第3話
朝食を終えて男爵邸に戻った私は、自室の机で、これからの暮らしを紙に書き出していた。
父は破談の通知を出してくれたけれど、婚約が消えれば、持参金や結納に絡んだ取り決めも白紙になる。ただでさえ苦しいハルデン家の家計に、私を養う余裕はない。これ以上、実家に生活費を出してもらうわけにはいかなかった。
私にできるのは、書類を整えることと、字を書くことだけ。それなら、それで食べていけばいい。もちろん、誰かの浮気を取り繕う手紙は、二度と書かない。
昼過ぎ、濃紺の簡素なワンピースに髪をきっちり結い上げて、王都中央区の商業ギルドへ向かった。重厚な石造りの本部は、商談の声と荷運びの足音で熱気に満ちている。案内板に従って二階へ上がり、公認筆耕人の受付窓口に立った。
「公認筆耕人の登録を申請したいのですが」
窓口にいた初老の受付官が、眼鏡の奥から疑わしげに私を見上げた。身なりから、没落貴族の娘だと見当をつけたらしい。
「お嬢さん、ここは宮廷の社交辞令を清書する場所じゃありませんよ。商いの契約書や帳簿の写しは、数字一つ、文字の掠れ一つで大きな損が出る。見栄えより速さと正確さです。手習い程度なら、お引き取りを」
「心得ています。筆記試験を受けさせてください」
受付官は鼻を鳴らして、羊皮紙と羽根ペンとインク壺を机に置いた。出されたのは、香辛料の仕入れに関する売買契約書の草案だった。わざとなのか、ひどい悪筆で、略字と数字の訂正が入り乱れている。
「制限時間は三十分。正確に読み取って、標準書式で清書しなさい」
ひと息ついて、ペンを執った。
ユリウスの言い訳は、いつも乱雑だった。支離滅裂な走り書きを読み解いて、礼法にかなった書状に仕立て直す。それを三年続けてきた身には、この程度の悪筆は怖くない。数字を頭の中で検算しながら、日付の前後と約定の抜けを整理して、一定の筆圧でペン先を走らせた。紙の上で、カリカリと硬い音だけが続く。
「できました。ご確認ください」
二十分もたたないうちに差し出すと、受付官は眉を上げた。眼鏡を押し上げ、一行ずつ丹念に追っていく。冷たかった表情が少しずつ解けていって、最後には、唸るような声が出た。
「これは見事だ。字の美しさもだが、草案にあった数量の計算違いまで、欄外に朱で指摘してある。飾り文字もなくて、実務向きで読みやすい」
「急ぎの書類を扱う機会が多かったものですから」
嘘ではない。その書類が、他人の浮気の揉み消しだったというだけで。
受付官は姿勢を正して立ち上がり、木の札を差し出した。
「失礼な物言いを詫びます。実力は疑いようがない。ハルデンさん、公認筆耕人として登録しました。さっそくですが、急ぎの清書があります。織物商組合の納品契約書が三通。夕刻までに仕上げられますか」
「喜んでお引き受けします」
ギルドの片隅の作業卓を借りて、日が傾くまでペンを走らせた。誰かの過ちを繕うための言葉ではなく、取引の事実を保証するための文字。それを書き連ねるだけのことが、笑ってしまうほど誇らしかった。
夕刻、納品すると、木のトレイに乗った小銭を渡された。
銅貨八枚。
手のひらに落ちたそれは、驚くほど冷たくて、重かった。伯爵家から気まぐれに与えられた装身具より、自分の腕と時間で稼いだこの八枚の方が、ずっと価値がある。そう思えた。
革の財布に大切にしまって、夕闇の道を家路についた。
翌朝六時、時計塔の鐘と一緒に、東区の路地裏のパン屋の扉を押した。ちりん、と鳴る真鍮の鈴。
「いらっしゃい」
粉を払いながら出てきたアルノは、私の顔を見て、昨日よりほんの少し自然に窯の方を振り返った。三度目の朝だ。もう、私が六時に来ることに驚いたりはしなかった。
「座ってろ。すぐ出す」
「はい、おはようございます」
丸テーブルで待つと、じきに皿が運ばれてきた。クロワッサンの立ち上らせる湯気から、焦がしバターの香りが強く広がる。今朝のスープは、刻んだ根菜と塩漬け豚を煮込んだ、琥珀色のコンソメだった。
「いただきます」
ざくっ。
香ばしい外側の層がほどけて、中のしっとりした生地からバターの甘みがにじむ。熱いスープを啜ると、豚肉の旨味が喉を通って、身体の隅々まで温かくなった。おいしい。昨日と同じ、いい味だ。
でも、今朝の朝食は昨日までと決定的に違う。
今、食べているこれは、実家のお金でも誰かの厚意でもない。昨日、自分の手で稼いだお金で払う食事だ。噛むたびに、胸の底から誇らしさが湧いてくる。人の顔色をうかがわずに食べる朝ごはんが、こんなに満ち足りたものだとは知らなかった。
最後の一口を飲み込んで、カウンターへ行く。財布から昨日の銅貨を出して、三枚並べた。
「ごちそうさまでした。パンとスープの代金です」
「ああ」
アルノが太い指を伸ばして、銅貨を引き寄せようとした。その手が、ぴたりと止まる。灰色の目が、小銭を置いた私の右手の指先に留まっていた。
中指の側面と人差し指の腹に、青黒いインクの染みがくっきり残っている。昨日、何時間もペンを握り続けて、洗っても落ちきらなかった跡だ。
「書く仕事か」
低く掠れた声だった。私は自分の指を見て、苦笑いして頷いた。
「はい。昨日、商業ギルドで公認筆耕人の登録をして、契約書の清書を引き受けました」
「令嬢が、か」
アルノは私の簡素だが仕立てのいい服を一瞥して、静かに言った。馬鹿にする色も、哀れむ響きもない。事実を確かめているだけの、平らな声だった。
「はい。誰かに養われるのではなくて、自分の朝食代くらいは、自分で稼ぎたいんです」
背筋を伸ばして答えると、アルノはしばらく無言で私を見ていた。それから銅貨を木箱に滑り込ませて、短く息を吐いた。
「そうか。真面目だな」
それだけだった。貴族の娘がどうして下町で働いているのか、家に何があったのか、彼は一言も聞かない。ただ、私の選んだことをそのまま受け取って、一人で食べていこうとする人間として扱ってくれた。その踏み込みすぎない距離が、胸にしみるほど心地よかった。
「明日も、六時に伺いますね」
「ああ。焼いて待ってる」
私が笑うと、アルノの口元もわずかに緩んだ。会釈をして出ようとした時、カウンターの端に積まれた紙の山が目に入った。
羊皮紙の切れ端、折れ曲がった伝票。小麦粉をかぶった紙には殴り書きの数字が並び、計算が合わなくなったのか、太い線で何度も塗りつぶされている。アルノがその山をにらみつけて、忌々しそうに頭を掻いていた。
あんなに見事なパンを焼く人なのに、数字と書類の扱いには、相当手こずっているらしい。
「アルノ様?」
声をかけると、彼は慌てて紙の山に布巾をかぶせ、咳払いをした。
「なんでもない。冷えるから、気をつけて帰れ」
「あ、はい。ありがとうございます」
無理に聞くのは無作法だと思って、一礼して店を出た。
東の空から、柔らかい光が差し込んでいる。財布に残った五枚の銅貨の重みを確かめながら、昨日の仕事の心地いい疲れを思い出した。自分で稼いで、自分で選んで食べる。私の新しい暮らしは、確かに始まっていた。
それでも、歩きながら思い出すのは、カウンターの隅で頭を抱えそうになっていた大きな背中のことだった。
あれだけのパンを焼く人が、どうして、あんなに数字に困り果てているのだろう。
小さな引っかかりを抱えたまま、朝の街を歩いた。




