第6話
商業ギルドの仕事を終えて夕暮れに男爵邸へ戻ると、一階の居間で父のテオドールが険しい顔をして待っていた。普段なら自室でくつろいでいる時間だ。私が入ると、父は立ち上がって、押し殺した声で言った。
「セリア、お前が出ている間に、昼過ぎ、ユリウス殿がここへ乗り込んできた」
「ユリウス様が?」
眉をひそめる。破談の書面を交わしたのは昨日だ。その翌日に押しかけてくるなんて、常識がなさすぎる。
父は重い溜め息をついて、昼間のことを話し始めた。
「血相を変えて玄関で怒鳴り散らしてな。『セリアを出せ』『あいつに手紙を書かせろ』と。聞けば、侯爵への釈明が完全に行き詰まったらしい」
「行き詰まった、とは」
「お前の代筆がないものだから、自分で侯爵宛ての釈明状を書いたそうだ。それが酷かった。『ご令嬢が泥酔してすがりついてきたのを、親切で介抱しただけで、自分に非はない』などと、相手を貶めて自分をかばうだけの文面だったらしい」
予想通りの顛末に、冷めた溜め息が漏れた。
宮内卿を務める名門侯爵家に、そんな責任転嫁が通るはずがない。これまでは、私が角を立てないよう、相手の自尊心を傷つけないよう言葉を選んできたから、彼の浅はかな失敗は表に出ずに済んでいただけだ。
「侯爵のお怒りは頂点に達して、王宮の儀典室へ正式に抗議が入った。ユリウス殿は役職を解かれる寸前だ。夜会でも朝帰りの噂が広まって、茶会の招待がぱったり止まったと聞く。つい先週まで取り巻いていた友人も、誰も寄りつかんらしい。追い詰められた挙げ句に、『セリアが完璧な手紙を書き直せば全部丸く収まるんだ』と、うちの使用人に掴みかからんばかりでな」
「どこまでも身勝手な方ですね」
「私は破談の成立文書を突きつけて、これ以上騒ぐなら不法侵入で警邏隊を呼ぶと言って追い返した。だが、あの目は尋常じゃなかった。自分の保身しか頭にない人間が追い詰められると、何をするか分からん。セリア、しばらく外出を控えたらどうだ。ギルドの仕事も、家で済むものだけにして」
父の声には、娘を案じる、飾りのない怯えがあった。
私を盾にしていた人が、今は本気で私を守ろうとしてくれている。その変化は嬉しかった。それでも、私は首を横に振った。
「ご心配ありがとうございます、お父様。でも、家に閉じこもるつもりはありません。新しい仕事も暮らしも、あの人の癇癪のせいで止める理由がありませんから」
「しかし」
「身の回りには気をつけます。胸を張って生きると決めたんです」
笑ってみせると、父は困ったように眉を下げたが、それ以上は止めなかった。
自室に戻ってベッドに入ってからも、ユリウスの執念深さが冷たい棘みたいに胸に刺さって、なかなか眠れなかった。
翌朝六時。路地裏のパン屋に入ると、香ばしいバターの匂いと一緒に、焼きたてのクロワッサンが迎えてくれた。今朝のスープは、鮮やかな黄色の南瓜のポタージュ。
一口飲むと、南瓜の濃い甘さに、スパイスがほんのり香った。昨夜から固まっていた肩が、ゆっくりほどけていく。
「いただきます」
ざくっ。
文句のつけようがない焼き加減だった。外の層が崩れて、バターのコクが広がる。おいしい。それなのに、父から聞いたユリウスの醜態が頭をよぎって、気づかないうちに、小さな溜め息が漏れていた。
食べ終えて、昨日の契約通りに鞄から羽ペンとインク壺を出す。アルノが、きれいにまとめた納品伝票の束と、真新しい台帳をカウンターに置いてくれた。
「頼む」
「はい、お任せください」
丸テーブルに伝票を広げて、仕入れ日、品目、数量、単価を台帳へ写していく。粉問屋、薪の配達人、酵母の手配先。一枚ずつ数字を突き合わせて、狂いがないか確かめる。三十分は短いけれど、毎日分けてやれば十分に収まる量だ。ペン先が紙を引っ掻く音だけが、静かな店に響いた。
カウンター越しに、アルノが作業を見守るように立っていた。顔を上げると、灰色の目と視線がぶつかった。
「何かあったのか」
低く掠れた声だった。私はペンを止めた。
「え?」
「朝から、妙に顔色が硬い。溜め息もついてた」
見抜かれていた。無口で不愛想な人なのに、客のわずかな変化を本当によく見ている。誤魔化すのも不誠実な気がして、ペン先をインク壺の縁で整えながら、事実だけを短く話した。愚痴にして長引かせたくはなかった。
「破談になった元婚約者が、昨日、実家に怒鳴り込んできたと、父から聞きました。自分が招いた不始末をどうにもできなくて、私に釈明の手紙を書かせたがっているようです」
「……」
「でも、大丈夫です。婚約は正式に解消されていますし、私にはもう関係のないことですから。毅然と対処します」
笑って話を締めようとした。けれどアルノの表情は緩まなかった。日に焼けた顔の眉根が深く寄って、彫りの深い目元に険しい影が落ちる。
「逆上した男は、理屈じゃ動かん。面子をつぶされた貴族なら、なおさらだ」
「アルノ様?」
「お前が正しくても、相手が正気じゃなけりゃ意味がない。一人で歩く時は、周りに気を配れ」
ぶっきらぼうだったけれど、そこに嘘はなかった。感情を荒げず、危険だけを淡々と見ているその言い方は、町のパン屋というより、戦場を知る人のものだった。
「はい。肝に銘じます」
素直に頷くと、アルノは短く息を吐いて、それ以上は何も聞かなかった。深入りせず、詮索もせず、必要な注意だけ渡してくれる。その距離感が、胸にじんわり染みた。
十五分ほどで、伝票の照合と記帳が終わった。台帳を整えて、カウンターに差し出す。
「今日の分は終わりました。小麦粉の納品数も、先日訂正した請求額と一致しています」
アルノは台帳をめくって、並んだ数字に目を細めた。
「見事だな。数字が生きてるみたいだ」
「お役に立てて何よりです。では、また明日の朝に」
道具を鞄にしまって、扉へ向かう。いつもなら、私が席を立てば、彼はすぐ作業場に戻って次の仕込みを始める。でも今朝は、背後でどさりと音がして、振り返るとアルノが前掛けの粉を払って、大きな身体で扉の前まで来ていた。
「アルノ様?」
返事の代わりに、彼は黙って木の扉を開けた。それから、窯から離れすぎない店先の敷居に片足をかけ、腕を組んで、朝霧の残る路地の左右を鋭い目で見渡した。
角の物陰、向かいの建物の隙間、行き交う人影。隙のない視線で、通りの安全を一つずつ確かめている。要人を警護する武官が、護衛の前に周囲を見回す時の、研ぎ澄まされた気配だった。
「大通りに出るまで、足を止めるなよ」
路地に目を据えたまま、低く落ちた声。
見上げるような背中と、広い肩幅。まくった腕に残る、白く深い刀傷。その背中が、私を守ろうとして立っている。そう思うだけで、心臓が小さく鳴った。
これだけ研ぎ澄まされた人が、どうして街外れの片隅で、一人静かにパンを焼いているのだろう。彼が背負ってきたものに、触れてみたいと思った。
「はい。行ってきます」
一礼して歩き出す背中に、店先からの視線がずっと注がれていた。大通りに出るまで、その視線は、焼きたてのパンみたいに温かかった。




