第14話
ちりん、と鈴が鳴った。
夕暮れの冷気をまとって入ってきた父のテオドールは、敷居をまたぐと、驚いたように足を止めて店の中を見回した。天井に漂うパンの匂い。磨かれた丸テーブル。窓際に据えたばかりの、私の小さな作業机。整然と並んだ羊皮紙とインク壺を見て、父の眉が少し動いた。
「お父様。ようこそいらっしゃいました」
私が歩み寄って一礼すると、作業場から出てきたアルノが、前掛けの粉を払って静かに頭を下げた。
「いらっしゃいませ。席へどうぞ」
大柄で厳めしい店主に、父は一瞬気圧されたように目を細めたが、礼儀正しく会釈を返した。アルノは家族の話を邪魔しないよう、私に目配せをして作業場の奥へ引っ込んだ。ただ、小さな店だ。奥の仕込み場にも、こちらの声は十分に届く。
父は丸テーブルの椅子を勧められて、外套を脱がずに座った。机の上で組んだ手に、男爵としての威厳と、言い出しにくそうなためらいが見える。
「お前が毎日通っている店を、一度この目で見ておきたくてな。なるほど、看板にあった通りの、質素だが実直な店だ」
「はい。アルノ様は、とても誠実な職人さんです。お父様、こんな時間にお越しくださったのは、急ぎのご用ですか」
向かいの席に座って尋ねると、父は懐から一通の封書を出して、テーブルの上に滑らせた。上等な羊皮紙に、見慣れない貴族家の銀の封蝋が押されている。
「お前に、正式な婚姻の打診が届いたのだ」
「婚姻の、打診ですか」
瞬きをした。ユリウスとの破談から、まだ十日ほどだ。もう次の話が舞い込むなんて、思ってもいなかった。
「驚くのも無理はない。だが、前回のベルンシュタイン家との縁談とは、事情がまるで違う」
父は言葉を一つずつ確かめるように続けた。
「伯爵が侯爵の前で出した声明で、お前の三年間の苦労と、不当な要求に屈しなかった気骨が、社交界に知れ渡った。お前の実務の腕と、理不尽に立ち向かった姿は、重鎮の方々の間でも評判になっている。釣書が三通届いた。その中で、一番筋が通っているのが、これだ」
父は封書を指先でとんとん叩いた。
「王都の要職にある、堅実な子爵家からの申し入れだ。ご当主自ら我が家に足を運んで、『実直で聡明なセリア嬢を、ぜひ嫡男の正妻に』と頭を下げていかれた。ご子息も真面目な方で、女性関係の浮いた噂は、欠片もない」
父の声には、娘の汚名がそそがれ、正当に評価されたことへの、飾らない誇らしさがあった。そして身を乗り出して、私の目を見た。
「セリア。かつてのように、家の台所のためにお前を犠牲にするつもりは、毛頭ない。無理に嫁がせる気も、縛りつける気もない。ただ、男爵家の令嬢として、安定した身分と、不自由のない暮らしができる道が、また開けたのだ。お前の将来を案じる親として、この選択肢を、お前の前に置いておきたいのだよ」
強制ではない。脅しでもない。私を後始末係として差し出していた人が、いま、一人の娘の幸せを考えて、最善と思う道を手渡そうとしている。その温かい親心に、胸が熱くなった。
ありがたいと思った。それでも、私の心には、最初から迷いがなかった。
テーブルの上の封書を見て、そっと両手を重ねた。
「お父様、心から感謝します。私の将来をそこまで真剣に考えてくださって、本当に嬉しいです」
「うむ。ならば」
「ですが、お受けできません。このお話は、謹んで辞退させてください」
父の表情が固まった。目を見張って、眉を寄せる。
「辞退? なぜだ、セリア。相手に不足はないはずだ。もう誰かの粗相を謝る必要も、胃を痛める暮らしもない。屋敷の奥で、ゆったり暮らせるのだぞ」
「ええ、分かっています。とても恵まれた、贅沢なお話です」
笑って首を横に振った。
「でも、お父様。私は、誰かの庇護の下で、誰かの機嫌をうかがって生きる暮らしには、もう戻りたくないんです」
立ち上がって、窓際の小さな机を指差した。
「あれが、今の私の仕事場です。今日、この店の売り子として、報酬と場所代を取り決めました。商業ギルドの筆耕と合わせて、自分の腕で稼いで、自分の力で暮らしを立てる。その手応えが、いま私のいちばんの誇りなんです」
父の目をまっすぐ見た。
「誰かのご機嫌取りのために朝食を抜く暮らしは、二度としません。私は、この下町の小さな店で、自分の意思で選んだ朝ごはんを食べて生きていきたい。そして、何より」
作業場の奥へ視線を向けて、続けた。
「私は、この店と、店主のアルノ様と一緒に生きていく道を選びたいんです」
言った瞬間、店の空気がぴんと張った。作業場の影で、何かが小さく擦れる音がした。アルノが息を殺して聞いているのが、分かった。
父は呆然と私を見て、作業場の方へ目を走らせた。やがて、長く深い息を吐いて、背もたれに身体を預けた。
「……そうか」
掠れた声だった。顔には、寂しさと、それをはるかに上回る感嘆が浮かんでいる。
「お前はもう、他人が用意した立派な馬車には乗らず、自分の足で歩くと決めたのだな」
「はい。この足で、歩いていきます」
父は封書を懐にしまって、ゆっくり立ち上がった。それから私の肩に手を置いて、柔らかく笑った。
「分かった。お前の人生だ、好きにするがいい。ただ、身体にだけは気をつけなさい。困ったことがあれば、いつでもハルデンの屋敷を頼りなさい」
「はい、お父様。ありがとうございます」
父は作業場の方へ向かって、丁寧に頭を下げ、夕闇の路地へ出て行った。ちりん、と鈴が、別れを告げるように優しく鳴った。
父の背中が夜の街に消えると、店に静けさが戻った。窓の外では、東区の家々に橙色の灯りがともっている。
背後から、重い足音が近づいてきた。振り返ると、作業場から出てきたアルノが、そこに立ち尽くしていた。
日に焼けた顔は強張って、灰色の目が、信じられないものを見るように揺れている。額には汗が滲み、組んだ太い腕が小さく震えていた。父との話を、最初から最後まで、一言も漏らさず聞いていたのだ。
「アルノ様」
声をかけると、アルノはゆっくり歩み寄ってきた。見上げるような身体が、私の目の前で止まる。
「子爵家からの、良縁だったんだろう」
低く掠れた声だった。喉の奥から絞り出すような。
「受けてれば、お前は一生、苦労なんぞ知らずに暮らせた。こんな下町の粉まみれの店で、朝から晩まで働く必要もなかった」
「苦労のない檻より、自分の足で選ぶ自由の方が、私にはずっと大事なんです」
一歩も退かず、アルノの胸元を見上げてから、柔らかく笑った。
「それに、さっき言った通りです。私が誰の隣にいたいのかは、もう決まっていますから」
その瞬間、アルノが息を止めた。大きな男の目に、熱い光が灯る。彼は何も言わず、粉を払った両手を伸ばしてきて、私の両手を、分厚くて温かい手のひらで包み込んだ。強く、痛いくらいに。
手のひらに刻まれた無数の傷と、硬い剣のたこ。握られた手から、彼が抱えている激しい感情が、熱になって流れ込んでくるようだった。言葉はなかった。けれど、視線が絡んだ時、二人の間に交わされたものは、どんな豪華な契約書より固かった。
もう、後戻りはしない。身分も、過去の泥も、他人の思惑も関係ない。私たちは自分の意思で、この場所で生きていく。
アルノは私の手を握ったまま、低く、誓うように囁いた。
「明日の朝、六時だ」
「え?」
「いつものように、六時に来い。待ってる」
灰色の目の奥の光が、揺るがなかった。その眼差しに込められた覚悟を感じて、心臓が小さく跳ねた。
「はい。六時に伺います」
笑って、その温かい手を、ぎゅっと握り返した。
明日の朝六時。新しい一日の最初に、この人が何を渡そうとしているのか。その答えを、胸の中で、もう分かっている気がした。




