第8話
昨日の胸騒ぎを振り払うように、私は焼きたてのクロワッサンを口に運んでいた。
今朝のスープは、じっくり炒めた玉ねぎと牛の筋を煮込んだ、オニオンスープだった。薄切りのバゲットとチーズが浮いて、熱でとろりと溶けている。ざくっ、とパンを噛んで、スープにスプーンを沈めた、その時だった。
ガンッ、と暴力的な音がして、木の扉が蹴り開けられた。
真鍮の鈴が、千切れそうな勢いで鳴る。朝の静けさを切り裂いて踏み込んできた人影を見て、私はスプーンを取り落としかけた。
「やはり、ここにいやがったか!」
血走った目で店内をにらんでいるのは、ユリウスだった。
あれほど自慢だった顔立ちは、見る影もなかった。目の下には黒い隈が張りつき、絹の外套は皺だらけで、襟元からは汗と酒の臭いがする。私は静かにスプーンを置いて、席を立った。
「ユリウス様。ここは平民の方が商う店です。あなたのような方が来る場所ではありません」
「黙れ! 毎朝こそこそと下町へ降りていくと聞いて、人に後を尾けさせたんだ。こんな掃き溜めに入り浸っていたとはな!」
昨日、路地の物陰で揺れた影。あれは見間違いではなかったのだ。自分では何もできないくせに、人の後を嗅ぎ回ることだけは、よく回る頭らしい。
ユリウスは泥のついた靴でずかずかと店に上がり込み、私の立つテーブルに詰め寄ってきた。
「セリア、今すぐ屋敷に戻れ! お前が勝手に破談の手続きなんか進めたせいで、僕が社交界でどんな目に遭ってるか分かってるのか! 侯爵家の圧力で儀典室の役職は外された。父上には廃嫡までちらつかされてるんだぞ!」
「身から出た錆です。ご自身の不始末の結果でしょう」
「僕が悪いんじゃない! お前があの場にいて、いつもの調子で角の立たない手紙を書いていれば、こんなことにはならなかったんだ! 今からでも遅くない、侯爵に『すべてご令嬢の勘違いで、二人の間にやましいことは一切なかった』と、完璧な釈明状を書け! 手土産の菓子折りも手配しろ!」
どこまでも、反省がない。自分で招いた破滅を、まだ他人に拭わせようとしている。
ユリウスが右手を伸ばして、私の手首をつかもうと身を乗り出してきた。
「来い! 男爵家の分際で、伯爵家の僕に恥をかかせて、ただで済むと思うなよ!」
指先が、私の袖口をかすめる。私は一歩も下がらず、濁ったその目を正面から見返した。
「お断りします。両家の合意のうえで、破談はもう成立しています。私の筆も、私の暮らしも、二度とあなたの持ち物にはなりません!」
「なっ、生意気な口を利くな!」
拒まれて頭に血が上ったユリウスが、両手で掴みかかろうと踏み込んだ。
その瞬間、風を裂く乾いた音がして、視界の横から、一本の太い木の棒が滑り込んできた。
パン窯用の、長くて頑丈なピール。パンの出し入れに使う、平たい木の櫂だ。その平らな先端が、ユリウスの胸と私の間にぴたりと割り込んで、鳩尾のあたりを正確に押し止めた。
「ぐっ!?」
勢いのままぶつかったユリウスが、息を詰まらせて止まる。長い柄を片手で支えているのは、音もなくカウンターから踏み出してきていたアルノだった。
殴ってはいない。ただ、鍛え抜かれた分厚い身体の重みが柄の先に乗っていて、ピールは岩のように動かなかった。ユリウスの前進は、完全に止められていた。
「うちの客に、気安く触るな」
地を這うような、低く冷たい声だった。灰色の目が、氷の刃のようにユリウスを射抜く。殺気とも思える静かな圧に、店の空気が凍りついた。
「な、なんだ貴様は! 下賤な平民のパン屋の分際で、伯爵令息の僕に道具を向けるのか! 無礼者、手をどけろ!」
ユリウスが喚いて、両手で木の櫂を払いのけようとした。アルノは腕にわずかに力を込めただけで、ピールの角度を変えた。てこの原理で、ユリウスの重心がすっと崩れる。
「うわっ!?」
もつれた足を、ピールの先がじりじりと押し戻していく。暴力は一切ない。ただ、店主として招かれざる客をつまみ出す、手慣れた動きだった。踏ん張っても、大人と子どもほどの力の差の前では、後ろへ下がるしかない。
「ここは朝飯を食う場所だ。騒ぎたいなら外でやれ」
「き、貴様っ! 痛い、押すな! おい、セリア、何とか言え!」
情けなく叫ぶ元婚約者を、私は黙って見ていた。
ユリウスの足は、開け放たれた入り口の敷居を越えた。そこで、運の尽きだった。昨夜の雨で濡れた石畳に、敷居の段差。後ろ向きに踏み外した彼の身体は、向かいの八百屋の店先に積まれたキャベツの木箱に背中から突っ込み、そのまま、路地の端の排水溝にずるりと転げ落ちた。
派手な水音がした。
溝には、前夜の雨水と、近所の台所から流れ込んだ洗い水と、野菜くずが溜まっていた。ユリウスの上等な絹の外套が、その茶色い水を、たっぷり吸い込んだ。
「あらまあ」
向かいで青物を並べていた恰幅のいい女将が、箒を片手に、呆れた声を上げた。
「朝っぱらから、貴族様がうちのキャベツに頭突きかい。割れた木箱とキャベツの代金は、銅貨七枚だよ」
荷運びの男たちが吹き出した。近所の窓という窓から、人が顔を出している。くすくす、げらげらと、路地中に笑い声が広がった。
「ち、違う、これは、この男が! 笑うな! 僕を誰だと思っているんだ!」
ユリウスは溝から這い上がろうとして、濡れた石畳で二度滑り、もう一度尻餅をついた。髪からは野菜くずが垂れ、外套はどぶの臭いを放っている。夜会のたびに令嬢たちに囲まれていた伯爵令息は、下町の路地の真ん中で、笑い者になっていた。
アルノは黙ってピールを引いた。バンッ、と重い音を立てて扉が閉まり、内側から閂が落ちる。
扉の向こうから、板を叩く音と、金切り声が響いた。
「覚えてろよ! ただの粉まみれの平民風情が! こんな看板も出していない無許可同然の店、衛兵を使っていつでも潰せるんだからな! 後悔させてやる!」
笑い声に追われるように、足音が遠ざかっていく。窓から見えたその背中は、どぶ水を滴らせて、やけに小さかった。
胸がすく、とは思わなかった。ただ、三年間ずっと胸の底に溜まっていたものが、一粒だけ、ほどけた気がした。
嵐が去った店に、朝の静けさが戻ってきた。テーブルの脇の椅子が一脚倒れ、入り口の足拭きマットは泥まみれだった。
「申し訳ありません、アルノ様」
倒れた椅子を起こしながら、私は深く頭を下げた。
「私の過去のごたごたのせいで、お店を汚してしまいました。あんな人を、ここに引き込んでしまうなんて」
「お前が謝ることじゃない」
アルノはピールを壁に立てかけ、手早く足拭きマットを直し、何事もなかったように私の手から椅子を受け取って元に戻した。苛立ちも焦りもない。いつも通りの静けさだった。
そして、不意に私の手を取った。
大きな手が、私の右手首を下から支える。袖口を少しだけ上げて、赤くなっていないかを、真剣な目で確かめた。
「掴まれたか」
「いえ。袖をかすめただけです」
「そうか」
手を離す前に、親指がほんの一瞬、手首の内側に触れた。それから、アルノは咳払いをして、顔を背けるように作業場へ引っ込んだ。
「客を守るのは、店主の仕事だ。怪我がないなら、それでいい。座れ。スープが冷めちまったな」
耳の先が赤かったのが、見えてしまった。
アルノは冷えたスープのカップを持っていって、小さな手鍋に移し、火にかけた。薪がパチパチと鳴って、やがて玉ねぎとチーズの甘い湯気が、また立ち上り始める。その背中を見ながら、さっきの捨て台詞を思い出した。
「アルノ様。あの方は、去り際に『衛兵を使って潰す』と言っていました」
「ああ、聞こえてた」
「あの人の性格なら、恥をかかされた腹いせに、王都の市街監督窓口か警邏隊に、虚偽の通報を入れるでしょう。平民を踏みつけるためなら、職権を振りかざして嫌がらせをする人です」
アルノは温め直したスープをカップに戻して、私の前に運んできた。立ち上る白い湯気の向こうで、低く息を吐く。
「言いがかりなら、昔から慣れてる。だが、役人が踏み込んでくれば、営業は一時止まるかもしれん。お前にも迷惑がかかるな」
「いいえ」
私は首を横に振って、鞄の中の、きれいに綴じた真新しい帳簿を撫でた。
「迷惑ではありません。営業許可証の更新の控えも、仕入れ伝票の照合も、衛生管理の記録も、全部この帳簿に整えてあります。どんな役人が来ても、突かれる隙はありません」
アルノはふっと目を見張って、それから口の端をわずかに上げた。
「そうだったな。お前がいてくれるんだった」
その短い一言に込められた信頼が、胸の奥を温めた。
スプーンを取って、温め直したオニオンスープを啜る。チーズのコクと、玉ねぎの甘みが、冷えていた胃に落ちていく。外でどんな理不尽な嵐が吹いても、この温かい朝食と、この場所だけは、絶対に守る。
熱いスープの湯気の向こうで、私は静かに拳を握った。




