第5話
アルノに帳簿を頼まれたその日の午後、私は男爵邸の書斎に呼ばれた。
執務机の前に立つと、父のテオドールが、珍しく晴れやかな顔で羊皮紙を一枚差し出した。末尾に、ベルンシュタイン伯爵家の赤い封蝋と、当主の署名が押されている。
「セリア、正式に決着がついたぞ。婚約解消の文書だ」
「正式に、ですか」
受け取って目を落とす。双方合意のうえで婚約を白紙に戻すこと、結納金などの貸し借りも互いに請求しないことが、隙のない法の言葉で綴られていた。
父が肩の力を抜いて、パイプに火をつける。
「伯爵ご自身が、わざわざうちへ足を運ばれてな。深く頭を下げていかれた。ラインハルト侯爵のお怒りは大変なものだったそうだ。登城前にベルンシュタイン邸へ押しかけて、ご令嬢が朝帰りした経緯を、ユリウス殿に直接問い詰めたらしい。ユリウス殿は言い訳を重ねたそうだが、お前の代筆がない稚拙な嘘など、百戦錬磨の侯爵には通用せん」
「そうでしたか」
「伯爵も、息子の素行には前々から頭を抱えておられたようだ。お前がこの三年、どれだけ尻拭いをしていたかも、今回初めて知ったとおっしゃった。これ以上醜聞が広がる前に、と伯爵の主導で破談が決まった。ユリウス殿は暴れて抵抗したそうだが、当主の決定だ。覆らん」
羊皮紙を持つ指に、少し力が入った。
これで、法のうえでも、身分のうえでも、私は自由の身になった。これからユリウスが何を言ってこようと、婚約者としての権利ではなく、赤の他人の迷惑行為でしかない。伯爵家の名を盾にして呼びつけることも、もうできない。
「セリア、お前には苦労をかけた。これからは家の都合に縛られず、少しゆっくり休むといい」
「ありがとうございます、お父様。でも、筆耕の仕事は続けます。自分の暮らしは、自分の力で立てたいので」
父は目を丸くしたが、私の顔を見て、やがて優しく笑った。
「そうか。好きにしなさい」
翌朝六時。東区の路地裏の扉を開けると、鈴の音と一緒に、昨日よりさらに濃いバターの香りが迎えてくれた。
「いらっしゃい」
作業場から出てきたアルノは、私を見るなり、少し口を引き結んで、焼き上がったばかりの皿を運んできた。
丸テーブルに置かれたクロワッサンを見て、あっと思った。焼き色が、いつもよりさらに深い。艶のある濃い飴色で、重なった層の一枚一枚が鋭く立っている。初めて来た翌朝に私が「この焼き加減が好き」と言ったのを、覚えていてくれたのだ。
添えられたのは、蕪と豆の温かいポタージュだった。アルノは何も言わず、視線だけで「食え」と促す。
「いただきます」
ざくっ。
乾いた軽い音がして、外の層がほどけた。続けて、中から熱いバターがじゅわっと溢れる。口いっぱいに広がる味に、胸の奥が熱くなった。口数の少ない人が、パンの焼き加減ひとつで、ちゃんと返事をしてくれている。
スープを最後まで飲んで、姿勢を正した。昨日、彼に頼まれたことの返事をする時だ。カウンターの向こうで粉をこねていたアルノが、私の様子に気づいて手を止めた。
「アルノ様。昨日の、帳簿のお話ですが」
「……ああ」
灰色の目に、小さな緊張が走る。断られると思っているのが、硬い表情で分かった。
私は鞄から、昨夜のうちに自室で清書してきた羊皮紙を出して、カウンターに広げた。
「お引き受けします。ただし、条件があります」
「条件?」
「はい。私は、曖昧な善意や、ただの好意で仕事を受けるつもりはありません。前の私は、なあなあの親切から始めて、不満をため込んで、関係を歪めてしまいました。同じことはしたくないんです。ですから、きちんと契約させてください」
アルノは怪訝そうに眉を寄せて、羊皮紙をのぞき込んだ。公認筆耕人の書式で几帳面に書いた約定が、ずらりと並んでいる。
「これは何だ。字が細かい」
「契約書です。まず、作業は毎朝、朝食のあとの三十分以内。納品伝票の照合と、売上台帳の記帳をします。毎日少しずつ処理すれば、それで足ります」
「三十分で、本当にできるのか」
「できます。コツは、伝票が届いた時点で仕分けておくことです。粉は赤、薪は青、酵母と雑費は黄色の紐に通してください。通すだけなら、アルノ様にもできるでしょう?」
「通すだけなら、まあ」
「それなら私は、紐ごとに台帳へ写すだけです。毎日続ければ、三十分で足ります。そして報酬は、毎朝の朝食です。クロワッサンと、日替わりのスープ」
「は?」
アルノがぽかんと口を開けた。彫りの深い無骨な顔に、あからさまな困惑が浮かぶ。
「それだけか? 金はいらないのか」
「いりません。今の私に、朝食以上に大事なものはありませんから」
「だが、お前のは専門の技術だろう。パン一個とスープ一杯じゃ、割に合わないんじゃないか」
不器用な気遣いだった。買い叩くどころか、自分が出すものが少なすぎると心配しているのだ。口元がゆるみそうになるのを引き締めて、私は続けた。
「粉問屋の過大請求を防ぐだけで、このお店には毎月、銀貨二枚近く残ります。それでも私は、毎朝ここで朝食をいただくことの方を取ります。私の三十分と、アルノ様の朝食は、私の中で釣り合っているんです」
そして、一番大事な行を指で示した。
「最後に、この取り決めには『一ヶ月の試行期間』を付けます。作業が多すぎて私の負担になったり、私の記帳が使いにくかったりしたら、いつでも見直して、解消できます。いかがですか」
アルノはしばらく、羊皮紙に並んだ細かい文字を見つめていた。やがて息を吐いて、太い指で後頭部を掻いた。顔から緊張が抜けて、参ったと言いたげな苦笑が浮かんでいる。
「大したもんだな。貴族の令嬢ってのは、もっと世間知らずかと思ってた」
「失礼ですね。これでも修羅場をくぐってきたんです」
「そうらしい。分かった。その条件で頼む」
前掛けで粉を払って、アルノが右手を差し出した。分厚くて硬い手のひらには、無数の傷と、剣のたこが残っている。私はその手を、しっかり握り返した。
「よろしくお願いします、アルノ様」
「ああ。明日から、食い終わったら伝票を出しておく」
握った手は、思っていたより温かかった。恩を着せる側と着せられる側ではなく、互いの暮らしを支える相手として始まったのだと、その温度で分かった。
社交界で歯ぎしりしているはずのユリウスの顔が、ちらりと浮かんだ。けれどそれは、窯の残り香に混ざって、すぐに薄れた。
私の朝には、焼きたてのパンと、書面になった約束がある。




