に赤くなっていく。目を見開いて、それから気まずそうに視線を逸らし、太い手で口元を覆った。
「お前、そういうことを、真っ向から言うな」
「本当のことですから。もう、ごまかしません」
私が笑うと、アルノは参ったように唸って、天井を仰いだ。それでも、口の端から、隠しきれない笑みがこぼれていた。
「……喉が渇いたな」
照れ隠しみたいに咳払いをして、アルノは作業場へ戻っていった。やがて運んできたのは、湯気の立つ陶器のポットと、カップが二つ。それから、木皿に載った小さな丸いパンだった。
香ばしい焼き色のブリオッシュで、砕いた胡桃が散らしてある。甘いバターの匂いが、ふわりと立った。
「座れ。さっきのスープ、味わうどころじゃなかったろ。もう一つ食え」
「もうお腹はいっぱいなのに」
笑いながらテーブルに戻ると、アルノも向かいの椅子に腰を下ろした。彼が私と同じテーブルについて食事をするのは、これが初めてだった。
注がれたのは、林檎とシナモンを煮出した、温かい紅茶だった。
紅茶を飲むのは、あの朝以来だった。冷めきった濁った一杯の前で、胃を痛めていた朝。湯気を立てる紅茶は、こんなに甘い匂いがするのだと、初めて知った。
「いただきます」
ちぎったブリオッシュを口に入れる。ふわりと柔らかくて、口の中でとろけるように、卵とバターの甘みが広がった。胡桃がかりっと香ばしい。温かい紅茶が、喉をやさしく潤していく。
「本当においしいです」
「そうか。お前がうまそうに食うなら、焼いた甲斐がある」
向かいで自分の分をかじりながら、アルノが穏やかに目を細めた。依頼人と筆耕人という枠を越えて、お互いを必要としている。その確信が、二人の間の空気を、甘く満たしていた。
食事を終えて、台帳を開こうとした時、店の扉が控えめに叩かれた。
ちりん、と鈴が鳴る。立っていたのは、近衛の制服を着た若い兵士だった。背筋を伸ばして、封をした書状をアルノに差し出す。
「ダミアン隊長からです。アルノ殿に直接渡すようにと」
兵士が一礼して去ると、アルノは書状の封を切って、目を走らせた。短い文面だったらしい。読み終えると、顔を上げた。
「法務官が動いた。昨日の通報が虚偽だったと、報告書が上に回って、ラインハルト侯爵の耳にも入ったそうだ。ベルンシュタイン伯爵が今日じゅうに、あの男の処遇を決める」
台帳の上で、私の指が止まった。
自分の嫉妬と保身のために、公の査察まで動かそうとしたユリウス。その愚かさが、ラインハルト侯爵家と、長年息子に頭を悩ませてきた伯爵の手で、いよいよ裁かれようとしている。
「何があっても、お前の席はここだ」
書状を畳んで、アルノが言った。独り言みたいに低い声だった。
「はい」
嵐の予感はあった。けれど、私の中には、揺らぎがひとつもなかった。穏やかな灰色の目を見つめ返して、ペンを取る。ペン先は、もう少しも震えない。




