第2話
東区から男爵邸に戻ると、書斎の扉の隙間からパイプ煙草のにおいが漏れていた。
深く息を吸って背筋を伸ばし、扉を叩く。
「お父様、セリアです。戻りました」
「入れ」
低くて重い声に応えて中へ入ると、机に向かっていた父のテオドールが顔を上げた。机の上には領地の収支報告書と、支払いの催促状の束が山になっている。
「朝早くに呼び出されたそうだな。ユリウス殿は、また何かやったのか」
父はパイプを灰皿の縁に置いて、眉間を揉んだ。声に、伯爵家の機嫌を損ねることへの怯えがにじんでいる。以前の私なら「大したことではありません」と取り繕っていた。でももう、その役目は終わりだ。
「はい。お部屋に女物の外套が掛かっていました。昨夜はラインハルト侯爵のご令嬢と宿に泊まって、朝帰りだそうです」
「ラインハルト侯爵だと!?」
父が椅子を鳴らして立ち上がった。机に身を乗り出した顔から、血の気が引いている。
「なぜよりによって、宮内卿のご令嬢に手を出すのだ、あの男は!」
「介抱していただけだと言い張って、私に『我が家でお預かりしていた』という偽りの釈明状を書けと。手土産の菓子も手配しろと言われました」
「それで、書いたのか。角を立てずに収めてくれたのだろうな」
すがるように見つめる父に、私は黙って首を横に振った。
「お断りしました。指輪を羊皮紙の上に置いて、婚約は白紙に戻すと伝えてきました」
「何を考えている! 我が家の台所事情を知らんわけではあるまい!」
父が机を叩く。私は一歩も退かなかった。
「お父様。この三年、私は女優への詫び状も、泣かせた令嬢への宥め文も、全部代筆してきました。でも今回は相手が侯爵家です。嘘の書状で辻褄を合わせて、あとから露見したらどうなるでしょう。伯爵家は必ず『男爵令嬢が勝手に書いた偽書だ』と言って、私に責任を押しつけます。そうなったら潰れるのは、うちです」
「それは」
父の唇が震えて、言葉が途切れた。
「私はもう、他人の罪をかぶるために朝食を抜く暮らしには戻りません。伯爵家が不当に責めてくるなら、社交界の証言台にだって立ちます。外套のことも、ユリウス様ご本人の言葉も、ありのままに申し上げます」
声は荒げなかった。事実と損得を、順に並べただけだ。
父は机に手をついたまま、しばらく私を見ていた。怒りが引いたあとに残ったのは、深い疲れと、自分を恥じる色だった。やがて椅子に崩れ落ちて、両手で顔を覆う。
「すまなかった、セリア。そこまでお前に泥をかぶせていたとは、知らなかった。いや、知ろうとしなかったのだな。縁談を守ることばかり考えて、お前を盾にしていた。朝飯も食わずに走り回っていたことさえ、私は聞こうともしなかった」
指の間から漏れた声は、ひどく掠れていた。顔を上げた父の目は、覚悟を決めた目になっている。
「お前の言う通りだ。侯爵家を欺く手紙など、書かせるわけにはいかん。伯爵家には、私から正式に破談の通知を送る。向こうが息子の不始末を棚に上げて抗議してくるなら、受けて立つ。もう、あちらに頭を下げる必要はない」
「ありがとうございます、お父様」
肩から重い荷物がするりと落ちた気がした。
翌朝は、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。
起き上がっても、胃は痛くなかった。胸をふさいでいた鉛もない。こんなに晴れた気分で朝を迎えたのは、いつ以来だろう。
動きやすい紺の外出着を着て、髪を手早く編み込み、小さな革の財布を握って、足音を忍ばせて屋敷を出る。
朝霧の貴族街を抜けて、坂を下りる。遠くの時計塔が鐘を鳴らし始めた。一つ、二つ、三つ。数えながら路地へ急ぐ。
六つ目が鳴る前に、石造りの店の窓の前に着いた。橙色の灯りの下で、アルノが大きな手で生地を丸めているのが見える。あの無骨な指から、薄い層を重ねた繊細なパンが生まれるなんて信じられないくらい、手つきが丁寧だった。少しだけ見とれてしまって、六つ目の鐘が鳴り終わってから、真鍮の取っ手を引いた。
鈴が鳴った。
「……いらっしゃい」
奥から出てきたアルノは、昨日と同じ粉だらけの前掛け姿だった。扉の前に立つ私を見て、灰色の目が一瞬だけ丸くなる。本当に来るとは思っていなかったらしい。
「おはようございます、アルノ様。約束通り六時です」
「ああ。座ってろ」
鼻を鳴らして奥へ引っ込む。ガラリと窯の扉が開く音がして、昨日よりも濃い焦がしバターのにおいが店に満ちた。
運ばれてきたのは、昨日と同じ飴色のクロワッサンだった。薄い層が、チリチリと小さく鳴っている。カップには、すりおろした蕪と玉ねぎの白いスープ。
「いただきます」
待ちきれずにかじる。
ざくっ。
外側のほろ苦い層がほどけて、中のしっとりした生地からバターの甘みが溢れた。スープは野菜の甘さで、空っぽの胃を静かに温めてくれる。
「おいしい」
カウンターの向こうで粉を量っていたアルノと、目が合った。彼は気まずそうに視線を泳がせてから、低く尋ねてきた。
「焼き加減はどうだ。うちは焼き色が濃い。苦いと言う奴もいる」
「とんでもない! しっかり焼き込んだほろ苦さがあるから、中のバターの甘さが引き立つんです。この焼き加減が、私は好きです」
力を込めて答えると、アルノはきょとんとして、それから太い指で口元を撫でて目を逸らした。
「そうか。ならいい」
素っ気ない声だった。でも、肩の力が抜けたのが見えた。
最後の一口まで食べて、カウンターへ向かう。
「ごちそうさまでした。おいくらですか」
「クロワッサンが銅貨二枚。スープが一枚だ」
昨日と違って、スープの分も代金を取られた。それが少し嬉しかった。施しではなく、ちゃんとした客として扱われた気がしたからだ。
財布から銅貨三枚を出して、カウンターの木肌に並べた。受け取る指には、やっぱり剣を握った人の硬いたこがある。
「明日も六時に来ていいですか」
「食いたいなら来ればいい」
背を向けて木箱に小銭をしまいながらの返事だったけれど、拒む響きはなかった。
「はい。楽しみにしています」
店を出ると、街はもう朝日の中だった。
父は今日、伯爵家へ破談の通知を送ってくれる。婚約が消えれば、男爵家への伯爵家の支援も消える。いつまでも父の庇護に甘えているわけにはいかない。他人の嘘を整える代筆ではなく、自分の腕で食べていく道を探さなければ。
不安は、不思議なくらいなかった。お腹の底の温かさが、私の背中を押してくれていた。




