第13話
「相談、ですか」
聞き返すと、アルノは前掛けで太い腕を拭きながら、照れくさそうに視線を泳がせた。こんなふうに言いにくそうに口ごもる彼は珍しい。私は台帳を閉じて、カウンター越しに灰色の目を見つめた。
「ああ。向かいの八百屋に、マルタって女将がいるだろう。この前、お前の元婚約者が溝に落ちるのを見てた」
「ええ、覚えています」
あの朝、割れた木箱とキャベツの代金は銅貨七枚だと言って、貴族を笑い飛ばした恰幅のいい女将の顔が浮かんだ。
「あの騒ぎの翌日から、毎朝パンを買いに来るようになってな。しかも近所の職人仲間にまで勧めて回ってる。おかげで、朝だけじゃなく昼前にも、パンを買いに来る奴が増えた」
「まあ」
「クロワッサンだけじゃなく、昼飯に挟んで食う素朴な丸パンやライ麦パンも焼いてくれと頼まれてる。窯の余熱を使えば焼くこと自体は難しくないが、問題は時間だ」
アルノは困ったように眉を寄せて、奥の作業場を指差した。
「昼の仕込みと火の番をしてる最中に、表で客に呼ばれて手を止めるのが、一番危ない。粉まみれの手で小銭を触るのも不衛生だし、焼き上がりの見極めも狂っちまう。それで、だ」
大柄な男が、腹を決めたように私を見据えた。
「昼の十一時から一時間半ほど、表の店番と売り子を、お前に頼めないか。もちろん、筆耕の仕事の邪魔にならない範囲でいいんだが」
胸の奥が、ぽっと温かくなった。あれほど頑固で、人に頼るのが下手だったアルノが、自分の仕事場に私を迎えようとしてくれている。頼りにされたことが、素直に嬉しかった。
けれど、嬉しいからこそ、曖昧な好意に甘えてはいけないと思った。好きだから、大切だからこそ、無償の親切やなあなあの奉仕にしてはいけない。それは、かつて私がユリウスとの間で犯した、いちばん大きな間違いだ。
「喜んでお引き受けします。ただ、その前に、きちんと取り決めをさせてください」
「取り決め?」
「はい。朝ごはんの時と同じです。仲が深まったからといって、際限なく無償で引き受けていたら、いつか互いの負担になって、関係が歪んでしまいますから」
アルノは瞬きをして、すぐ私の言いたいことを察したらしい。姿勢を正して頷いた。
「分かった。条件を言ってくれ」
「まず、私の拘束は、昼の十一時から十二時半までの九十分。その間の店番と販売の対価として、ギルドの相場に合わせた賃金、日給で銅貨四枚をお願いします」
「銅貨四枚か。安いくらいだ。分かった」
「それから、もう一つ。筆耕の仕事は続けます。実家とこの店を何度も往復するのは効率が悪いので、この店の片隅に、私の作業机を置かせてください」
「机?」
「店番の合間や、午後の空き時間に、店の中で清書をさせてほしいんです。その代わり、場所代として、日に銅貨二枚をお支払いします」
アルノが呆気にとられた顔をした。
「おい、場所代なんぞ取るわけがないだろう。空いてる場所に机を置くくらい、好きにすりゃいい」
「いいえ、そこは譲れません」
私は笑って、でもきっぱり言った。
「タダでお借りしたら、アルノ様に借りが一つ増えます。借りが積もると、私はあなたに言いたいことを言えなくなる気がするんです。それは嫌なんです」
「言いたいことなら、今でも遠慮なく言ってるだろ」
「そうでした」
二人で少し笑った。
「ですから、賃金から場所代を引いて、実際にアルノ様が私に払うのは、日に銅貨二枚です。それと、急ぎの筆耕が入った日や、休養が必要な日は、そちらを優先して店番を休める権利をください。お互いの本業と時間を、大事にするためのルールです」
アルノは腕を組んで、唸るように考え込んだ。やがて、太い息を吐いて、顔を上げた。口元に、すっきりした笑みが浮かんでいる。
「お前は本当に、隙がないな。だが理屈は通ってる。自分の仕事に誇りがある証拠だ。分かった、その条件で頼む」
「ありがとうございます!」
話がまとまって安堵した時、アルノが作業場の奥から、細長い木の板を持ってきた。厚みのある楢を、きれいに削り出した、真新しい板だ。
「ついでに、もう一つ頼みがある。マルタたちに、看板がないから初めての奴は通り過ぎちまう、開店の時間くらい書いて掲げろと、さんざん言われてな。板は用意したが、俺の悪筆じゃ看板にならん。お前の字で、店の名前を書いてくれ」
差し出された板を見て、目が輝いた。看板のなかった隠れ家みたいな店に、とうとう名前がつくのだ。
「喜んで! どんなお名前にしますか」
「『アルノの朝食パン店』でいい。飾りはいらん。それと、開店は六時と書いてくれ」
「六時、ですか。最初にお伺いした時は、七時だと」
「お前が毎朝六時に来るから、もう開けてるようなもんだ。だったら、看板にそう書いた方が早い」
ぶっきらぼうにそっぽを向いた耳が、また少し赤かった。
飾り気のない、気取らない、アルノそのもののような名前だった。鞄から一番上等な墨と筆を出して、木肌に向かった。一画ずつ心を込めて、端正でありながら、下町の人にも読みやすい、温かい文字を刻んでいく。書き終えた看板を、アルノは大事そうに撫でていた。
その日の夕方。西日が石畳を赤く染める頃、アルノがどこからか運んできた小さな木の机と椅子が、店の窓際に据えられた。使い込まれているけれど、がたつきのない、頑丈な机だった。
「ここなら午後の光が長く入る。窓を開ければ風も通る」
「素敵です。ありがとうございます、アルノ様」
机の上に、羽根ペンとインク壺、ギルドから預かった清書用の羊皮紙を並べた。誰の屋敷の片隅でもない。誰かの顔色をうかがう場所でもない。自分の腕で働いて、自分の暮らしを築くための、私だけの仕事場だった。胸が、震えるほど嬉しかった。
机を整えたあと、二人で並んで、明日の仕込みの準備をした。アルノが翌朝のライ麦粉を量り、私が納品伝票を台帳に書き留める。薪の匂いと、紙を擦るペンの音と、時々交わす短い言葉。互いの領分を侵さず、同じ空間で呼吸を合わせる心地よさが、夕暮れの店を満たしていた。暮らしの土台が、煉瓦を一つずつ積むように、確かに組み上がっていくのが分かった。
看板を軒下に掛け終えた、その時だった。
カツン、カツンと、下町には似合わない整った革靴の足音が、夕闇の路地に響いた。
顔を上げると、新しい看板を見上げて、店の前に立ち止まる人影がある。上質な暗緑色の外套に、白髪混じりの撫でつけた髪。
「お父様?」
声が漏れた。
店の前に立っていたのは、男爵である私の父、テオドールだった。父は軒下の看板と、窓越しに見える私の姿を、交互に見た。それから、ひどく真剣な、覚悟を決めたような目をして、静かに店の扉へ手を伸ばした。




