最終話
午前五時半、自然と目が覚めた。
カーテンを開けると、東の空が、群青から柔らかな橙色へ移り変わっていくところだった。胸の中にあるのは、あの頃のような、胃を絞られる痛みでも、他人の粗相に怯える冷たい重さでもない。新しい一日が来ることへの、甘くて落ち着かない気持ちだけだった。
お気に入りの紺の外出着に袖を通して、髪を丁寧に編み込む。小さな革の財布を鞄に入れて、静かにハルデンの屋敷を出た。朝霧の貴族街を、軽い足取りで下っていく。風は冷たいのに、ちっとも寒くない。昨日、アルノに握られた手のひらの感触が、まだ胸の奥で温かく灯っていた。
坂を下りて職人街の路地に入ると、遠くの時計塔が鐘を鳴らし始めた。一つ、二つ、三つ。数えながら歩いて、六つ目と一緒に、石造りの店の前に着いた。
昨日掛けたばかりの看板が、朝霧の中に佇んでいる。
『アルノの朝食パン店 朝六時開店』
自分で墨を入れた文字を見上げたら、勝手に口元がゆるんだ。
真鍮の取っ手に手をかけて、木の扉を押す。ちりん、と鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
作業場から、いつもの低く掠れた声が返ってくる。けれど、一歩入った途端、店に満ちた香りに足が止まった。これまで通ったどの朝よりも濃くて、甘くて、深い香り。窯の前で長いピールを操るアルノが、ちょうど鉄板を引き出すところだった。チリチリと小さな音を立てて湯気を上げているのは、深い飴色に焼き上がったクロワッサン。幾重にも重なった層が、朝日を浴びた王冠みたいに、鋭く立ち上がっていた。
「座ってろ。今、持っていく」
アルノは前掛けで手を拭って、大きな木皿とマグカップを運んできた。丸テーブルに置かれたのは、焼きたてのクロワッサンと、透き通った黄金色の、丸鶏と香味野菜のコンソメだった。余計な雑味のない、澄んだ出汁の香りが立っている。
けれど、アルノはいつもと違って、皿を置いたあとも、カウンターへ戻らなかった。丸テーブルの前に立ったまま、居心地悪そうに首筋を掻いて、それから腹を決めたように姿勢を正した。日に焼けた顔が、少し強張っている。
「セリア」
「はい、アルノ様」
アルノは前掛けのポケットに手を入れて、小さな金属の塊を取り出した。
貴族が求婚の時に差し出すような、宝石のついた銀の指輪ではなかった。太くて頑丈な、鈍く光る、真新しい真鍮の鍵が一本。
ことり、と木皿の隣に置かれた。
「鍵、ですか」
「ああ」
アルノは一度、唾を飲み込んでから、低く言った。
「店の裏の、住まいの合鍵だ。店番を任せるための、管理の鍵じゃない。お前が、いつでもここに帰ってこられるようにするための鍵だ」
「アルノ様」
「俺は、貴族のお坊ちゃんみたいに、気の利いた甘い言葉は言えん。お前にふさわしい豪華な指輪も、立派な馬車も、用意できん。俺が持ってるのは、この小さな店と、親父から受け継いだ腕だけだ」
アルノは、粉と火に荒れた自分の両手を、テーブル越しに差し出した。傷とたこだらけの、実直な職人の手。
「だが、お前が起きる時間に合わせて、毎朝、世界で一番うまいパンを焼くことはできる。お前が腹を空かせて凍えないように、温かいスープを作り続けることはできる」
灰色の目が、濡れたように熱く揺れていた。
「セリア。俺と、結婚してくれ」
静かな店に、その言葉が落ちた。
耳の奥で、かちりと、何かが嵌まる音がした。
思い出したのは、あの冷え切った朝だった。五時半に呼び出されて、他人の外套を見せつけられ、冷めた濁った紅茶の前に座らされていた、惨めな日々。誰かの浮気を繕うために胃を痛めて、朝ごはん一杯さえ、喉を通らなかった暗闇。
私はあの日、指輪を置いて、自分の朝ごはんは自分で選ぶと決めたのだ。他人のために自分を削るのをやめて、自分の足で歩いて、自分の手で稼いで、誰の嘘もない温かい場所にたどり着いた。その先に、いま、この人がいる。
出会って十二日で結婚だなんて、笑われるかもしれない。でも、三年かけても何も返ってこなかった私には、十二日分の朝で、十分だった。
視界が涙で滲んだ。悲しくも、悔しくもなかった。胸の奥から溢れる嬉しさに、私は声を出して笑った。
「ふふっ。はい。喜んで、お受けします」
テーブルの上の真鍮の鍵を、両手で包むように持ち上げた。金属の冷たさは、すぐに私の手の熱で消えていった。
「宝石の指輪なんて、いりません。私にとって、世界で一番価値のある贈り物は、この鍵と、あなたが焼いてくださる温かいパンですから」
アルノが長く息をついた。張りつめていた肩の力を、一気に抜く。日に焼けた顔が、耳まで真っ赤に染まっていた。彼は太い腕で目元を乱暴に拭って、不器用に、でも心の底から嬉しそうに笑った。
「そうか。良かった。断られたらどうしようかと思った」
「断るはずがないでしょう?」
「それと、もう一つ」
アルノは咳払いをして、そっぽを向いた。
「様はもういらん。夫になる男を、様付けで呼ぶ奴がいるか」
「あ」
言われて初めて、顔が熱くなった。十二日間、ずっと「アルノ様」と呼んできたのだ。口の中で何度か転がして、ようやく、小さく声に出した。
「……アルノ」
灰色の目が、大きく見開かれた。それから彼は、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「座れ。冷める前に食うぞ」
「はい。でも、慣れるまでは、うっかり様をつけてしまいそうです」
「その時は、聞こえなかったことにする」
アルノは向かいの椅子を引いて、自分も腰を下ろした。いつもの丸テーブル。ただ、今朝は木皿の隣で、真新しい真鍮の鍵が、朝日を受けて誇らしげに光っていた。
「いただきます」
両手で、黄金色のクロワッサンを持ち上げる。熱い。指先から、生きている熱が伝わってくる。尖った端に、そっと歯を立てた。
ざくっ。
静かな店に、驚くほど澄んだ音が響いた。外側の層が崩れて、中から溢れた焦がしバターの甘みと、小麦の深い香りが、舌の上でほどけていく。ちょうどいい塩気が、バターのコクを引き立てた。熱いコンソメを一口啜ると、丸鶏の澄んだ旨味が、喉を通って、胃の底まで届いた。
「おいしい」
向かいでパンをかじっていたアルノが、目を細めた。
「今までで一番の焼き加減だ」
「ええ。世界で一番おいしいです」
どこか遠い北の空の下で、冷めた茶を啜っている誰かがいたとしても、それはもう、私の朝の話ではなかった。
磨かれたガラス窓から、柔らかい金色の朝日が差し込んでくる。軒下の新しい看板を照らし、窓際の机を温め、テーブルの上の真鍮の鍵をまぶしく光らせた。遠くで、街が仕事を始める足音がする。店番をして、帳簿を整えて、筆耕のペンを走らせて、毎朝この人と笑いながらパンを分け合う。これから始まるのは、そういう毎日だ。
「明日も、六時に来ますね」
いたずらっぽく言うと、アルノは目を丸くして、それから低く笑った。
「ああ。焼いて待ってる」
「その次の日も」
「ああ」
「その次の次も、ずっとですよ」
「ずっと焼いて待ってると言ってる」
私は笑って、まだ熱いクロワッサンに、もう一度歯を立てた。
私は私の朝食を選んだ。明日の朝も、その次の朝も、選び続ける。この人の隣で。




