第12話
商業ギルドでの清書を終えて男爵邸に戻ると、玄関で使用人に「旦那様がお待ちです」と告げられた。
二階の書斎に入ると、父が、珍しくパイプにも触れずに、背筋を伸ばして机の前に座っていた。卓上には、真紅の蝋で封をされたベルンシュタイン伯爵家の親書と、ずしりと重そうな黒革の小箱が置いてある。
「お父様、お呼びでしょうか」
「おお、セリア。入りなさい。……すべて、片がついたぞ」
声は静かだったが、長年背負った荷を下ろした人の、深い安堵が滲んでいた。勧められた椅子に座ると、父は封の割れた書状を私の方へ押しやった。
「伯爵から、正式な謝罪状と通達が届いた。ユリウス殿は廃嫡だ。跡継ぎの座も、ベルンシュタインの名を名乗る権利も、失った」
「廃嫡、ですか」
口にしながら、自分の胸が驚くほど静かなことに気づいた。驚きはなかった。あの人が積み上げてきたものを思えば、行き着く先は決まっていたのだ。
「庇う者が、もう誰もいなかったのだよ。お前の代筆という蓋が外れた途端、泣かされてきた令嬢たちの家や、揉み消された劇場の諍いが、一斉に噴き出した。そこへ侯爵の怒りと、下町のパン屋への乱入、監督窓口への虚偽の通報だ。伯爵も、ついに見限られたそうだ」
父は黒革の小箱の蓋を開けた。金貨が、ぎっしりと詰まっていた。
「これは、伯爵家から我が家への補償金だ。三年間、お前に息子の後始末を押しつけて、尊厳を傷つけ続けたことへの慰謝料だそうだ。破談の文書では互いに請求しないと決めたが、伯爵が自分から申し出られた。侯爵の前でも、我が家の名誉を回復する声明を出してくださった」
父は小箱を見つめ、それから私に深く頭を下げた。
「セリア、すまなかった。お前が一人で耐えてくれたおかげで、我が家は潰れずに済んだ。この金は、お前のものだ。もう筆耕などしなくても、一生何不自由なく暮らせる。屋敷で、ゆっくり過ごしなさい」
以前の怯えた父は、どこにもいなかった。私を守り、筋の通った決着を勝ち取ってくれた人に、心から感謝していた。それでも、私は微笑んで首を横に振った。
「お父様、お金はありがたくいただきます。万一の時の備えにします。でも、筆耕の仕事は辞めません」
「だが、もう働く必要など」
「お金のために働いているのではないんです。人の顔色をうかがう生き方をやめて、自分の知識と技術で誰かの役に立つ。自分の手で暮らしを作る。その手応えが、今の私の誇りです。男爵家の娘であることは捨てません。でも、屋敷にこもって庇護を待つ令嬢にも、戻りません」
父は呆気にとられた顔をして、やがて参ったように苦笑いした。
「そうか。もう、私の庇護など要らんほど、立派に自分の足で立っているのだな。お前の生き方を、私は誇りに思うよ」
同じ日の昼、ベルンシュタイン伯爵邸の大広間は、ひどく寒かった。
暖炉の火は入っている。冷たいのは、そこに座っている人間たちの目だった。
ユリウスは、広間の真ん中の絨毯に膝をついていた。昨夜から着替えを許されず、溝の臭いが残る上着のまま。正面の高い椅子には、父親の伯爵。その左右に、一族の長老が六人並んでいる。少し離れた客席では、ラインハルト侯爵が腕を組んで座っていた。目が合っただけで、背中を冷たいものが伝った。
「読み上げよ」
家令が、巻いた書類を広げた。
「令嬢の家よりの抗議状、七通。劇場主より損害の請求、金貨八十枚。仕立屋、宝石商、馬車屋、酒商より未払いの請求、合わせて金貨三百枚。市街監督窓口への虚偽の通報につき、司法省より厳重注意。儀典室より、解任の通知」
一つ読まれるたびに、長老たちが首を振る。ユリウスは顔を上げられなかった。
「ま、待ってください、父上。全部誤解です。僕はただ、セリアが」
「その名を口にするな」
伯爵の声は、低く静かだった。
「お前が侯爵に宛てて書いた釈明状を、ここで読んで聞かせよ」
家令が一枚の紙を差し出した。自分の字だった。震える手で受け取って、読み上げる。
「ご令嬢が、泥酔して、すがりついてきたのを、親切で介抱しただけで」
声が裏返った。誰も笑わなかった。笑うより先に、侮蔑の目が、一斉に彼へ向いていた。
ラインハルト侯爵が、ゆっくり立ち上がった。
「我が娘は、一滴も酒を飲んでおらん。貴殿の息子は、私の娘を、自分の嘘の盾にしたのだ」
侯爵は、ユリウスの前に羊皮紙とペンを置かせた。
「今ここで、詫び状を書け。代筆は許さん。自分の手で、自分の言葉で書け」
ペン先が、紙の上で止まった。
何を書けばいい。いつもなら、「いつもの調子で頼む」と一言口にすれば、整った文章が目の前に出てきた。インクの雫が落ちて、染みが広がる。ようやく書いた文字は、子供の落書きみたいに歪んでいた。
『僕は悪くないが、誤解を招いたことは』
家令がそれを高く掲げて読み上げた。誰かが、鼻で笑った。侯爵は紙を受け取って、ゆっくりと、二つに裂いた。
「詫び状一枚、書けぬのか。これが伯爵家の嫡男か」
「セリアがいれば!」
叫びが、勝手に口から出ていた。
「セリアなら、すぐ書いてくれた! あいつがいれば、こんなことには!」
広間が凍りついた。伯爵が椅子から立って、ゆっくり歩み寄り、息子を見下ろした。
「その娘が、三年もの間、無給でお前の泥を被り続けていたと、私はこの数日で初めて知った。恥ずかしくて、顔を上げられなかった。お前は、自分が捨てられたことにも、まだ気づかないのか」
ユリウスは、口を開けたまま、何も言えなかった。
「お前が、彼女を使い潰したのだ」
伯爵が手を上げた。家令が、ユリウスの右手を押さえつける。薬指に嵌まった、ベルンシュタイン家の紋章入りの金の指輪。引き抜かれる時、指の関節が嫌な音を立てて、赤く擦り切れた。ユリウスは悲鳴を上げた。
「ユリウス。お前を廃嫡する。ベルンシュタインの名を名乗ることを禁じる。北のヴァルト領の廃れた館で、借財が尽きるまで労役に服せ。王都の土を、二度と踏むな」
その時、広間の扉が開いて、債権者たちがなだれ込んだ。仕立屋、宝石商、劇場主。誰もが請求書を握りしめている。
「この家は、一枚も払わぬ。本人から取り立てるがいい」
伯爵の一言で、男たちが群がった。絹の外套が剥がれ、金の袖留めがもぎ取られ、磨き上げた革靴が足から抜かれる。ユリウスの周りで、勘定をつける声が飛び交った。この上着は銀貨十枚。靴は五枚。
最後に、家令が灰色の粗い羊毛の外套を、彼の肩に投げた。
広間を見回しても、夜会のたびに隣で杯を掲げていた友人の顔は、ひとつもなかった。誰一人、今朝、門を叩いてはこなかった。
引き立てられる廊下で、毎朝紅茶を運んでいた老いた侍女が、背を向けて壁を見つめていた。
北の空の下には、王都より一月早く冬が来る。
護送の荷馬車に揺られて六日、ユリウスは、旧い砦のような館に着いた。屋根は半分落ちて、窓には板が打ちつけてある。出迎えたのは、片目の老いた管理人がひとりだけだった。
「薪を割れ。割った分だけ、湯を沸かして、飯を出す」
斧を渡された。柄が、一振りごとに掌の皮を剥がしていく。夕方には両手が血豆だらけになって、指は霜焼けでふくれ上がり、匙さえ握れなかった。
翌朝、薪の足りない竈の前に、錫のカップが置いてあった。中身は茶だった。湯は、とうに冷めていた。
一口、含んだ。
冷たくて、渋くて、濁った味。
その瞬間、ユリウスは、見えていたはずなのに一度も見ていなかった景色を思い出した。冷めきった紅茶を前に、青い顔で座っていた婚約者の姿。あの朝も、その前の朝も、彼女は、こんな味の茶の前で、それでも黙ってペンを取っていたのだ。
指を折って、数えようとした。代筆。詫び状。菓子折り。侯爵への挨拶。劇場主への謝罪。泣かせた令嬢の宥め文。使いの手配。朝の三時間。三年間。婚約者。名前。友人。金。
数えきれなかった。数えようとした指は、凍えて曲がらなかった。
「いつもの調子で、頼む」
口の中で呟いた。誰も、返事をしなかった。冷めた茶の水面に、割れた顔が映っていた。
翌朝六時、東区のパン屋の扉を押した。鈴が鳴って、バターと薪の匂いが迎えてくれる。作業場から出てきたアルノと目が合った瞬間、昨日の告白を思い出して、お互いの頬が少し赤くなった。それでも、挨拶はいつも通りだった。
「おはようございます、アルノ様」
「おはよう、セリア」
低い声で名前を呼ばれるたびに、胸の奥がくすぐったい。運ばれてきたのは、飴色のクロワッサンと、野菜のポトフだった。大ぶりの蕪と人参、塩豚が、琥珀色のスープの中で柔らかく煮えている。ざくっとかじって、熱いスープを啜る。雑味のない力強い味が、全身に染みた。
食べ終えて、カウンターで粉を払っていたアルノに、昨日の出来事を伝えた。
「昨日、伯爵家から正式な通達が届きました。ユリウス様は廃嫡になって、北の辺境の領地に送られました。借財が尽きるまで労役だそうです。補償金も届いて、実家の名誉も回復されました。もう、あの方がこの店に現れることも、横槍を入れてくることもありません」
アルノの手が止まった。灰色の目が私を見る。それから、張りつめていた肩の力が、ゆっくり抜けた。
「そうか。良かったな、セリア。お前が理不尽に追われる筋合いは、これで全部消えたわけだ」
「はい。完全に、終わりました」
悪夢のような三年間に、本当の終止符が打たれたのだ。アルノは前掛けで手を拭きながら、探るような目で私を見た。
「実家の名誉が戻って、金も入ったなら、お前はもうこんな下町で働かなくてもいいんじゃないか。貴族の暮らしに戻るのか」
どこか怖がるような、微かな緊張を含んだ問いだった。思わず笑ってしまった。
「父にも同じことを言われました。お断りしました。筆耕の仕事も、この店に通うことも、やめません」
「どうしてだ」
「これが、私の選んだ暮らしですから。与えられた退屈な安心より、自分の力で働いて、毎朝ここでアルノ様と朝を迎える方が、私の宝物なんです」
まっすぐ言うと、アルノは目を見張って、照れくさそうに口元を覆って、視線を逸らした。日に焼けた耳の端が、真っ赤になっている。
「まったく、お前は」
呻くように呟いたけれど、口元には隠しきれない笑みがあった。
過去の災いが去って、二人の前には、静かで自由な青空が広がっていた。アルノは咳払いをして姿勢を正すと、カウンターに両手をついて、少し改まった声で切り出した。
「セリア。外のごたごたが片付いたなら、これからの店のことで、お前に相談したいことがあるんだが」




