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後始末のプロから言わせていただきますが、その嘘は穴だらけです  作者: 九葉(くずは)


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第1話

 朝の五時半に呼び出された部屋には、見知らぬ女物の外套が掛かっていた。


「だからさ、セリア。彼女が急に具合を悪くして、宿で介抱してたら夜が明けただけなんだ」


 長椅子にだらしなく沈み込んだ婚約者、ユリウス・ベルンシュタイン伯爵令息が前髪をかき上げる。顔立ちは整っているのに、襟元からは甘ったるい香水が匂い、薄紫のベストには葡萄酒の染みが散っていた。


「介抱、ですか。宿の部屋に内側から鍵をかけて、一晩中?」


「人聞きが悪いな! やましいことなんかないって言ってるだろ。ただ、相手がラインハルト侯爵のご令嬢なんだ。娘が帰らなかったことに、侯爵はもう気づいてる。今朝の登城前にうちへ乗り込んでくるらしい。僕の将来にも、ベルンシュタイン家の名誉にも関わるんだよ」


 ユリウスは舌打ちをして、卓上のペン立てから愛用のインク瓶を引き寄せ、私の方へ押しやった。その隣には、彼がいつも私に書かせる上質な羊皮紙が広げてある。


「君の文章なら角が立たない。『昨夜は伯爵家主催の慈善夜会の打ち合わせで遅くなり、我が家で丁重にお預かりしました』って、いつもの調子で頼む。手土産の手配もな。君の選ぶ菓子折りは年配受けがいいんだ」


 いつもの調子。


 その一言で、胸の奥が小さく乾いた音を立てた。


 この三年間、私の朝はユリウスの不始末から始まっていた。観劇帰りに女優を口説いて、怒鳴り込んできた劇場主への詫び状。夜会で二股をかけて泣かせた令嬢への宥め文。揉めるたびに伯爵家は私の実務の腕を当てにして頭を下げ、実家のハルデン男爵家は縁談を守りたいばかりに、私を現場へ走らせた。


 浮気を見張り、尻を拭い、関係各所に頭を下げて回る係。婚約者の肩書きがついているだけの、無給の後始末係だ。


 視線を落とすと、長椅子の背に掛かった外套が目に入った。薄桃色の、女物。


 宿で介抱していただけなのに、どうして相手の外套がこの部屋にあるのだろう。嘘をつくなら、そこまで片付けておけばいいのに。そこを片付けるのも、いつもは私の仕事だったけれど。


 銀のティーカップには、濁った紅茶が半分残って冷めきっている。今朝も急な使いに叩き起こされて、水一杯飲む暇もなく馬車に揺られてきた。胃が痛い。喉も渇いている。


 どうして私は、他人の不始末を片付けるために朝を迎えているのだろう。


「セリア? どうしたんだよ、早くしてくれ。侯爵が来るまで時間がないんだ」


 謝る気配はどこにもない。あるのは、片付けてもらって当然という顔だけだ。


 私はペンに触れなかった。右手の薬指から小粒のサファイアの指輪を抜いて、白紙の羊皮紙の真ん中に、ことりと置いた。


「お断りします。手紙も書きませんし、菓子折りも手配しません。婚約も白紙に戻させていただきます」


「は? 何を言ってるんだ。君が書かなきゃ僕がどうなるか、分かってるのか!」


「存じています。相応の罰を受けて、社交界で恥をおかきになるのでしょう。身から出た錆です。父には、ありのままを証言いたします」


「待てよ! おい、セリア! 僕を見捨てる気か!? 君の家だって困るはずだろ!」


「どちらの家がより困るか、お父上とよくご相談なさってください」


「セリアッ!」


 背後で長椅子を蹴り倒す音がした。怒鳴り声も聞こえたけれど、私は一度も振り返らなかった。


 廊下を抜けて、重い玄関扉を自分の手で押し開ける。怪訝な顔をした門番に会釈だけして、外へ出た。


 朝の冷気が頬に刺さる。さっきまで毒のように感じていた冷気と同じはずなのに、吸い込むと肺の奥まで澄んでいて、少し甘かった。


 終わったのだ。三年分の見張り番と後始末が。もう二度と、あの男のために頭を下げなくていい。そう考えただけで、足が勝手に軽くなった。


 貴族街の舗装道路を歩いていると、遠くの時計塔から鐘の音が降ってきた。低く、六つ。


 ぐう、とお腹が鳴った。


「そういえば、昨日の夜から何も食べていないわね」


 緊張の糸が切れて、身体がやっと自分のものに戻ったらしい。温かいものが食べたい。冷めた紅茶でも、胃に穴をあけるような言葉でもなく、湯気の立つ、ちゃんとした朝ごはんが。


 貴族街の店は、まだどこも閉まっている。実家に戻れば何か作ってもらえるけれど、帰れば騒ぎの説明が待っている。その前に、誰にも邪魔されない時間が少しだけ欲しかった。


 私は貴族街を抜けて、職人や商人の暮らす東の市街へ続く坂道を下った。


 朝霧の立ち込める石畳を歩いていると、鼻先を甘く香ばしいにおいがかすめた。焦がしたバターと、焼けた小麦のにおい。


「パン?」


 においを辿って路地を折れると、看板も出ていない石造りの小さな店があった。磨かれた窓の奥に、橙色の灯りが見える。窓辺の木のトレイには、濃い焼き色のパンが、うっすら湯気を立てて並んでいた。


 吸い寄せられるように木の扉を押す。ちりん、と真鍮の鈴が鳴った。


「すまないが、開店は七時からだ」


 奥の作業場から、低く掠れた声が返ってきた。


 出てきた店主を見て、私は言葉に詰まった。


 白い粉まみれの前掛けをしたその男は、パン職人という言葉から思い浮かべる姿とは、まるで違っていた。見上げるほど背が高く、肩幅が広い。粗末なシャツの上からでも胸板の厚さが分かり、まくった前腕には古い傷痕がいくつも走っている。灰色の鋭い目と彫りの深い無骨な顔は、下町のパン屋というより、戦場帰りの武官だった。


「窓の灯りが見えたので、つい。失礼しました」


 後ずさりしかけた私を、灰色の目がじっと見た。乱れた髪、急いで整えただけの簡素なドレス、青ざめてやつれた顔。値踏みされているはずなのに、嫌な感じがしない。ただ、よく見られているという感じだった。


「腹が減ってるのか」


「え?」


「顔色がひどい。倒れる前の人間の顔だ」


 令嬢に向ける口調ではない。けれど、そこに侮りはなかった。


「……はい。少し立て込んでいて、朝食をまだ」


 男は小さく息を吐いて背を向け、作業場へ引っ込んだ。追い出されるのかと思ったら、すぐに戻ってきた。手には木皿と、湯気の立つ陶器のマグカップ。


「金はあとでいい。座れ」


 壁際の小さな丸テーブルを顎で指される。おずおず腰を下ろすと、目の前に皿が置かれた。


 三日月形のパンだった。クロワッサン。


 王都の高級菓子店で見る、白くて上品なものとは全然違う。表面は深い飴色に焼き込まれていて、重なった薄い層が鋭く立ち上がっている。熱気と一緒に、バターの濃い香りが顔に当たった。


「焼きたてだ。冷める前に食え」


 男はそれだけ言うと、カウンターの向こうで黙々と小麦粉をふるい始めた。私の素性も、こんな時間にふらふら歩いている理由も、一言も聞いてこない。


 両手でクロワッサンを持ち上げる。熱い。指先に、じかに温もりが伝わってきた。端を少しかじる。


 さくっ。


 静かな店に、驚くほど鮮やかな音が響いた。薄い硝子細工が割れるような、軽い音。直後に、澄んだバターの甘さと小麦の香りが口いっぱいに広がった。外はびっくりするほど軽くて香ばしいのに、中はもっちりと柔らかい。塩気がほんの少し効いて、噛むほどに舌の上でほどけていく。


「おいしい」


 言葉が勝手にこぼれた。


 マグカップのスープは、玉ねぎと香草だけを煮込んだ、透き通ったコンソメだった。一口飲むと、熱いものが喉を通って、空っぽの胃に落ちていく。


 視界が急に滲んだ。


 温かい。誰の嘘も混ざっていない、ただの食事だ。こんな当たり前のことを、私はいつから忘れていたのだろう。


 夢中で食べた。指についた欠片まで惜しくて、最後の一粒を口に入れ、スープも飲み干した。食べ終わる頃には、指先の冷えも、胃の底の痛みも消えていた。


「ごちそうさまでした。生き返りました」


 カウンターへ行くと、男は粉を払ってこちらを見た。


「生き返った顔になったな」


「はい。こんなにおいしい朝ごはんは、生まれて初めてです」


 財布から銀貨を出しかけると、男は片手を上げて止めた。


「定価は銅貨二枚だ。銀貨なんぞ出されても釣りがない」


「でも、スープまでいただいてしまいましたし」


「開店前に押しかけられて出した、試作品の代金だ。二枚でいい」


 頑固な口ぶりに思わず笑って、私は手持ちの銅貨二枚をカウンターに並べた。


 小銭を受け取る男の手を、間近で見た。粉と火に慣れた、大きくて逞しい手だ。けれど親指の付け根と手のひらに、見覚えのある硬いたこがあった。剣の柄を何年も握り込んだ人の手だ。足運びも、背筋の伸び方も、やっぱりただの職人ではない。


「お名前を伺ってもいいですか」


「アルノだ。苗字はない」


「セリアと申します、アルノ様。このパンは、明日も同じ時間に焼き上がりますか?」


 アルノは意外そうに目を丸くして、短く鼻を鳴らした。


「クロワッサンが釜から出るのは毎朝六時だ。冷めたものは出さない」


「では、明日から六時に伺います。冷めないうちにいただきたいので」


 アルノは視線を逸らして、「勝手にしろ」と呟いた。ぶっきらぼうな横顔に、職人の意地と、ほんの少しの照れが見えた。


 店を出ると、街は朝日の中にあった。石畳が金色に光って、風が頬をなでていく。


 実家に戻れば、父に破談の説明をしなければならない。頭の痛い現実は、ちゃんと待っている。それでも足は軽かった。お腹の底に、スープとパンの温かさがまだ残っている。


 明日の朝六時。あの「さくっ」をもう一度聞くために、私は前を向いて歩き出した。


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