第7話
時計塔の鐘が六時を打つ十五分ほど前に、東区の路地裏に着いた。早く目が覚めて、じっとしていられなかったのだ。
石造りの店の窓からは、もう橙色の灯りが漏れていて、煙突から立ちのぼる煙が朝霧に溶けている。扉に手をかけると鍵はかかっておらず、鈴がちりんと鳴った。
「早いな。まだ六時前だぞ」
作業場の奥、真っ赤に熾った窯の前から、アルノが顔を出した。前掛けはもう粉で白く、額に薄く汗が浮いている。大きな木のボウルを抱えて、粉の配合を確かめているところだった。
「おはようございます。早く目が覚めてしまって。ご迷惑なら、外で待ちます」
「構わん。外は冷える、入れ」
顎で店内を示される。足を踏み入れると、薪の匂いと窯の熱気が、冷えた頬を包んだ。
アルノは作業台に戻り、天秤でライ麦粉と小麦粉を量り始めた。無駄のない速い動きを眺めているうちに、手持ち無沙汰になってきた。
「あの、何かお手伝いできることはありますか。粉を量るくらいなら、私にもできます」
「客にやらせる仕事じゃない。契約にも入ってない」
「朝ごはん前の運動です。座って待つより、手を動かしていたいんです」
袖をまくって見せると、アルノは呆れたように片眉を上げた。それでも短く息を吐いて、木の匙を差し出してきた。
「なら、そっちの樽からライ麦粉を量れ。この錘と同じ重さで、五杯分だ」
「はい!」
匙で粉をすくい、天秤の皿に移していく。隣では、アルノが大きな桶の水に酵母を溶いている。並んで作業していると、嫌でも彼の腕が目に入った。
まくったシャツの袖から伸びる太い前腕には、昨日も見た刀傷が、白い線になって何本も走っている。桶の縁をつかむ手には、人差し指と親指の付け根から手のひらの外側にかけて、分厚く盛り上がった硬い皮膚。粉をこねたり、荷を運んだりして付くたこではなかった。剣の柄を、狂いなく握り込み続けた人の手だ。
胸の中でずっとくすぶっていた問いが、勝手に口から出た。
「アルノ様。その手の傷とたこは、剣の鍛錬でついたものですね」
静かな店に、自分の声が思ったより大きく響いた。
アルノの手が、ぴたりと止まった。桶の水面に小さな波紋が広がって、やがて消える。薪の爆ぜる音だけが残った。踏み込みすぎたかと息をつめた時、アルノがゆっくり顔を上げた。灰色の目に、怒りも動揺もない。凪いだ湖みたいに静かだった。
「分かるのか」
「はい。貴族街にいましたから、騎士や近衛の方を見る機会は多かったんです。アルノ様の身のこなしや、周りを見る目は、普通の職人のものではありません」
逸らさずに見つめ返すと、アルノは自分の手のひらに目を落とした。
「元近衛騎士隊の小隊長だ。三年前まで、王宮で剣を振ってた」
近衛騎士隊。国王と王室の身辺警護を担う、王国屈指の精鋭だ。平民出身で小隊長まで上がったのなら、どれほどの武功と鍛錬を積んだのか、想像もつかない。
「やっぱり。どうして、その地位を捨ててパンを?」
近衛の小隊長なら、名誉も俸給も約束されていたはずだ。アルノは粉のついた手を前掛けで払って、窯の赤い火を見つめながら話し出した。
「外から見りゃ、近衛なんぞ華やかな栄誉職だろう。だが、あの白い城の中でやってたのは、貴族の派閥争いと足の引っ張り合いの片棒だ」
低い声に、苦いものが混じる。
「要人警護と言いながら、命じられるのは、誰が誰と会ってるかの見張り番と、上の不祥事の揉み消しだった。ある日、派閥争いの身代わりで、何もしてない部下が一人、罪を着せられて地方に飛ばされた。俺は隊長として抗議したが、上からは『全体の秩序を守るための、尊い犠牲だ』と一蹴された」
アルノは拳を握った。浮き出た血管が、当時の怒りを物語っている。
「それで気づいた。俺が毎日磨いてた剣は、誰かを守るためのものじゃなかった。権力者の嘘を隠す目隠し布だった。辞表を叩きつけて、親父が残したこの店で、粉をこね始めた」
炎に照らされた横顔は険しくて、痛いほど孤独に見えた。
「パンは嘘をつかない。手を抜けば膨らまないし、火加減を間違えれば焦げる。ちゃんと仕込めば、誰の腹も満たしてくれる。誰かの保身の盾にされるより、うまいと言って食う奴の顔を見てる今の方が、よっぽど生きてる気がする」
飾らない言葉が、まっすぐ胸に刺さった。この人は、私と同じだったのだ。他人の嘘を隠すための道具にされて、すり減って、自分の足でその檻から出てきた人。
「よく分かります」
声が、少し震えた。
「私も同じでした。婚約者の浮気を繕って、嘘の詫び状を代筆するたびに、手が汚れていくような気がしました。人の過ちを隠すために使う技術ほど、惨めなものはありません」
木の匙を置いて、アルノの灰色の目を正面から見た。
「だから、アルノ様がその手でパンを焼くと決めた日々を、私は尊敬します。誰の嘘も混ざっていないあなたのパンに、私は救われました。その選択は、間違っていません」
アルノが目を見開いた。同情でも慰めでもない、同じ泥を知っている人間の言葉だと、伝わったのだろう。強張っていた表情が、ふっとほどけた。
「そうか。お前に言われると、悪くないな」
口元を手で隠す。その耳が、薄く赤くなっていた。
遠くの時計塔が、六時の鐘を鳴らした。同時に、窯の中でパチパチと焼ける音が弾ける。
「よし、焼けたぞ」
アルノが長いピールを操って、窯の奥から鉄板を引き出した。並んでいるのは、いつもの飴色のクロワッサンだけではなかった。掌ほどの、素朴な丸いライ麦パンもある。
「昨夜の仕込みの余りを、窯の余熱で焼いた。さっきお前が量ってくれた粉は、明日の分になる。礼に、先に食わせてやる」
丸テーブルに、熱々のパンと、昨日の残りの南瓜のポタージュが並んだ。
「二日目の方が旨い。座れ、冷める前に食うぞ」
「はい!」
席に着くと、アルノは焼きたてのライ麦パンを太い両手で豪快に二つに割った。パリッと皮の割れる音がして、真っ白な湯気と一緒に、穀物の力強い香りが立ちのぼる。湯気の向こうから、半分が私に差し出された。受け取る時、指先が少し触れた。パンより熱かった気がした。
指が火傷しそうなほど熱くて、ずっしり重い。かじると、皮は歯ごたえがあって、中はもっちり吸いつくように柔らかい。噛むほどに、ライ麦の酸味と穀物の甘みが広がって、鼻に抜けていく。バターの派手さはないけれど、土と火の温もりがそのまま入っているような、力強い味だった。
「おいしいです。身体の芯から、元気が出てくるみたいな味ですね」
「そうか。お前がちゃんと量ってくれたおかげだな」
カウンターの向こうで自分の分をかじりながら、アルノがふっと笑った。飾り気のない、初めて見る笑い方だった。
身分も過去の傷も関係なく、毎朝、誠実に作られた温かいものを分け合う。それだけのことが、今の私には、何にも代えがたい宝物だった。
食べ終えた皿をカウンターに運んだ時、アルノの手が止まった。眉を寄せて、入り口のガラス窓の方を見ている。
「アルノ様? どうかなさいましたか」
「いや」
短く答えながら、彼の目は路地の向こうを射ていた。つられて私も外を見る。朝霧が薄れ始めた路地の、向かいの建物の角で、物陰が不自然に揺れたような気がした。
「気のせいか。大通りに出るまで、気をつけて行け」
「はい。ごちそうさまでした」
見送られて店を出たけれど、冷たい風の中に、胸騒ぎがひとかけら残っていた。あの物陰の気配。身勝手で執念深い、見覚えのある影が、すぐそこまで来ている気がしてならなかった。




